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■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.27] ■■■
[572][放言]太安万侶は習合論者
小生は、太安万侶こそ正真正銘のインテリと見る。その一大特徴は余計なことに首を突っ込まず、自分の職掌についてはほぼ完璧に仕事をこなすことにある。そのため、一見、狭い領域での活動しかしていないように見えるものの、実は、インターナショナルなセンスで物事の本質を見極める力を常に養っている。それこそが、自由な精神活動が可能な根拠だからだ。
そのお蔭で、視野は広く、俯瞰的に物事を眺めることができる。もちろん、滅多に見当たらない人物である。
現代では、蛸壺の中で優秀性を誇示しないと認められない仕組みなので、広い分野で意見を述べることができるといっても、ほぼ一知半解の域を出ない。分析力に長けた物知りはいくらでも生まれるが、概念的把握力を磨いていないから、本人は気付いていないが、軽薄なモノの見方しかできようがない。社会の構造上、インテリは育ちようがないからこればかりは致し方ない。

・・・いかにも余計な前置きだが、ここらを話しておかないと、とんでもない題名で書くので、意味が通じなくなりかねず、ご容赦の程。

先ず、押さえておくべきは、「古事記」には仏教を示唆する欠片さえ記載されていないが、インターナショナルなセンスで編纂しているのは明らかだから、仏僧とのサロン活動を行っていない筈がない、という点。
(但し、「古事記」と国史を一緒に読もうというお考えなら、この見方はお捨てになるのが賢明。太安万侶を廃仏論者として扱うのが妥当と云えよう。当然ながら、「古事記」は、古き伝承を、校訂作業無しに適当に寄せ集めた書という以上ではない。国史より古い成立なので、補遺としての位置付けになろう。歴史書読みとは、そういうもの。)

もちろん、それを裏付ける証拠がある訳ではないから悩ましい。

天皇が係る祭祀での歌謡を、臣下の繋がりを明示した神統譜・皇統譜上に整理した、文字化叙事詩だから、仏教を取り上げる必要は無いのはわかるものの、なんらの注記も無いのは、用字配慮の心配りをしている姿勢とは余りに違いすぎるのも、主張しにくい点である。

そうなると、仏教については、なんらかのメッセージを別途組み込んでいる可能性ありということになろう。

先ずは、宝唱:「経律異相」516年との関連を📖[安万侶サロン]膝枕は仏典由来だろうか、改めて見直す辺りから始めるしかないか。(この漢籍は、仏典の百科事典であるが、そう書くとイメージ的誤解が生じやすい。「今昔物語集」の大元ネタ本の1つなのだから。)📖「法苑珠林」の扱い

確かに多少気になるところはある。・・・

序文の漢文で用いている語彙"未經幾年"は、いかにも「経律異相」的だからだ。
  於是天皇詔之「・・・未經幾年其旨欲滅」
さらに、本文で、この漢文と同等な用語を平然と使用している。
  夜半之時 焂忽到來 故相感 共婚供住之間 未經幾時 其美人妊身 爾 父母恠其妊身之事
  何撃遣西方之惡人等 而 返參上來之間 未經幾時 不賜軍衆
なにもこのような用語を使わなくとも表記可能だと思うが、社会的な常用語として記載しておきたかったのだろう。

もう一つ、意図的な記載と思わせる箇所がある。

現代人でも不善と書くとそれだけで儒教的に映るが、常用語彙と云ったてよいだろう。ところが、一般的漢籍では、それに1文字付けて不善心と書かれている例を見かけることはない。このことは、この語彙は、仏教用語的な雰囲気を醸し出してしまうと見てよさそう。
そんな用語を敢えて使っている。
  國土皆震 爾天照大御神聞驚 而
      詔我那勢命之上來由者 必不善心

・・・このように書くと、その後の鎮護仏教国家化を想い起させて、仏教に取り込まれ始めている印象を与えかねないが、冷静に眺めれば、序文でも語られているように、入り込んでいる渡来観念としては道教が主流である。
<黄泉>国譚が最重要の位置づけであるのは明らかであり、この語彙は道教に於ける死後所往地なのだから。

仏教の地獄概念とは異なるものの、蘇生黄泉返りがある点では大いに共通性がある。(道教は官僚制社会前提なので、現世同様に対処することになるし、仏教だと因果応報テーゼに従えば、功徳に努めた点を評価してもらえさえすれば、なんとかなる。)ところが、これが倭国の概念とどれだけ一致しているのかの判断はえらく難しい。

異界については、いくつも記載されているので、どうなっているのかさっぱりわからないからだ。・・・黄泉ヨミ國 ハハ國 之堅洲國 トコ(ルビは正訓。)
それに、死は穢れの発生との観念が定着している割には、その穢れから大神が生まれるし、死した大神の持者が葦原中国統治の正統性を意味するレガリアになるなど、高貴神聖性が同時に存在していることになる。異界から寶物を持ち帰って繁栄するのとは訳が違う。

しかし、考え方を変えれば、倭国の風土とはそういうものというだけの話かも。理屈とか教義で成り立っている信仰ではないことを示しており、現時点で生活上不可欠と考えられる神を尊崇するだけということと考えれば辻褄があう。
地祇とはよく言ったもので、その地の土着民にとっての生活上不可欠と考えられる信仰が定着しているということで、国家として国家的に統合できるような性情ではないということになる。生活上に変化が起これば、新しい神は次々と生まれるのである。それは、渡来であろうが、自発的に成ろうと、かまわない。その数を無限にすることは祭祀上不可能であるから、まとめられもしようし、見捨てられることも無いとは言えない。
このことは、倭の信仰は、そこ存在する多くの精霊をおまつる祀りするのとは違い、新しい神が次々と登場し、従来の神々と同居するという特徴を有することになろう。
これこそ、混淆の原点であり、おそらく仏教が混交を図ったというより、土着観念に飲み込まれていくため、教義宗教としてのアイデンティティを保つために打った手と考えた方が自然だ。
一般に、アニミズム社会は政治的にフラグメントしやすく、軍事的に制圧されると一神教に席巻されやすいが、倭国の信仰はそれとは異なることになろう。

太安万侶はそのことに気付いていたのであろう。
天照大御神が高天原統治を盤石にしていく第一歩の時点で、不善心なる語彙を使ったのは、それなりの意味があることになろう。
聖徳太子の流れの仏教が鎮護国家祭祀に取り込まれていくことを予想していたことになろう。
そんな見方ができるとしたら、「今昔物語集」が指摘する、本朝仏教3流について気付いていたことになろう。すでに、山岳修験や社会インフラ構築の僧侶が存在していただけでなく、ローカルな檀那が支えていたのかも知れず、そうなると、事実上、非朝廷の仏教組織が生まれていたことになる。・・・とすれば、この動きを無視して仏教伝来の注記でもなかろう。
後世からすれば、これらは密教と顕教の仏教組織の前身ということになろうが、バラバラな地場信仰を繋げる役割を果たしたと考えることもできよう。表面的には、仏教による習合ということになるが、新しい神が生まれて、既存の祭祀対象の神々と同居することになっただけで、地場の人々からすれば大展開を図っている訳でもなかろう。
もともと教義など皆無であり、神を祀るという行儀が決まっているだけだから、倭複数神の習合的信仰を基本とする社会ということになろう。
太安万侶はそこらの特徴をわかり易く指し示したと云うこともできそう。

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