→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.20] ■■■ [596]枕詞 ささなみの志賀について 太安万侶は枕詞としては使いたくなかったが、用語としては収録しておきたかったと見える。御製であるが、どう理解すべきか意見が割れるので有名。要するに、意味不詳語彙はあるは、展開の繋がりが一意的でないはで、敢えて解釈するものだから、テンでバラバラという無様な状況になっているだけのこと。(従って、議論に意味は無い。) ・・・そもそも、枕詞が存在しているのは確かだが、単純分析で一応"確定"しているに過ぎず、その由来・意味は不詳。提起されているのは、恣意的なヒント程度でしかない。にもかかわらず、歌は解釈可能という理屈が通る筈がなかろうと思うが。(阿部 萬蔵&阿部 猛 (編集):「枕詞辞典」同成社2010年には1078語もが所収されているという。) そこに、ド素人がさらにコメントするのもナンだかねだが、木船琴の地文を叙事詩的に訓じたこともあり📖「古事記」の叙事詩的読みに挑戦、この歌も意訳しておこうか、という気になった。挑戦ではあるが、様々な解釈にさらに付け加えたいというのではなく、編纂者の考え方を読み取るべしと主張しているに過ぎない。 [歌43]【天皇】矢河枝比売を迎えた大御饗酒宴での喜びの発露 この蟹や いづくの蟹 【百伝ふ】 <角鹿>[@敦賀]の蟹 横去らふ いづくに至る 【伊知遅島】 <美島>[est.御島=竹生島]に著き 【鳰鳥の】 <潜き>息衝き 【しなだゆふ】 <佐佐那美>道[@琵琶湖西岸]を すくすくと 我が行ませばや 木幡[@宇治]の道に 遇はしし嬢子 後方は 小蓼ろかも 【(歯並は)椎菱なす】 <櫟井>[@天理櫟本]の 丸邇坂の土を 初土は 膚赤らけみ 底土は に黒き故 【三栗の】 その<中>つ土を 【頭著く】 <真火>には当てず 眉画き 濃に書き垂れ 遇はしし 女 かもがと 我が見し児ら かくもがと 我が見し児に 現たけだに 向かひ居るかも い副ひ居るかも ⇓意訳 (蟹料理を前にして) ---そこの蟹さん 何処のご出身? えらく遠方の敦賀からの蟹ですが。 ---横歩きして 何処を目指してるの? 斎の御島へと。 カイツブリのようにほとんど歩かず、ようやく息継ぎ。 さらに、【しなだゆふ】笹藪土手の西岸道を 颯爽と歩いて行った訳ですよ。 すると、宇治辺りで乙女に遭遇しまして。 後ろ姿は、まるで紅色蓼の高い穂の様な。 ところで、ドングリ歯並びとでも呼べそうな 櫟本の地面を掘れば 最初の赤土は膚のようで明るすぎで 底は黒土になってしまうので暗すぎ。 三栗の間の部分と同じ様に、中土を使って 頭を突く様に直接火にぶつけずに煎って眉墨に。 そんな、 濃くて長めの眉目が素敵な乙女に遇ったのだよ。 我の眼にした娘子と、かようなことをしたい、 我の眼にした娘子と、こようなこともしたい、 と想うものの こうして現実に戻って見れば (この宴席で) 向かいに居る訳だし、 隣り合っても居る訳だ。 全体を通してみれば、蟹がやってきた地名譚が並べられているような体裁。(敦賀⇒竹生島⇒琵琶湖南西⇒宇治⇒天理櫟本)それは、 宴会での食は、統治を意味する行為であり、ここでは越前蟹(♂ズワイ/頭矮:"蟹王")が供されたのだろう。蟹は從虫解聲[「説文解字」]でもあるし、日本海(中華帝国からすると寒冷流の北海域)の特別な種でもあるが、ここでは、巫@北海域(太陽に焼き殺される。)を示唆していそう。 海内有兩人 名曰女丑 女丑有大蟹[「山海経」大荒東経]📖 さて、上記の< [戯書] ・・・遊び表現とされており、神樂のはやし(囃子) or 近江志賀郡 ~楽歌には"篠波 あ(未)しはら田の"とあり、囃子詞の"サ(ッ)サ"とも見られているが、篠靡が笹藪地帯の地名でもあることも間違いなさそう。 志賀ノ郡ノ<篠波>山ノ麓ニ至ヌ [「今昔物語集」[巻十一#29] 天智天皇建志賀寺語] しかし、ここで改めて考えてみると、山名になっているのだから、<細波>とするのは、湖岸地元での当て字の可能性が高そう。 淺井家紀錄引近江國風土記云:淡海國者 以淡海為國號 故一名云細浪國 當思 所以 向觀湖上之漣漪也[「近江國風土記」(逸文)] ともあれ、「萬葉集」では、【神樂声浪・神樂浪・楽浪】が<志賀>の枕詞として用いられている。・・・ [巻一#29]樂浪乃大津宮尓 ---過近江荒都時 [巻一#30]樂浪乃 思賀乃辛碕 ---過近江荒都時 [巻一#31]樂浪乃/左散難彌乃 志我能大和太 ---過近江荒都時 [巻一#32]樂浪乃 故京乎 ---感傷近江舊堵 [巻一#33]樂浪乃 國都美神乃 ---感傷近江舊堵 [巻二#154]神樂浪乃 大山守者 [巻二#206]神樂浪之 志賀左射禮浪[サヾレナミ] 敷布尓 [巻三#314]小浪 礒越道有 能登湍河 [巻四#526][巻十二#3024][巻十三#3244]小浪 [巻十二#3012]左射禮浪 [巻十三#3226]沙邪禮浪 浮而流 長谷河 [巻十七#3993]阿之賀毛佐和伎[葦鴨騒き] 佐射禮奈美 [巻二#218]樂浪之 志賀津子等何 [巻三#305]樂浪乃 舊都乎 [巻七#1170]佐左浪乃 連庫山尓 [巻七#1253]神樂浪之 思我津乃白水郎者 [巻七#1398]神樂聲浪乃 四賀津之浦能 [巻九#1715]樂浪之 平山風之 [巻十二#3046]左佐浪之 波越安蹔仁[波越すあざに] 落小雨 [巻十三#3240]樂浪乃 志我能韓埼 [巻十六#3887]神樂良能小野尓 茅草苅 どう考えても、この語彙は、"樂浪(@現 平壌大同江南岸)海中有倭人 分爲百餘國"[前漢「地理志」]から続いて来た用語としか思えない。15代天皇の、大陸との敦賀ルート重視姿勢と云うか、東漢人と称される渡来人重用政策へと梶を切ったことを、この言葉で表していることになろう。「萬葉集」の後世表現からすれば、それは大津宮の天智天皇の方針を象徴する言葉に該当する。 中華帝国との外交については触れない姿勢を基調とする「古事記」としては使いたくない用語である。 この言葉が、お神楽囃子詞の"サ(ッ)サ"が繋がっていたというのは、少々無理がある気がするが、倭の噛み酒でなく、渡来人製造酒で寿ぐということであれば、笹葉で踊りながらの" [歌40]【神功皇后】天皇勝利凱旋の酒宴 此の御酒[美岐]は 吾が御酒ならず 御酒(奇[久志])の司[加美] 常世に坐す 石立たす 少名御神[須久那美迦微]の 神祝き[加牟菩岐] 寿き狂ほし[本岐玖琉本斯] 豊寿き[登余本岐] 寿き廻ほし[本岐母登本斯] 奉り来し御酒そ[麻都理許斯美岐叙] 浅ず飲せ ささ[佐佐](囃子) [歌41]【建内宿禰】酒楽之歌崩御後実質天皇位の皇后を補佐し祭祀進行 この神酒を醸みけむ人は その鼓臼に立てて 歌ひつつ醸みけれかも 舞ひつつ醸みけれかも この御酒のあやに歌愉し ささ[佐佐] 此者 酒樂之歌也 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |