→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.25] ■■■ [420]非記載の外交関係について 独自に国史を作るということは、帝国と対等を意味するからこそ、編纂命が下ったのだから。(朝鮮半島は早くに中華帝国圏とされ、政治に於ける公用語はすべて漢語化され、信仰は儒教となってしまった。その結果、独自の国史は作れなかった。しかも王朝転覆の戦乱ありきの地域課してしまった。そこらの事情を、亡命百済王族から聞いていたわけである。当然ながら、百済には国史はない。国家滅亡後、亡命してきた王族が大和朝廷の支援のもとで編纂した書が残るだけ。) そのため、東シナ海の政治状況については全くふれていないが、半島の国家との関係の方は選択的に情報が収録されている。どのような方針で編纂されているかはわかりずらいのが難点であるが。 📖海外の国が突然登場する理由 ただ、よくよく考えてみれば、崩御年の記載開始が中・下巻の境辺りに設定していることから見て、朝廷はその辺りから中華帝国の暦を使用する必要性に迫られていたことになろう。「古事記」は国史とは違って100%国内読者向けであり、歴史書でもないから、天皇歴だけで十分なのにわざわざ記載しているのは、そこらの状況を伝えようとしているのでは。 要するに、中華帝国の書籍に目を通すことのできる人なら、事情はお見通しということになる。中華帝国官僚は、<高句麗>は別とし、<百済>+<倭+新羅+任那+加羅+秦(辰)韓+慕(馬)韓>という体制で操る算段を、インターナショナルな視点で繰り広げていたのは明らかなのだから。(半島、といってもおそらく百済域に当たるのだろうが、前方後円墳が造営されている時期と考えられるから、、倭のそのような展開を認めないというのが帝国官僚の一貫した姿勢ということか。) すでにまとめたが、「宋書」と「古事記」の絶対年は、ほとんど違っていないから、このような見方でよさそう。📖干支で絶対年代はそれなりに読める この東晋=南宋時代の朝貢による中華帝国圏内化の時期の前は、ほぼ1世紀に渡って外交の記録が見つからない。連合国体制には程遠く、外交どころではなかったのだろうか。その前が有名な「魏志倭人伝」の時代になるから、女帝でないと内乱必至のイメージもあり、そんなところかとなるが、「古事記」からはそこらがさppり見えてこない。 しかし、御陵の話ついでで、そこら推定できないと迄ではないと、しておこう。それは天皇名である。 大倭帯日子と大倭根子日子の時代があり、それが中華帝国との外交があったことを意味しているのではないかと。もともと、天皇を名前で呼ぶのは比例であるし、自ら名乗るのは求婚の時だけであり、天皇名の多くは出身地、つまり養育してくれた有力勢力の通称地名を用いている場合が多い。つまり名前自体がinformativeで、文字表記でその天皇代の特徴を示しているということができる。ここらは中華帝国皇帝名を参考にして、儒教的センスで天皇の人柄を2文字化する後世に成立した慣習とは全く異なる。覚えやすいので、どうしても使いがちだが、折角の太安万侶の心配りが無駄になってしまう。例えば、大雀天皇とは、大規模御陵の天皇を意味していると考えるべきではないかということ。 そうなると、大倭帯日子-国押人天皇とは、中華帝国に対し倭国の存在を主張し始めた天皇と思われるし、大倭根子日子-国玖琉命は、半島の国土を引き寄せた天皇を意味している可能性が感じられる。 そうだとすれば、"魏志倭人伝"の世界は、この辺りの天皇代であることを伝えているようなもの。 上記の「宋」書は儒教国としてのポイントを指摘している訳で、儒教の浸透度合いで分けていることがわかる。<高句麗>は名称も標準化され、段階を踏んで帝国内の国にされる位置にある。<百済>はそのうちその段階になるだろうとみなされているが、抵抗感あるなら直轄統治化になろう。それ以外は基本蛮族であり、どうなるのかわからないから、天子の威光が届いている中華圏内国として扱うだけにすぎまい。それは東シナ海では6か国あり、内部がどう転ぼうと大勢に影響なければ、どこかの国に代表させることになるが、それ以上ではなかろう。 その半島5国もゴチャゴチャとした小国連合も含まれており、およそひとまとまりになりそうもない状況。半島の倭の出先は、そのなかに埋もれてしまわざるを得まい。百済は、高句麗の姿勢を見習い、中華帝国に倣うことでゴチャゴチャから脱して領域拡大に成功したものの、同時に、非儒教の倭国の影響下にもあったから、当初から、どの道存続は難しい立ち位置にあったと云えよう。 倭国の首脳陣は、"魏志倭人伝"的な外交関係から、そこらを早くから直観的に理解していた可能性もある。文書管理官僚体制と儒教を根幹にすることなく、倭国の強化に勤しんだと見てよさそう。そのメルクマールが前方後円墳祭祀である可能性が高い。おそらく、百済を儒教圏でなく、前方後円墳祭祀圏に囲い込もうという方針だろう。それが、百済 v.s. 中華帝国圏の軋轢を生んだのは間違いなかろう。 要するに、中華帝国と倭国の社会風土は余りに違いすぎていたということだろう。 (中華官僚からすれば、倭の高級官僚は裸足で冠もつけず、床に座ると聞けば、それだけでも、仰天だったに違いない。しかも、顔に入墨する臣まで存在し、文字は使わず、訳のわからぬ歌謡を伴う朝会を行うという国家の存在に奇異の念を抱いたに違いない。しかも、男王が表の政治を取り仕切っているものの、その裏で祭祀を司る女王が絶対的権限を握っており、信仰自体も理解しがたいもので、全く異質な国家とみなした筈。 そのような状況での外交に、倭総体としてどれだけの意味があったのかはよくわからないところがある。青銅鏡出土が関係を物語るが、短時間で精錬鋳造技術は倭が優ってしまったようで、鉄器にしても半島は鋳造品大量生産だけで、倭の技術とは全く異なるので、そこらが重要だったとも思えないし。) ┼┼┼倭王┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼天皇 ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼⑮ ├──┐┼┼┼┼┼┼┼│ 賛┼┼珍┼┼┼┼┼┼┼⑯ ┼┼┼│┼┼┼┼┼┼┼├──┬──┐ ┼┼┼済┼┼┼┼┼┼┼⑰┼┼⑱┼┼⑲ ┼┼┼├──┐┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼├──┐ ┼┼┼興┼┼武┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼⑳┼┼㉑ 「古事記」 ⑮品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇 394年[甲午]崩御@135歳 --- ↑中巻 ↓下巻 --- ⑯大雀命/仁徳天皇 427年[丁卯]崩御@83歳 ⑰伊邪本和氣命/履中天皇 432年[壬申]崩御@64歳 ⑱水歯別命/反正天皇 437年[丁丑]崩御@60歳 ⑲男淺津間若子宿禰命/允恭天皇 454年[甲午]崩御@78歳 ⑳穴穂御子/安康天皇 __崩御@56歳 ㉑大長谷若健命/雄略天皇 489年[己巳]崩御@124歳 △飯豊郎女王 ㉒白髪大倭根子命/清寧天皇 無記載 ㉓袁祁王之石巣別命/顕宗天皇 8年間統治 __崩御@38歳 ㉔意祁命(袁祁命の兄)/仁賢天皇 無記載 ㉕小長谷若雀命/武烈天皇 8年間統治 ㉖哀本杼命(品太王五世孫@近淡海國)/継体天皇 527年[丁未]崩御@43歳 ㉗広国押建金目 命/安閑天皇 __535年[乙卯]崩御 ㉘建小広国押楯命/宣化天皇 無記載 ㉙天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇 無記載 ㉚沼名倉太玉敷命/敏達天皇 14年間統治 584年[甲辰]崩御 ㉛橘豊日命/用明天皇 3年間統治 587年[丁未]崩御 ㉜長谷部若雀命/崇峻天皇 4年間統治 592年[壬子]崩御 ㉝豊御食炊屋比売命/推古天皇 37年間統治 628年[壬子]崩御 房玄齡@唐「晉書」卷十帝紀安帝・恭帝 ≪東晋(首都:建康)≫ [10代]396-403年//404年-418年:安帝 └[11代]419年-420年:恭帝 【413年】安帝・・・義熙・・・九年・・・ 是歲,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物 沈約@南梁「宋書」卷九十七列傳第五十七夷蠻488年 ≪南朝宋(首都:建康)≫ 420-422年:高祖/武帝 ├422-424年:少帝 └424-453年:太祖/文帝 ├453-464年:世祖/孝武帝 │ └464-465年:前廃帝 └465-472年:太宗/明帝 ├472-476年:後廃帝 └476-479年:順帝 <東夷-倭國> 倭國在高驪東南大海中,世修貢職。…世代を越えて朝貢 【421年】高祖永初二年, 詔曰: 「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」 【425年】太祖元嘉二年, 讚又遣司馬曹達奉表獻方物。 讚死,弟珍立,遣使貢獻。 自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。 【438年】[卷五本紀文帝]元嘉・・・十五年・・・夏四月・・・己巳, 以倭國王珍為安東將軍。・・・ 是歲,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。 【443年】二十年, 倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。 【451年】二十八年, 加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。 【460年】[卷六本紀孝武帝]大明四年・・・十二月,倭國遣使獻方物。 【462年】世祖大明六年, 詔曰: 「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」 興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。 【462年】[卷六本紀孝武帝]六年・・・三月・・・壬寅, 以倭國王世子興為安東將軍。 【477年】[卷十本紀順帝]昇明元年,・・・冬十一月己酉, 倭國遣使獻方物。 【478年】順帝昇明二年, 遣使上表曰: 「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝コ覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |