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■■■ 「古事記」解釈 [2022.6.17] ■■■
[532]橘も花木としての扱い
花木については、<橘>についての記載を避けておきながら、その代表は櫻・柊・藤であるとしたのは、用例が厄介なので説明すると煩雑になるから。他意は無い。📖花木とは櫻・柊・藤
と云うことで、その辺りを取り上げておこう。

面倒なのは、用例の解釈が錯綜しているにもかかわらず、その点についての説明を見かけないせいもある。できる限り余計なことは書かないつもりで来たが、えらく気持ち悪いことは間違いない。・・・

たちばな [呉音]キチ [漢音]キツ [訓]たちばな きっ
[地名]竺紫日向之小門之"阿波岐"原
[神名等]比賣命 大郎女 之中比賣命 之豐日命 本之若子王 橘之豐日命/豐日命
[地文]登岐士玖能迦玖能木實者 是今者也
[歌44]いざ子ども 野蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道の 香はし 花橘[波那多知婆那]は 上枝は 鳥居枯らし 下枝は 人取り枯らし 三栗の 中枝の 穂積り 赤ら乙女を いざ挿さば 好らしな

上記から、橘の初渡来は常世の国からということになろう。その結果、その結果、この漿果への期待から、あっという間に広く栽培されるようになったと考えるのが自然である。📖多遲摩毛理@墓制と「古事記」(18)
しかるに、地名での"橘"の初出は"禊祓と三貴子"段。これでは、初渡来の筈はなかろうとなる。矛盾なく解釈するとしたら、この語彙は、柑橘類植物としての1種という狭い定義ではなかったと見るしかあるまい。
さらに、15代天皇が皇子に美女を譲り渡した時の歌にも登場してくるところを見ると、"たちばな"が"立ち花"という意味だろうとの推定が可能だ。
解説を見ると、万両や藪柑子との説ありとされるが、それぞれの地域で酢として使っていた漿果柑橘もありえよう。もともとブロードな概念だったが、多遲摩毛理が移植した種の人気で他が一掃されたと見る訳である。

もう一つ注意を要する点がある。大陸での観点では、橘・枳の該当種はかなり異なる種の可能性もあるからだ。(当然ながら、中国の植物学者の同定。)
  橘逾淮而北為枳
   鴝鵒不逾濟 貉逾汶則死 此地氣然也
[「周禮」冬官考工記]
もちろん、日本では、大陸種は別ということは古くから知られており、唐橘<枸橘/枳殻>と呼ばれて来た。しかし、その唐橘にしても、現行植物名のカラタチバナは非柑橘であり、かなり異なる種だとしか思えない。 (後世の表現であるが、ナデシコ同様、唐橘に対応する用語は大和橘。花橘とは襲の色目。)

ただ、このような錯綜は発生して当たり前。"立ち花"の意味が現代発想の植物分類で概念化できる筈がない。語彙として通用していたのだから、漿果柑橘類植物というイメージの用語というしかあるまい。柑橘の実の違いは大きいから、子供でも分かるものの、峻別しなかったことに注目すべきだろう。古代の人々の観察眼自体は現代人より格段に優れていたにもかかわらず、曖昧にしているように映るのは、"虫媒花木=漿果類"として一括化するしかなかったからとしか思えまい。要するに、外見上の植物種は100%同一にもかかわらず、果実が不可食なほど酸っぱかったり苦い場合があり、果実木として分類しがたいと見られていたに過ぎまい。

おそらく。柑橘は珍しくはなかったが、使用価値は低かったのだろう。しかし、現代で言えばビタミンC豊富で、沢山食すれば長命化に寄与するとの知識は仏僧を通じて知られていたのだろうが、とても食べられたものではなく、可食種は垂涎の眼で見られていたのだろう。
梅は不可食実だが薬として素晴らしいということで人気の栽培品種として庭木になったが、橘も同様に、薬効果甚大ということで、こちらは可食タイプが広がったのでは。両者ともども、木から命の息吹を頂戴することになるので、花木として愛でるのは当然の姿勢と云えよう。

しかし、魅力的な植物種の移入は一筋縄で行くものでは無い。

中華帝国の何千年もの仕組みからすれば、何処に生えていようが、帝国圏内なら、素晴らしい植物となれば天子専用とされ、それを犯せば即刻処刑だからだ。中華帝国とは、官僚統制が隅々まで貫徹する強権的仕組みで成り立つ社会だから、それなりに厳格である。しかるに、それは同時に、賄賂だらけで、"そのうち革命到来"を前提とした宗族繁栄最優先主義の隠れた動きが存在するのが常態であるとも言える。本質的には、短長期両面での合理主義者の集まりなので、ルールに諾々と従っている社会ではない。
従って、移植が許されない状況でも、抜け道は必ず存在する。「古事記」の初渡来譚とは、それを語っているともいえよう。まさにインテリならではの記述。

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