→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.22] ■■■
[668]"ひら"について
現代用語で"比良"と謂えば滋賀県湖西の比良山(天川〜鴨川)一帯の地名だが、その由来は比良氏にあるとされている。
港を擁し平安期に栄えた地域であり、ヒラの語源はアイヌ語(pira)であるとの解説をよく見かける。おそらく、どこかの大御所お墨付きのお話だろう。この手の語源解釈は朝鮮半島由来論*が典型だが、そこらじゅうに存在しており>、異説を持ち出すのも面倒だし、たいした意味もないので受け入れることが多いが、植物図鑑での語源解説の余りのレベルの低さに驚き、このママにしておいてよいのか疑問を覚えたりもするので、たまには触れることにしている。(繰り返しになってしまうのでご容赦のほど。)
"比良"の場合、比良氏由来としながら、この地域名で呼ばれるようになった氏族とも考えているらしく、ヒラの語源はアイヌ語(pira)⇒倭語(ひら)とされているようだ。小生は、この矢印は逆である可能性の方が高いと思うので、取り上げて見た次第。

それが「古事記」と何の関係があるかと言われそうだが、ご想像がつくように、上巻で2度も登場してくる黄泉"比良"坂の記述について取り上げておこう、と言う事。

この地名は神の名称にも使われている。・・・
天之菩卑能命は誓約で、須佐之男命が、天照大御神の物実としての珠を咀嚼して吐き出した息の霧から生まれ出た5柱男神の次男。葦原中国平定という高天原の方針で派遣者に選ばれた。その子が建比良鳥命。
この名称の"鳥"は、葬儀担当の鳥達の様に、高天原から派遣されたことを示すのだろうが、比良は黄泉国境界の坂の名称。出雲王朝をその様な冥界の役割に限定する切っ掛けを作った猛々しい~ということになろう。王権をも握っていたようで、出雲国造・无邪志[武蔵]国造・上菟上[上総 海上]国造・下菟上国造・伊自牟[伊甚=上総 埴生+夷灊]国造・津島[対馬]県直・遠江[遠淡海]国造等の祖とされている。

この地名をひら(意味:平舒 呉音:ビョウ 漢音:ヘイ)とすると、坂の名前としては不自然。坂はたいらとは逆だから。 平⇔苹(意味:安舒に水面に浮かんでいる水草 =蘋)
そのため、上述のようにアイヌ語で比良pira(意味:崖)と考えるべきとなるのだろう。一見、フ〜ンと納得させられかねないが、類似音なら他にもある。・・・
  先島語(崖)〜北奄美大島語(峠道)〜薩摩方言(崖)
どうしてこちらを無視するのかは素人には理由は定かでは無い。
さらに、普通の人だと、平山/平岳という地名があるが、それは比良と表記してもかまわないのでは考えるのではなかろうか。
さらに、もう一歩進めれば、これらの山が、天辺が台状や平坦裾野の"たいら(ヒラたい)"な山とは思えないから、上記の南方用語例を参考にすれば、崖崩れ箇所が気になる山と違うか、となろう。

そうそう、もう一つあった。
金刀比羅の元であるクンビーラはガンジス川に棲む鰐📖の神格化した水神。📖
その裏には登るのが厄介な岩石崩れ、つまり比羅ヒラが目立ち、そのことで航海目印化したと考えてもおかしくなさそう。

倭人の冥界観は、地中というより、ガレ場の先ということかも。海人は洞窟内風葬が多そうだが、その様な地が見つからないので、ヒトが行かない類似の場所を設定したということか。
何を想像したかおわかりだろうか。・・・
伊邪那岐神が座した場所とは、淤能碁呂島の八尋殿(宮地)の北方(御陵地)にある"淡海"の潟近辺の岩場にある洞窟では。

】アイヌ族は遺伝子的には南島人の血を引くらしいが、語彙採録情報を見る限り、南島ほどの統一性を欠いているようで、言語的には両者は全く無縁と言わざるを得まい。…文構造も基本語彙も、ニュアンスや発音も、同一言語から分かれたものと考えられる特徴は皆無としか思えないからだ。もっとも、政治的問題上その辺りは明快に語れないから、関連性不詳と見なすのが正しい。
*】アイヌ語は土着民語なので、朝鮮半島との言語比較ほど無理がある訳ではない。一方、半島言語は最低でも5種の乱立が続いて来た。[漢移住・満州系・北東沿海ツングース・南の3韓]しかも戦乱と移住で入り乱れが常態。この結果、話者の地域移動や消滅も多く、統一新羅語は由来さえ判然としないし、何時どの様にして言語統一に至ったのかも全く不明。(例えば、半島と全く異なる済州島語は倭語と同根と推定されるが、現代に至って、消滅させられてしまった。強制化でないなら、現住民の大半が、古代とは同族で無い可能性を示唆していると言えよう。つまり、倭の独自性の象徴である前方後円墳が存在する百済国地域に至っては、現住民は百済族とはなんの繋がりも無いと考えた方がよい。従って、古そうな漢字表記地名の存在が確認できても、読み方は古代とは全く異なっており、発音トレースは誤認の可能性の方が高いことになろう。母国語の文字表記がされていなかったから、表記文字は同じでも、読み方は王朝によって全く異なっており、とてつもなく後世の発音がわかったところで、それが古代の音と繋がっていると見なせるわけがない。少なくとも、百済語については、日本の残存文献の断片的語彙から大胆に推理する以外に手はない。情報がほとんど無い以上、フィクションの世界で遊んでいるようなもの。他の言語は、その程度の情報さえないのである。)「古事記」から見れば、半島統一確立はかなりの後世に当たる上、どの王朝もそうだが、独自文字が無いから、支配層は漢語の<漢語読み>をするしかなく、半島語とは被支配層話語としての位置付け。それが倭国で使われているとの理屈には無理があり過ぎ。侵略国であっても属国化されたことが無いのだから、逆ならあり得るが。土台、半島の最古文献が鎌倉期の漢語。漢籍に半島語のまともな辞書が無い以上、読みも漢語しかわからない。(何も資料がなくして生まれた後世の辞書は小中華主義者の100%フィクション。)この後も知識層の言語は漢語が続き、半島語の音が見えるようになったハングルの登用は1443年、室町幕府の時代。すでにかなりインターナショナル化して情報が氾濫している頃である。その辺りの情報から、古代朝鮮半島の音と、古代まで順繰りに辿れる倭語との比較をして何の意味があるのか、はなはだ疑問。
(もともと中華帝国側から遼東を経て移動してきた人々が立国した地。そこに満州地域の遊牧的ツングース族が出入りし、始終戦乱状態。定住風土ではない。しかも敵対者抹殺と焚書を旨とする王朝政治。漢族・朝鮮族とは民族概念ではなく、中華思想国家の人民ということ。倭人は雑種だが民族と見なせる。)
中華帝国の場合も付け加えておこう。巨大帝国なので、辺境に逃亡した民族が現代まで定住していたりするので、そこには古代漢語の残渣の吹き溜まりだったりすることもあろう。従って、後世注付き古代文献や出土断書書を丁寧に当たれば、当たらずも遠からずの想定が"科学的"に可能である。ただ、それが可能な時期は過ぎ去ってしまったかも。


 (C) 2023 RandDManagement.com  →HOME