→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.27] ■■■ [634][付録]古事記が日本語を作った 「古事記」こそ、最古の残存書だからという意味ではなく、日本語の祖(国体ではない。)であることを確信させてくれたから。文法次元をはるかに超えている。📖日本語文法の祖は太安万侶 この本を眺めていて、こういうことなら、序文は後世挿入の偽書とみなす主張が生まれるのも当然という気がして来たからでもある。(小生自身は、その逆で、序文は太安万侶渾身の一筆と見て間違い無しと考えた。)・・・「皇道の本源」主義者の著作だから、イデオロギー的に対抗せざるを得ない人も多かろうという話ではなく、「古事記」成立時の環境をどうとらえるか、という問題として。 中華帝国の白楽天(仏教徒高級官僚)の時代はほぼ1世紀後だが、この辺りになると大衆文芸主流と云ってよいだろう。そこまでははるかに遠い道のりと考えてしまうが、それが妥当である根拠は実はなにもない。「古事記」は皇族と一握りの関係者を対象読書として書かれているだろうと考えていたが、それも勝手な決めつけであるのは言うまでもない。漢文の素養が十分身に着いていないと本文を読める訳がないから、そのような読者はこの当時は極めて限定的な筈、という考え方が正しいとは限らないということ。 しかし、ここらを前提にしていると、状況を見通している気分になるので、おそらく正しいと考えてしまう。・・・つまり、序文とは、献納用公文としての漢文であり、どうせ表向きの美辞麗句を詰め込んであるだけと見なすことになる。太安万侶が読んでもらいたいのは、あくまでも文字表記化に挑戦した倭文の方。だからこそ序文と本文のトーンが異なると考えて納得してしまうことになる。そうなるのは、序文は白髪三千丈的な漢詩スタイルの漢文なので、体裁を整えるために書いていると思い込んでいるからでもある。 しかし、当時の日本国の上層の知的レベルは相当に高く、漢語読みなどお茶の子さいさいと考えることも可能*であり、そうなると違った見方の方がしっくりくる。 (西欧的には、"ギリシア語とラテン語両刀使い"とは、人口の一部とはいえ、政治的に動ける身分であれば当たり前の素養といったところ。国家成立とは、そういう状況現出あってこそだから、そこになんら不思議なことはない。 大陸では598年からすでに科挙制度があり、宗族角逐が無い倭の風土には全く合わないから模倣することは無いが、そんな動きを無視する訳もなく、漢語の読み書きは「古事記」成立時点では統治機構に関与する人々の常識的素養とされていた可能性があろう。 現代でも、漫画読みと揶揄され続けた宰相がいるが、それは幼少期からの強制的な漢籍暗記と習字教育への反撥に根差した自我意識から来ているようにも見える。公文書館で見た署名筆致からの推定でしかないが、論語をスラスラ語れる可能性を感じさせる墨痕だった。) 識字人口は少ないとはいえ、それは渡来人や高位仏僧に限定されているどころか、倭国の上層部全般だったとすれば、太安万侶は"大衆"を想定読者として書き下ろしたことになろう。 それこそ、インテリ白楽天的な発想なら、できるだけ平易な作品に仕上げて、皆にインパクトを与えようという気になってもおかしくない。(その後の段成式のように、儒教社会での科挙や低俗化文芸はそのうち反仏教・自由精神抑圧に繋がると見て、白楽天の姿勢を批判的に眺めるインテリもいるが。) 「古事記」はその後、忘れ去られた書になってしまったから、まさかそんなことはあるまいと考えがちだが、文章を眺め続けていると、現代日本語への実質的影響力はただならぬものがあることに気付かされる。思想書ではないし、ほんの短い一時期を除けば信仰対象になったこともなく、ましてや国史と見なすこともできないというのに。 現代日本語は語彙も表記方法もゴチャ混ぜ。📖日本語は雑種言語なのでは…その原型はどう考えても「古事記」である。 太安万侶は、倭語表記に漢字を用いているが、翻訳文字と音素文字になっているが、これこそ現代日本語用法そのものでは。 漢籍語彙でなく、万葉語彙を使うことで、純日本を感じる人が多いようだが、小生などほとんどの漢字熟語は純日本語ではないかと感じて来たクチ。探せば、その語彙は漢籍に見つかる筈だが、その言葉は古代に存在している訳が無い代物。要するに、日本での造語である。言うまでもないが、清朝代にはすでに造語能力完全喪失だったからであり、日本から熟語を大量輸入するしかなくなったのである。これこそ、太安万侶の翻訳文字のコンセプトそのもの。概念が異なっていても、強引に当て嵌めるしかなかろうという方針。一見、漢語に見えるが、実は翻訳漢語という名前の倭語と考えるべきだろう。そんなことは、読者は<天>を提示された瞬間に気が付くのである。 歌は全面的に音素文字としての漢字だが、オノマトペ同様に、音で伝達すべきものはこの表記方法しかなかろうという思い切り。ただ、それはあくまでも五十音的音素に当て嵌めるだけなので、実際の発音は類似というだけに過ぎない。これこそ、現代の片仮名外国語表記の祖型と言えよう。 歌については、良く知られるように五七五七七の元祖とされているように、このリズムこそが土台であることを明確に示したと云える。漢詩的な韻はあってもよいが、不要であることも、伝えていると云えそう。どうしても、音を区別したい時には役に立つし、慣用的にいくつか使われていることが示されているのみ。こうまで書かれてしまえば、韻に拘る人がいなくなるのも道理。 「古事記」地文の読みは揺らぎを認めていると、すでに書いてきたが、これは当然のことで説明の要無しと考えていたようにも思えてくる。・・・漢文教育では、読み下し文の正解が一意的に決められているので、同様な方法論を確立したい人しかいないかも知れぬが、無理筋ではなかろうか。 "訓読"というコンセプトを強制するからそういうことになっているに過ぎないのでは。どう考えても、やっていることは、古代漢語の日本語翻訳以上ではないのにもかかわらず。一意的な訳が可能な言語があるとは思えまい。 太安万侶は、倭語とは、ゴチャ混ぜ言語であると達観していたと見ることもできよう。漢語的語順で漢字が並ぶなら、仮想レ点で読んでもよいが、面倒だと感じるなら漢字熟語として読んでもよいということ。 【*】聖徳太子創建だけで7寺にのぼるし、600年代の漢字文記録から見ると、経典を通じて、漢文の素養は存外広く拡散していた可能性もある。(しかも語順が漢文法に従わない部分もある。)・・・"歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫為分韓婦夫人名阿麻古願南无頂礼作奏也"(丙寅年に高屋大夫が死別した夫人のために発願造立した。…河内古市高屋丘陵出で官名の地位は低い者の追善供養である。)@法隆寺献納銅造如来半跏像の台座下框の刻銘 "歳次丙寅年四月大朔八日癸卯開記栢寺智識_等詣中宮天皇大御身労坐_時誓願_奉弥勒御像也友等人数比日十八是依六道四生人等比教可相_也"@野中寺像の刻銘…[天智五年/666年] 法隆寺金堂本尊釈迦三尊像舟形光背裏面中央の14字14行の文字刻銘文[623年] (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |