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■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.10] ■■■
[617]八雲立の不可思議さ
和歌の発祥とされている「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は取り上げ易い題材で、小生は、呉声の恋愛歌曲の前身たる、倭語の五・七のリズムに則ったものという点を強調した。📖五七調音歌とは呉詩の前身ではそこから相当に変身しないと和歌にはならないので、そこを勘案してのこと。
そもそも、どうして「八雲立つ」が枕詞なのかの説明が今一歩。ここらの納得感無しに、和歌との繋がりを想定するのは考えもの。・・・
[歌1]【速須佐之男命】作御歌大神初作須賀宮之時
    八雲立つ夜久毛多都 出雲八重垣 妻籠みに
    八重垣作る その八重垣を
[歌24]【倭建命】出雲健討伐自賛
    夜都米佐須やつめさす 出雲建が 佩る太刀
    黒葛多纏き さ身無しに あはれ
[巻三#430]【柿本人麻呂】溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌二首(2)
    八雲刺す 出雲の子等が 黒髪は
    吉野の川の 沖になづさふ

一応は、"八雲立つ"とは雲がモクモクと湧いたと記載されているものの、"八雲刺す"とも云うこともあるとなると、どうも合点がいかぬ。それに、地名譚も、"清々須賀し"と濁音になっている点も納得し難いところ。・・・
  到坐須賀地而詔之:「吾來此地 我御心須賀須賀斯 而 其地作宮坐」
  故 其地者於今云須賀也。
  茲 大神初作須賀宮之時 自其地雲立騰 爾作御歌


しかも、朝廷の命で出雲國造が編纂した「出雲國風土記」では、"八雲立つ"の地名譚は全く異なるとくる。
  【國】…(總記)
  所以 號出雲者 <八束水臣津野命> 詔:
  「八雲立」詔之
  故 云 八雲立出雲


この(つか)おみ=意美豆努は「古事記」の淤美豆奴に当たっているが、婚姻譚無しの由来であり、これでは何の説明にもなっていない。しかも、國引を完了して国土創成を意宇をゑと宣言し杖を立てた後に、出雲と呼ばれる地の杵築に移動する意味がさっぱりわからない。出雲は御子の一人が治めればよいのだから、わざわざ八雲を持ち出すということは、それこそ、もともと全体を取り仕切っている自負がある意宇の王から、祖たる速須佐之男命のレガリアを持つ出雲の王に権力が移行してしまったため、国譲り後に意宇系が再度出雲国全体代表となるために不可欠な話として挿入したように映ることになる。
そうなると、「古事記」のこの歌の部分は、"「八雲立⇒出雲」や「清々し」という地名譚が中央で伝承されていますが、どうも少し無理がありそうですナ。"というやんわりとしたご指摘と見るべきかも。そもそも、歌のテーマは垣であって、雲ではないのだから。朝廷からすれば、出雲國造が服属している限り、そこらはどうでもよいことだろうが、太安万侶は、皇統譜を叙事詩の核と位置付けて文字化しているから、出雲の系譜はないがしろにはできないからどうしても齟齬が生まれてしまう。
  ---「古事記」系譜---
須佐之男命 📖宇都志國玉~の宮
└┬△櫛名田比賣
八嶋士奴美神
└┬△木花知流比売
┼┼布波能母遅久奴須奴神
┼┼└┬△日河比売
┼┼┼深淵之水夜礼花神
┼┼┼└┬△天之都度閉知泥神
┼┼┼┼淤美豆奴神
┼┼┼┼└┬△布帝耳~
┼┼┼┼┼天之冬衣神
┼┼┼┼┼└┬△刺国若比売
┼┼┼┼┼┼大国主神 📖播磨国・出雲国と「古事記」神々の関連性
  ---「出雲國風土記」<八束水臣津野命>---
【意宇郡】…(國引神話)
所以 號意宇者 "國引坐"<八束水臣津野命> 詔:
「八雲立出雲國者 狹布之稚國在哉
 初國小所作 故將作縫」詔 而
「栲衾志羅紀 三埼 國之餘有耶見者 國之餘有」・・・

【嶋根郡】…(略記)
所以 號嶋根郡 "國引坐"<八束水臣津野命>之詔 而 負給名
故 云 嶋根

【出雲郡】…杵築鄉 郡家西北廿八里六十步
<八束水臣津野命>之"國引"給之後
所造天下大神宮將奉 而 諸皇神等 參集 宮處杵築
故 云 寸付

【出雲郡】…伊努鄉 郡家正北八里七十二步
"國引坐"<意美豆努命> 御子 赤衾伊努意保須美比古佐倭氣能命之社
即 坐鄉中
故 云 伊農

【神門郡】…神門水海・・・即水海與大海之間在山 長廿二里二百卅四步 廣三里
此者 <意美豆努命>之"國引坐"時之綱矣
今俗人 號 云 薗松山


要するに、現地には異なる地名譚があったが、それとは異なる内容の朝廷版ストーリーが標準となっていそうとの見方。考えてみれば、ありそうな地名譚など、誰にでも思いつく筈だし。・・・
大八洲国の生みの母たる、伊邪那美神は出雲國と伯伎國の堺にある比婆之山に葬られた。そして、速須佐之男命は、伊邪那岐大御神には「僕者欲罷妣國根之堅洲國」、天照大御神には「僕欲往妣國」と。出雲國は、その速須佐之男命によって創られたのである。
普通に考えれば、出雲國と伯伎國の名称の由来はこうなろう。
  出雲イヅモ≒厳ッ母
  伯耆ハハキ≒母来
儒教的律令国家への道を驀進する朝廷としては、黄泉津大神信仰など唾棄すべきものだろうから、そのような由来譚の存在を認める訳にいくまい。
[※] 伯耆は黄泉ではないが、・・・
「伯耆國風土記(逸文)」…伯耆國號
  又或書引風土記云:
  手摩乳 腳摩乳娘 稻田姬 八頭之蛇 欲吞之故 遁入山中
  于時母遲來 姬曰:「母來」
  故 號 母來國 後改為伯耆國
「出雲國風土記(逸文)」…出雲國號
  楯縫郡 楯縫郡 黄泉之坂 伊布夜社


出雲國造はその辺りの舵取りをしながら、風土記編纂を進めたことになろう。従って、かなり鵺的な内容になっている部分があってもおかしくなさそうだ。と云うのは、神祇令がわかる最古の残存書の 養老令[@757年]注釈書 惟宗直本:「令集解」868年 巻二職員一神祇官條には、出雲國信仰が分裂していることが示されているからだ。
 天~者、伊勢、山代鴨、住吉、出雲國造齋~ 等是也
 地祇者、大~、大倭、葛木鴨、出雲大汝~ 等是

朝廷の命を受けて風土記を編纂した出雲國造が潔齋している~は、あくまでも高天原所属(天~)の熊野大社@意宇に祀られる伊佐奈枳(伊邪那伎)麻奈子(真名子) 熊野加武呂*。葦原中国所属(地祇)の出雲大社@杵築に祀られる出雲大汝~=大穴持命(大国主命)では無い。
出雲國造はあくまでも、神祇官が存在する、つまり朝廷公認の184社と大社の祭祀を統括しているだけで(7神戸:出雲4 賀茂 忌部 神門)、本来的には未公認の215社は対象ではないことになろう。行政区画は9郡62郷181里だから、律令国家としては規定された集落単位毎に認定1社設置ということになる。地祇の社はさらに細かな集落単位だろうから、古くから存在している邑毎に別途存在している訳だ。極めてフラグメント化しており、中華帝国型儒教型官僚統制が簡単に適応しにくい社会構造と言えよう。(*:朝廷で執り行われる服属儀礼の祝詞とも云える「出雲国造神賀詞」では櫛御気野命とある。大気都比売を殺して蚕五穀を得て、櫛を妻とした~という名称であり、須佐乃袁命(須佐之男命)ということになる。常識的に判断すれば、出雲國造を通じて、地祇の象徴たる出雲大社を統括する仕組みを構築したことになろう。)
「出雲國風土記」での須佐之男命の記載だけ眺めていると、そこらの事情は見えてこないが。・・・
【意宇郡】…安來鄉 郡家東北廿七里一百八十步
<神須佐乃袁命> 天壁立迴坐之 爾時 來坐此處 而 詔:
「吾御心者 安平成」詔
故云 安來 也

【意宇郡】…大草鄉 郡家南西二里一百廿步
<須佐乎命> 御子 青幡佐久佐丁壯命 坐
故 云 大草

【嶋根郡】…山口鄉 郡家正南四里二百九十八步
<須佐能袁命 御子> 都留支日子命 詔:
「吾敷坐山口處在」詔 而
故 山口負給

【嶋根郡】…方結鄉 郡家正東廿里八十步
<須佐袁命 御子> 國忍別命 詔:
「吾敷坐地者 國形宜者」
故 云 方結

【秋鹿郡】…多太鄉 郡家西北五里一百廿步
<須佐能乎命 御子> 衝桙等乎而留比古命 國巡行坐時 至坐 此處詔:
「吾御心 照明正真成 吾者此處靜 將坐」詔 而 靜坐
故 云 多太

【神門郡】…八野鄉 郡家正北三里二百一十五步
<須佐能袁命 御子> 八野若日女命 坐之 爾時
所造天下大神大國主大穴持命 將娶給為 而 令造屋給
故 云 八野

【神門郡】…滑狹鄉 郡家南西八里
<須佐能袁命 御子> 和加須世理比賣命 坐之 爾時
所造天下大神命大國主 娶 而 通坐時 彼社奈賣佐社之前有盤石 甚上滑之 即詔:
「滑盤石哉」詔
故 云 南佐

【飯石郡】…須佐鄉 郡家正西一十九里
<神須佐能袁命> 詔:
「此國者 雖小國 國處在 故 我御名者 非著木石」
詔 而 即己命之御魂 鎮置給之 然即大須佐田 小須佐田 定給
故 云 須佐 即有正倉

【飯石郡】
<須佐社>

【大原郡】…佐世鄉 郡家正東九里二百步
古老傳云:「<須佐能袁命> 佐世木葉乃頭㓨 而 踊躍為時 所㓨佐世木葉 墮地」
故 云 佐世

【大原郡】…高麻山 郡家正北一十里二百步
高一百丈 周五里 北方有樫 椿 等類 東南西三方並野 古老傳云:
「<神須佐能袁命 御子> 青幡佐草壯丁命 是山上麻蒔初
 故 云 高麻山 即 此山岑坐 其御魂也」

【大原郡】…御室山 郡家東北一十九里一百八十步
<神須佐乃乎命> 御室令造給
故 云 御室

・・・須佐之男命は、フラグメントな地域であることを十分に認識している。それを踏まえて、御子が各地で活躍し、全体が統合されていったということのようだ。

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