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■■■ 「古事記」解釈 [2023.9.14] ■■■
[806] 太安万侶:「漢倭辞典」
話が長くなりそうなので、ブツ切れになってしまったのは📖、余計なことを多々書かないと意味が通じないので、どうするか迷ったから。

露語(屈折語)の名詞の文章上の位置を示す<格>を取り上げた訳だが、これ自体、特段気になるところがある訳ではない。📖
【格】
 主格(体)…主語形
 呼格…呼び掛け形
 対格(業)…直接目的語形
 具格(作/助)…方法を示す形
 与格(為)…間接目的語形
 奪格(従)…(出発点 or 起源から)離れることを示す形
 属格(所有)…所属を表す形
 処格(於/地/位置/所/依)…場所を示す形
ただ、これが格表現の網羅的基準なのか気にはなるのでは。ソコを、もう一歩踏み込めば、他言語ではさらに別な格があったりするのだろうから、最大限何種類あるのか、気になってもおかしくなかろう。

それに対して、おそらく、太安万侶なら即答。いくらでも自由自在、と。
・・・とんでもない馬鹿げた見方と感じるかも知れないが、これこそが倭語の特徴。その心は、単純。倭語〜日本語は構造文ではないから。文章に於ける位置付けを云々する手の<格>文法は無用。

それに気付かされたのは、かなり前のことで忘れていたが、「古事記」を読んで、思い出した。・・・"本屋に置いてある文法書は、どれを手にとっても、「主語−述語」の記載から。"📖その状況は、今も変わっていないだろう。("象は鼻が長い。"で知られる話。)

要するに、倭語は、屈折語(露語)や孤立語(漢語)とは、根本的次元で異なっている。

屈折語や孤立語は名詞語だから。(一目で単語が名詞であることがわかるように表記する独語はその象徴的存在。)屈折語では、主語の名詞の性情に合わせて動詞が変態を余儀なくされることでわかるように、文の「主」はあくまでも名詞で、動詞は「従」であり、逆になることは無い。
孤立語に至っては、そもそも同一文字が名詞にも動詞にも使えるから、品詞同定のためには文構造を読み取れないと、どうにもならないから、主語同定が最優先となるざるを得ない。
この様な考え方を倭語〜日本語に適応しても無理があり過ぎだが、そう感じなくなってしまったのが現実。
・・・膨大な話者を抱える言語が、"<文>とは「主語−述語」のこと。"、としているので、それはどの言語でも通用すると思いがち。理屈で考えれば、「主」欠落文など存在する訳が無いと見なす習慣が染みついている、と言った方が良いか。
それは日本語社会が文字表記語の世界と化しているから。現実を直視すれば、倭語〜日本語は、明らかに「主語−述語」構造文を基本としていないのに。と言うか、「主語−述語」発想がもともと無かったと言った方が正確だろう。
くどいが、話語たる倭語の世界とはあくまでも叙述部(動詞)ありき。主語を省略することが多いのではなく、文の「中核」はあくまでも動詞、で、主語を表現する必要が無いことが多いだけ。

これを実感できるのは、おそらく、日本語母語者の一部だけ。大多数は、学者にいくら指摘されたところで、主語省略は、ソリャあるだろう、と皆で笑い飛ばしておしまい。

なかにはご丁寧に説明する人もいよう。"(I) thank you (for …)."なのは自明でしょうと。しかし、「(私は、)行ってきます。」も同様に省略と見てよいか考えたらよかろう。
文字無き相対話語の社会では「行ってきます。」が基本で、「私は」を省略しているのではない。主語は、状況によって、必要となった時に付けるものでしかない。結構、よく付けるのは、「私も」とか、「私だけで」の方。これには、新たな<格>を設定するのが無難な選択だろう。

長々と書いてしまったが、もう少し。

倭語に於ける、名詞語尾に付ける<格>助詞とは、一応、文章に於ける当該名詞の位置付けを示していると定義することになるが、構造文では無いからこうした構造文文法に於ける説明は本当は拙い。
用語を同じにしても通用はするものの、倭語の<格>助詞は文の「中核」たる"動詞"への修飾上の意味を示しているだけ。

もっと踏み込んで言うなら、倭文は、動詞に表現上必要な付属辞類を付けた、"叙述部"さえあれば、それだけで文章が成立する。その点では、共通点が乏しい近隣のアイヌ語(抱合語)と同じ。話語とはおそらくそんなもの。
しかし、表記されるようになると、それではわからなくなってしまうから、言葉も変わらざるを得まい。ところが、倭語〜日本語はそれに頑強に抵抗したことになろう。(そのお蔭で、主語記載僅少の「源氏物語」など素人には手が出せない。)

・・・接続詞文字や、而だらけの、口誦話語文字表記化書たる「古事記」鑑賞に挑戦するなら、そこらを味わってこそ面白さが生まれると思うのだが。

まとめておこう。

倭語の肝は叙述部。上記の<格>助詞付名詞句を含め、前置修飾句は、いくらでも付けることができる。(倭語にとっては、文章に不可欠な<格>は一つもない、とすると流石に言い過ぎか。主格や目的格を欠いても意味が通じるなら、余計な装飾句は不要。それが動詞語。名詞語の如き文章構造のなかに名詞を秩序だって埋め込む必要性が全く無いからだ。)
一部ルールはあるものの、原則、装飾句の順序は自由自在。
この様な自由度が高い言語だからこそ、受身や未来、はたまた疑問に至る迄、文構造で対処するという面倒な手続きは一切不要。すべて、動詞に少し手を入れれば片付く。
これぞ倭流膠着語だからなせる秀逸な技。名詞語たる、屈折語(露語)や孤立語(漢語)にはとうていできかねる芸当。
・・・こんなことを書くと、<格>は<格>であり、何を言っているのかさっぱりわからぬ、とされてしまうだけか。日本語の「主語−述語」文法とは、世界の標準を想定し、それに合致していることを皆で確認し合うことに意義を見出すという思考方法に従ったもの。従って、今後も変わることはなかろう。

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