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■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.20] ■■■
[627]「古事記序文講義」(6:久米歌謡の意味)
大嘗祭を取り上げたので📖、それに係る話をとりあげておこう。
この祭祀には、歌舞が設定されており、核は久米舞と隼人舞。

久米部歌謡は<東遷敗色脱却となる戦勝後の酒宴>1首と<東遷続々勝利を誇る久米族>5首からなり、前者は神倭伊波礼毘古命軍として謳われ、後者は久米人が謳ったと考えられる。
初代天皇の歌とされていることが多いが、「古事記」は話語のみの時代を記載しているので、"歌う"とはあくまでもsingであって、即興で創作されることを意味するとは限らず、知られている伝承歌を入れ込むことも多い。天皇歌であっても、「萬葉集」で云うところの"御製"という意味とは異なる。📖歌会創始者は誰か
最初の歌は、初代天皇が編纂し宴での歌舞としたように思えるし、残りは久米族の伝承歌を倭の歌謡形式として整理されたものと考えられる。📖久米部歌謡こそ和歌原型

これらの歌だが、冗談半分の酒宴を盛り上げていそうな内容もあれば、苦闘させられた戦闘の思い出共有で皆がジーンとさせられる句もあり。極めてバラエティに富んでおり、出し物としては色々あったと見てよいのではなかろうか。
そのなかで、天武天皇が大嘗祭で選んだお気に入りの歌が「古事記」に所収されているということでは。そして、以後、それが儀典化されたのであろう。
そうとでも解釈しないと、訳のわからぬ歌の配列と見なすしかなくなってしまう。

この手の宮廷歌舞は、服属儀礼ということで、わかったようなわからない解釈で完とすることになってしまう。
しかし、よくよく考えてみると久米と隼人とはそもそもの立ち位置が違う。天皇親衛的な部隊は性格が異なっていると考えた方がよさそう。
(現代でも、部族フラグメント社会では、親藩的な連合部族と外様の服属部族以外に、親衛部族が存在していることが多い。貢ぐ必要はないので、独立性は担保している部族だが、協力な武力を全力で提供することで、その地位を確保しており、王権継承騒動にはかかわらないが、勝者が見えてくると、いち早く絶対的防衛体制を提供することに行動の特徴がある。)

中華帝国の最高祭祀を模範としているのであるから、重要なのは歌の内容より、舞であろう。これは、先祖祭祀としてのもの。大和朝廷樹立の際の舞樂として扱われることになった由縁を「古事記」が記載しているだけのこと。
これは、礼学上の権威書たる春官宗伯:「周禮」大司樂之職の《大武》に当たる。(「周禮」は 天[宮廷・財産] 地[地方・物産] 春[礼樂・卜祝] 夏[軍事・封建] 秋[司法・外交] 冬[欠]の6部構成。)
・・・以樂舞教國子舞《雲門》《大卷》《大咸》《大韶》《大夏》《大濩》《大武》
 舞《雲門》以 祀 天神
 舞《咸池》以 祭 地示
 舞《大韶》以 祀 四望
 舞《大夏》以 祭 山川
 舞《大濩》以享先妣

    乃 奏無射 歌夾鐘
 舞《大武》以 享 先祖

儒教であるから、基本蛮族が天子の徳を称える祭祀になるが、《大武》は天子の先祖へ捧げるもので若干性格が異なる。周の政治を理想とするのであるから、商/殷を打倒した武王を褒めたたえることに意味がある歌舞ということになる。それに倣うなら、祖である初代天皇が倭國樹立を果たした東征戦勝記念の酒宴歌こそが似つかわしい。「古事記」所収の久米歌は、《大武》的な雰囲気を盛り上げるような口誦になっている筈だ。
太安万侶は神倭伊波礼毘古命歌と読めるように記述しているが、至極妥当と言えよう。

---久米の歌舞。@①神倭伊波礼毘古命@畝火之白檮原宮/神武天皇---
   📖中巻初代天皇段所収歌13首検討
<東遷敗色脱却となる戦勝後の酒宴>…1首
[_10]【自軍兵】@東遷戦闘勝利
        爾卽控出斬散 故 其地謂"宇陀之血原"也然而
        其弟宇迦斯之獻大饗者悉賜其御軍 此時歌曰:

    宇陀の高城に 鷸羂張る
    吾が待つや 鷸は障らず
    いすくはし 鯨障る
    先妻が 肴乞はさば 立ち柧棱の実の無けくを こきし聶ゑね
    後妻が肴乞はさば 柃実の多けくを こきだ聶ゑね
    "疊々" しや越や 此は威のごふぞ
    "疊々" しや越や 此は嘲咲らば

<東遷続々勝利を誇る久米族>…5首
[_11]【久米人】@東遷敵を騙し討ちにする合図
        故明將打其土雲之歌曰:
    忍坂の大室屋に
    人多に 来入りをり
    人多に 入り居りとも
    みつみつし 久米の子等が
    頭椎い 石椎い持ち
    討ちてし止まむ
    みつみつし 久米の子等が
    頭椎い 石椎い持ち
    今討たば宜し

[_12]【〃】@東遷戦いに当たって気勢を上げる
        如此歌 而 拔刀 一時打殺也
        然後 將擊登美毘古之時 歌曰:

    みつみつし 久米の子等が
    粟生には 臭韮一本 苑が本
    そ根芽繋ぎて
    撃ちてて止まむ

[_13]【〃】@東遷我慢
        又歌曰:
    みつみつし 久米の子等が
    垣下に植ゑし椒 口疼く
    我は忘れじ
    撃ちてし止まむ

[_14]【〃】@東遷神風をめぐって気勢を上げる
        又歌曰:
    神風の伊勢の海のおひしに
    い這ひ廻る細螺の
    撃ちてし止まむ
    撃ちてし止まむ

[_15]【〃】@東遷兵士空腹
        又 擊兄師木弟師木之時 御軍暫疲 爾 歌曰:
    盾並めて 伊那佐の山の木の間ゆも
    い行き守らひ 戦へば
    吾はや飢ぬ
    嶋つ鳥 鵜飼が伴
    今助けに来ね


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