→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.17] ■■■ [562]安万侶の独自文化観(3:仮名重視) 換言すれば、官語発音とは天子に合わせて更新され、それと同時に前王朝の音は駆逐されるに過ぎない。科挙官僚間での熾烈な出世競争がある以上、自然にかつ急速に進むのは当たり前。 要するに、漢字の発音は安定していないのだ。それに応じて、倭国で、呉音・漢音・唐音・宋音といいった漢字の読みが生まれる訳だが、潰れた王朝の発音を大事にして、できる限り並列的に使うという姿勢は、大陸からみればえらく奇異に映るに違いあるまい。 こんなことを可能にさせたのは、背景的には、多くの高等難民を受け入れて来た雑種民族ならでは体質もあるが、「古事記」の文字表記原則に影響もあると見てよいのでは。 つまり、漢語の原則である、1文字1発音でなく、複数発音で構わぬとした点。文脈に合わせて読めばよろし、としたことになる。 この場合悩ましいのは、倭語の文脈理解に必要な箇所に対応する翻訳文字が無い点。 1つは、テニヲハのような助詞で。 もう1つは、語彙末尾に封着する活用語尾である。 この表記を、わかるように工夫したのが「古事記」地文ということになろう。 太安万侶は、このあたり熟考し、間違いなく読めるように文字を厳選すべきと提起していると見てよいだろう。 その主張は、以下のように考えればよいのでは。・・・ <テ>の基本文字は、 而は句間辞用文字であり、接続助詞として使われていると見なされることが多い。従って、素直に読めば<テ>になる。しかし、知らん顔で読まずでもよいし、文脈の繋がり具合でアドリブ的に複雑な読みを与えても一向にかまわないということになろう。📖[安万侶文法]而の訓 このように考えると 其王作稻城以待戰 稲城を作りて⇒稲城を作り あくまでも[正訓] 御製の歌で 音素表記文字としての<テ>文字はこれで十分。 ただ、濁音は別文字化しないと、ママ発音の濁音漢語が流入しているので、混乱必至である。 「万葉用字格」 一見ゴタゴタしているように見えるが、各文字には収録巻が示されていることで、その考え方がよくわかる。「萬葉集」の主要歌人の作品を一瞥すれば、こうした文字使用は作風を示すものであることに気付かされるからだ。例えば、旅人は記載から標準志向と思われるが、憶良は才をひけらかすタイプに映ることになる。 歌は原則音素文字だから、そんなことをしてもかまわぬと、太安万侶がお墨付きを与えた結果そうなったと見ることもできそう。 その究極が<て(接続助詞)し(強意の助詞)>の表記だろう。 伝承叙事詩を記載する「古事記」では、当然ながら、標準的用法文字に留めることになる。 宇知弖志夜麻牟[撃ちてし止まむ] しかし個性豊かな歌人の作品を集めている「萬葉集」はそうはいかない。 「万葉用字格」は[戯書]として、呆れかえるような用例を収載していることで、それがはっきり見てとれる。とても<てし>と読めたものではない2種の文字だが、本居宣長の弟子であるから、師の読み解き流石と思って収録しているに違いない。 義之⇒王羲之(大王)⇒書家⇒ [父]王羲之(書家大王) [息子]王献之(書家小王) 「古事記」では大王という呼称は使われないが、勿論のこと、普通は[正訓] この"王羲之"箇所だが、"フ〜ン。教養あるネ。"で片付けられない問題を投げかけている。 「萬葉集」は歌集だが、口誦不要で、目で鑑賞する読み物であることをいみじくも語っているようなものだからだ。倭国の審美眼は、どの文字(文字の物理的形態)を選ぶことより、文字の筆記表現(筆跡上の巧拙)に向けられていたことを示すといってよいだろう。 「古事記」とはその点で、水と油の可能性さえある。極端に言えば、「萬葉集」は誤字に拘らないで作成されたが、「古事記」は一つ一つの文字を大切にして編纂されていることになる。 太安万侶が<弖>に拘る理由がそこから透けて見えてくる。この文字は、唐朝の高級官僚によって、通俗的文字で官語にふさわしくないとみなされ、抹消されたのであろう。それをママ受け入れるつもり無しというのが、太安万侶流。漢字の発音にしても、随・唐朝の官語発音を避け、仏僧に確認した、それ以前の発音(呉音)を基本としているのは、ここらの姿勢が起因と云えそう。 随・唐朝は詐称の非正統王朝と見なしている可能性さえあるが、渡来語彙が大量に使われると、時々の王朝で読みが変わるので、漢字読みが錯綜しかねず、基本音素の読みは確定しておく必要があるということで、一番古いと目される音を使用すべきとの結論に達したのだろう。 これを徹底するのが難しくなって、後世、漢字のルビ的に使える片仮名が登場したともいえよう。 ----- 【補足】 この辺りの話になると、どうしても語法に焦点があたってしまうが、ココは文化論として考えてこそ意味がある。 文法用語の、助詞・助動詞とか活用語尾とは、伝えたい内容を補助する部分であって、単独では何の意味もないから、修飾的な役割ということになる。しかし、この部分を欠くと意思疎通は不可能になるし、不適切な用法だと誤解は避けられない。 倭語〜日本語では一貫してこれらの詞は意味ある語彙に対して、単純に後置されるだけで、相互干渉は避けられてきた。 その一方、修飾と云っても、単独に意味を持つ言葉は必ず前置され、後置されることはないという極めて厳格なルールが遵守されている。 これだけでも、印欧語・漢語といった、主語-述語構造を根幹とする言語との違いは歴然としていると云えよう。太安万侶の鋭さは、この特徴のお影で、漢語の<主語-述語-目的語>という、倭語では意味が薄い順番記述規則で書かれた文章も、単語が認識できるなら順番不動と見なすだけで100%倭語として読めると見抜いた点。つまり、漢文構造と非漢文構造で語彙を並べたトンデモ文章でも、前置と後置の部分と、句の句切れさえ見えるように補足してあれば、ゴチャゴチャに見えるだけで、純倭語表記文として十二分に機能するということ。(1個人では限界があるから、仏僧達の試行錯誤的努力の成果に依存しているのは自明である。) 要するに、倭語の漢字表記はなんら難しくないと気付いたということ。 ・・・ここからが肝要なところ。 このことで、太安万侶は、倭語に流れる底流に気付いたのである。天竺も震旦も交流域拡大で様々な表現が混淆してくるし、王朝転換で言葉もかなり変化してしまう。誰が考えても、言語的には複雑化は避けられない。それが世の流れと思いがちだが、倭語はその流れに棹さすタイプ。これには、おそらく仰天したに違いない。逆と思いがちだからだ。倭語では、言葉は驚くほど多義であり、現代の漢字の読みにしても少なくとも呉音・漢音・訓があって当たり前。「古事記」の時代、すでに訓自体も複数だし、当て字ならぬ勝手読みも横行しており、それどころかそれが奔流化することさえあるという現象まで生まれているのだ。(日下の読みは現存しており、こうした体質はなんら変わっていない。)ところが、いざ、倭語の文字表記化の作業をして音素を眺めてみると、できる限りの簡素化への流れが出来上がっていたのである。必要に応じて、新たな音素が生まれることは必至だが、それは複雑化の道を歩んでいる訳ではなかったのである。(特異と云えるのかも。) (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |