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■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.31] ■■■
[607]百について一考
𓍢<百/佰>とは言うまでもなく十個の十だが、漢字の形態上は"一+白"。"一+百"の簡略表記と考えるとよさそう。多種あるいは数的な増大状況を意味する文字のようだ。呉音/漢音はヒャク/ハクであるが、訓は<もも・ほ>。(他に八百屋のホ⇒オはあるが。)
   [もも]・・・五百[い-ほ]・・・八百[や-ほ]
    []_[あまり]五百[い-ほ]・・・八百[や-ほ][よろづ]📖千五百や五十の意味

「古事記」の代表的用例を見れば、誰でもがご存じの通り、これ以外の読みが含まれている。・・・
八百万神
百濟國 百濟
百官 百師木伊呂辨 百姓之榮 長谷之百枝槻
僕者於百不足八十坰手隱而侍 亦僕子等百八十神者 百取机代之物


もちろん国名クダラのこと。
半島の<百済>も<新羅>も、その読みについての記載はないから、当時としてはその読みが常識化していたことがわかる。考えてみれば、百済国は、「古事記」成立時には既に滅亡していた(356-660年)から、読み方もなにもあったものではない筈だが。
「萬葉集」でも同様。
  [正訓]百濟クダラ
  [正訓]百磯城モヽシキ [借訓]百積モヽサカ 百石木モヽシキ
  [正訓] [借訓]五百入イホリ
[ニ巻#199]百濟之原従[百済の原ゆ]
[八巻#1431]百濟野乃
[十一巻#2407]百積 船潜納[百積の船隠り入る]
<ももしきの> 百礒城之 百礒城乃 百礒城乃 百礒城之 百式乃 百式紀乃 百礒城之 百礒城乃 百石木能 百礒城之 百師紀能 百礒城乃 百石城乃 百師木之 百礒城乃 百師木乃 百礒城 百礒城之 百礒城之 毛母之綺能
[一巻#7]借五百礒所念[仮廬し思ほゆ]
[一巻#50]百不足[百足らず]
[二巻#167]八百萬[八百万(やほよろづ)] 千萬神之
[二巻#205]五百重之下尓[五百重(いほへ)が下に]
[二巻#213]百兄槻木[百枝槻(ももえつき)の木]
[三巻#324]五百枝刺[五百枝(いほえ)さし]
[三巻#416]百傳[百伝ふ]
[三巻#427]百不足[百足らず]
[四巻#496]百重成[百重なす]
[四巻#499]百重二物[百重にも]
[四巻#546]百夜乃長[百夜の長さ]
[四巻#548]秋百夜乎[秋の百夜を]
[四巻#568]五百重浪[五百重波]
[四巻#596]八百日徃[八百日行く]
[四巻#626]五百重隠有[五百重隠せる]
[四巻#731]千名之五百名尓[千名の五百名に]
[四巻#764]百年尓[百年に]
[四巻#774]百千遍[百千たび]
[五巻#886]百重山
[六巻#931]五百重波因[五百重波寄す]

それにしても、百済の代替読みは耳にしたことがないのが不思議。
どう見ても音読みではないし、といって倭語の発音の当て字ではない。漢字表記で百済なら、ヒャク-サイと呼ばれてもおかしくないと思うが。
考えられるのは、百済の渡来人の意向を尊重したということだろう。

新羅については、事実上出征して国王門に御杖をつきたてることで事実上の属国化を果たしているとし、その役割を馬飼としているから奴婢扱いも同然だが、百済は船渡とされており、倭国の古からの神々と近しい位置にあると云っているも同然なのだから。
しかも、渡来新羅人に作らせた池の名前が百済池である。小馬鹿にして徴用したとしか思えない行為である。 📖新羅友好話挿入の意図不明 📖新羅百済征
このことは、クダラは百済王族を中心とした高級難民達の百済語自称名"kuda"の読み方を尊重して"決められた"と考えるのが妥当だろう。

中巻末の天皇代での記載は、百済国王族と倭国皇族は、文化的に同一歩調で進めることで合意したことを示すと見てよさそうだからだ。
貢がれた馬は王権の象徴であり、古墳出土品で見られる様な特別仕様の装飾馬具に意味があろう。ツングース系文化が色濃い新羅での馬の位置付けとは自ずと異なる。横刀・大鏡も、倭国の王権と神権を象徴するレガリアであり、最高級工芸品を制作したことを意味しており、天皇命で行われたとはいえ、両国関係が単純な宗主国-属国ではないことがわかる。
千字文は何種か存在しており、漢字渡来の象徴と考えるべきではなかろう。百済国と倭国の漢語発音を統一しようという試みと見るべきと思う。中華帝国に倭国はすでに上奏文を提出しており、言語で、両国は統一した対応をとるべきということで意思一致したことを意味しよう。もちろん吳服とある以上呉音である。
呉は、三国時代の長江南側の国(222-280年)であり、織工女2名献上とされているから、ここでの呉は曖昧表現ではなく、海のルートで相当昔に絹織物技術者がはるばる渡来していたことになろう。その装いは、倭人には極めて魅力的だったことになる。着物は見た目もさることながら、気候適応機能が重要なので、海洋性モンスーンのい呉〜船山〜済州島〜百済〜倭のラインが揃い易いのは必然でもあろう。そういうことで、呉副を、社会上層部の装いの基本とすることでも方針が一致していたことを意味していそう。
亦 百濟國主照古王 以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上 <此阿知吉師者阿直史等之祖>
亦 貢上横刀及大鏡
又 科賜百濟國 若有賢人者貢上 故受命以貢上人名和邇吉師
卽 論語十卷千字文一卷幷十一卷付是人卽貢進 <此和邇吉師者文首等祖>
又 貢上手人韓鍛名卓素 亦 吳服西素二人 也


倭国が、この時期、この地域で、軍事覇権国の地位にあったのは間違いないから、このような方針が最良と判断したのだろう。要するに、半島とは違って、原理的に儒教信仰を導入することが不可能な倭国としては、中華帝国と根本的には対立的存在なのが悩み。蛮國として殲滅対象にされかねないので、儒教を取り入れた仏教国をバッファーとするのが最善策ということでは。
【ご注意】クダラ名の由来として考慮の価値があるのは馬韓地方の地名"居陀"のみと見て間違いない。
半島には古代文書皆無。せいぜいが木簡断片出土。これだけで言語的に云々できる訳がない。しかし、半島は一貫して儒教風土が維持されている地なので、後世資料を使うことで、小中華思想にとって都合のよい話が色々と流布され続けて来たのが現実。
それでも、半島外資料と、漢文の残存碑文から、日本から見て意味がありそうな歴史の流れはだいたいのところは読み取れる。・・・400年頃に高句麗(広開土王)の伽耶征服により難民渡来。この時点で須恵器生産が始まったと想定されている。さらに660年には百済滅亡。百済王族中心の高等難民が大挙して渡来。668年には高句麗も滅亡し、こちらからも難民流入。
従って、後世の半島編纂書だけは参考にすべきではなかろう。
まともな史書は、難民王族が日本国で作成した「百済本紀」「百済記」「百済新撰」だけと見て間違いない。1145年成立の半島初の史書とは、これらや中華帝国と日本国の史書を参照して、官僚が鋭意努力し仕上げた、小中華思想的作文以外のなにものでもないのは当たり前。考えればすぐわかると思うが、日本ではすでに北面の武士の時代に入っており、いわば、西行法師に海外資料をもとに古代の国史を書かせたような代物。
儒教は、王朝革命是認であり、焚書化は繰り返されるし、王朝断絶で漢字の読みも一変する。従って、現代の半島の言語や伝承と、異なる王朝の記述を繋げる試みは無理筋。


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