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■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.20] ■■■
[歌の意味53]記歌はアンチ儒 紀歌はアンチ道
毛羽毛羽しいタイトルにしてみたのは、収録目的の違いに由来する、「記紀」歌の役割の違いを一言で表すには、これが一番と思ったから。
(と言っても、儒教や道教について語れるほど知識がある訳ではない。そもそも、四書[論語 孟子 大学 中庸]五経[書経 詩経 易経 礼記 春秋]を読破する気力など毛頭無いし、そもそも浅学者には土台無理。道教に至っては、テキストの選定能力も欠く状態なのだから。)

その理由はシンプル。
「古事記」の歌を国史と比較して眺めていると、表面上はそっくりでも、文脈上の位置付けから見て、その収録意図は水と油に近いものが多いからだ。その理由は儒教に対する姿勢の違いとしか思えない。
そうだとすれば、両書の歌の比較検討でそれなりに儒教観が形成されてくるともいえよう。(分析思考ではなく、概念思考での話なのでご注意のほど。)

小生の感覚だと、「古事記」は、地文と歌一体の叙事記述状況から見て、いかにも道教的な土着文化重視の書に映る。
一方、編年体での事績羅列に徹している国史プロジェクトの姿勢は、どう見ても儒教的整然さというか威厳の重視。そのため、宮廷歌は刺身のツマに近く、本文に埋め込む形式になっているように見える。・・・但し、この様な見方は、分析的には生まれようがない。日本国の国史から見て、道教教団が日本国に存在した形跡は全く認められず、流入していないことになるからだ。しかしながら、「今昔物語集」から勘案するに、日本仏教の3祖のうちの役行者が実質的な日本の道教と見ることもできる位で、その影響力は小さなものではないと思う。
(日本国に"宗派"道教が見当たらない理由は、わかり易い説明に徹したいなら至極簡単。
国史成立期にはすでに事実上禁教化されていたと見なせばよい。そして、以後もそれが連綿と続いただけのこと。・・・道教は、皇統譜を重んじることはないし、必要なら即時王朝打倒に立ち上がる。教団員となり鍛錬すれば神/仙人になれるという主張を掲げる呪術宗教組織に映っただろうから、倭国での宗派活動を許す筈がなかろう。こんなことは、端から不文律の次元では。)


道教は、儒教に倣って官僚的秩序を導入し、神の世界にもヒエラルキーを持ち込んでいるが、だからといって両者に親和性がある訳ではない。儒教型の社会安定理念とは宗族第一主義である以上、あくまでも<孝>であるが、道教は土着の共同体生活ありきの信仰だから、そのような発想は道教とは両立し難い面があるからだ。(道教の原点とも云うべき「抱朴子」には2篇あり、それぞれが道教と儒教になっており、両者は融合しているように受け取られても致し方ないが、生き残り策と考えるべきだろう。・・・天子独裁-官僚統制の儒教型統治の下で、熾烈な弾圧を避け生き残るためには、この仕組みを積極的に容認し皇帝を支持するしかあるまい。根本的には相容れないが、あくまでも、地場共同体内の生活者の祈願に応える呪術型宗教なのだから当然の姿勢といえよう。)

儒教的観念の浸透あるいは排除の感覚に触れたいなら、敵対者や臣の名前が登場してくる歌を眺めるのが手っ取り早そう。(後世の歌は、叙景による作者の情感を表現したものが多いが、これらとは作風が全く異なる。)

<出雲健騙し討ち成功で得意三昧>
まず最初は、倭建の歌だが、その意味はすでに書いてきた。
要するに、得意三昧といっても、<騙し成功≒非服従勢力へのあざ笑い>歌ではないだろうとの読み。もともと、倭建という名前自体が、宴席で殺害した熊襲建から"授かった"もの。最初の兄弟名を捨て、通常の宮地名も使わず、敵が死に際に称えた名称を"正式"に使っている以上、征伐対象者を侮蔑するとは考えにくい。
出雲と熊襲は異なるという必然性も薄いから、出雲健を歌で揶揄しているとは考えにくい。レガリアと王名を冥界王から授かることで、国王としての正統性を誇っているのが出雲の支配者だから、この歌は、その力を頂戴したことを詠んだと考えるべきだろう。つまり、出雲建帯刀の神宝的威力を受け継ぐことができた慶びを表現していると見た方がすっきり納まる。
儒教的センスであれば、一旦、抹殺すべき敵対宗族と見なしたら、成功した際は徹底的に蔑んで、宗廟でその御報告をすることになる。多くの解説では、そのような過程を彷彿させるような、"嘲笑歌"と解釈することになっているようだが、小生としては、はなはだ疑問。

<東遷続々勝利を誇る久米族>
明らかに久米族の歌であり、天皇がそれを詠ったり、唱和するのは、身分を越えた紐帯ありということ。
内容的にも、鴫罠猟を行う山人で、前妻と後妻の評価話に興じる手の鄙の文化が濃厚。しかし兵として、いかなる犠牲も厭わず天皇を守護する人々でもあるり、その関係性を保つためには宴での一体感醸成は、殊の外重要である。
現代であれば、少数民族の雇われ型私兵に該当と考えるとわかり易い。兵士は出稼ぎで家族を支えているのは確かだが、部族長を通しての傭兵制度であり、あくまでも独裁社会を支える仕組みでもある。(尚、フラグメントな部族乱立社会では国家樹立は難しくなると解釈しがちだが真逆。例えば、部族長達が支持すれば、イスラム教理裁判官が絶対的首領となる軍事独裁宗教国家樹立は夢物語ではない。)
儒教は部族社会を良しとせず、部族を解体し、宗族概念を取り入れることで、国家支配層(=部族から切り離された官僚と特権宗族)の分離明確化を図ったと言えよう。神話とは各部族の"命"だったから、儒教国化すると、一旦すべて反故にされるか、抵抗すれば部族抹消の憂き目にあった筈。(「山海経」はそのような時代の部族神話てんこ盛り状態を垣間見せてくれるが、神話そのものについては、断片とも言い難き程度の情報しか得られない。半島に至っては、中華帝国が記録した王朝祖の話が残っているだけで、鎌倉期に至る迄、記録は完璧に消されている。支配層は100%の漢語社会だったから、半島についてはこの時代迄ほとんど何もわからないということ。これを埋めるような話は、創作以外のなにものでもない。儒教国である以上、現在の住人が、その地の土着民であるかさえ疑わしい訳で。と云うより、儒教化によって、大陸のほとんどの地で土着部族は壊滅か逃亡の道を歩んだと見るべきだろう。従って、陸続きでない倭国には高等難民が大挙して訪れたと見て間違いない。)
半島に残る神話とは、こうした残渣を拾い集めて帝国化に都合がよいように再編したものである。
「古事記」とは、そんな流れに棹さす書とも言える。久米歌も本来的には何らかの伝承神話を呼び起こすもの。

久米歌で耳につくのはなんといっても<みつみつし>。
御稜威みいつ御稜威みいつし>と解釈することになっているので、わざわざ変える必要はなかろうが、この見方は臣下を褒め称える言葉にとれるように選んでいるとも言えるので注意した方がよい。・・・儒教的センスを外せば、部族感覚でこの言葉を捉えることになり、<端端みづみづし>の濁音外しで読む方がしっくりくる。勇猛果敢であることを知らしめる真正の部族用語に近そうだから。
要するに、兵士の行軍歌の頭詞の定番句「正義の○○族のお出ましぞ!」の久米版。本来はドンジャカで威嚇しながらの進軍だろうが、騙し手の場合は宴会で歌うしかなかろう。
部族兵は、よく言えば勇猛果敢だが、換言すれば、勝ち戦と感じると瞬時に徹底的な残虐さを発揮することで知られる。そんな勝ち誇りあってこその部族の結束。人々を懼れさせることで、攻撃されない地位を築くことに繋がる訳だ。(宗族型兵士は、あくまでも宗族にとって不可欠な参戦なので、合理的な功狙いに終始する。)
儒教国家に於ける、天子と臣下の"忠"関係とは根本的に異なるが、理屈を追い求めてしまう現代人には部族精神は分かり難かろう。

<反逆すれど敗退した忍熊王 琵琶湖で最期>
戦闘に勝利した側の振熊は、臣下である。入水することになった敗者側の皇子の歌で、皇后臣下の振熊に殺されたくはないということで詠んだように思える。口惜しさとか、恨みの感情を全く感じさせない、あっけらかんとした辞世の歌なので不思議な感じがする。
皇后軍は徹頭徹尾の欺きで勝利しており、それを誉めそやすムードが生まれるとは思えない。このことは、どうあれ勝利すればよいとの単刀直入な姿勢が当たり前だったことを示している。
儒教的に描くつもりなら、汚い手を使っていないように描くとか、互いに権謀術数を駆使したとか、色々な工夫がみられるものだが、そのような配慮はゼロ。漢籍に倣って潤色する気が全く無いことが一大特徴である。
(この歌は文脈から意味を決めてしまうのでたいして気にならないが、最初に読むと、臣が君に入水を促しているように見える。一方、国史収載歌ではそのようなことは発生しない。両者の意味は異なる可能性があろう。)

<"山代にい及け鳥山">
(舎人)鳥山を"使"って、大后に歌を送った訳だが、届いたのかは定かではない。続いて、丸邇臣口子を派遣することになるから、効果がなかったのははっきりしている。
歌を運ぶ約として重宝していた舎人を、面白い嗜好ということで歌に登場させたのだろうが、位階的には低いからヒエラルキーを無視していることになろう。

<"すすこりが醸みし御酒に">
漢語圏からの渡来人である須須許理の作った酒で酔ったというだけの歌。
命で作られたり、献納された酒は、天子が公式に臣下に振るまって朝廷のヒエラルキーが固まっていくもの。顕著な功績や第一級品献上行為を褒めて褒章を与えることは推奨されるが、独裁者が酒に酔って歓びを口にだすようなシーンは儒教観からすると頂けない。
太安万侶的には渡来の文化に酔う朝廷の姿の象徴として収録したのだろうが、儒教的には天子の威光のお蔭で素晴らしいモノが生まれたり、見つかることになるとのストーリーに乗せるのが基本。そのうちに、それは渡来ではなく、国内で生まれたとの話に替わっていく。中華思想とはそういうものである。
官僚は常に新しい動きを探しており、それを取り込み模倣させることで、帝国の繁栄を図ることで出世を果たすことになる。中華帝国では、常に導入賛成者と反対者の熾烈な角逐が発生していることになる。科挙官僚は宗族に婿入りしているから、これは宗族間の勢力争いでもあるとの構図になる。
その辺りの事情をよくわかっていないと、このような歌は収録されなかっただろう。国史にこの手の歌が収録される可能性は限りなく低い。

<"大前小前宿祢が金門陰">
大前小前宿祢は、木梨太子の"同腹兄妹の罪"を感じていないようだ。(宗族第一主義では、宗族内婚は絶対禁忌。)国史では、そこらには触れたくないようで、太子の罪状が異なる。
何といっても面白いのが、一触即発状況に、膝を打って踊りながら登場するシーン。儒教では解釈のしようがあるまい。皇位継承権闘争なのだから、禁断の恋に陥った二人を助けてあげようと図る臣下の思いが伝わる訳で、恋物語として一層盛り上がることになる。儒教観からすれば、宗族長への<孝>ありきで、子の勝手な恋は宗族社会に不適である。

<即位前の歌垣で家臣と大喧嘩>
6首の掛け合い歌であるが、家臣の志毘臣は明らかに太子の即位反対派。鄙で過ごした太子の面子が立たぬ場を設定して、公然とその地位を貶めようと図ったかに映る。当然、太子は、家臣の態度に立腹する訳で。そこで、志毘臣は太子の宮の権威を傷つける歌を詠んでおり、儒教型王朝革命肯定論者的な臣となっている。当然、即刻、消されることに。
国史はこのトーンでの話などありえない。武烈天皇の強引な横恋慕が失敗し、一族粛清に踏み切るという調子に。国史は天皇評価書としても編纂されているので、反儒教的な墨子的統治の悪辣さを示すような内容になっている。📖袁祁命の扱いは特殊

<吉野勢力が皇子褒め@獻大贄之時
この2首は大雀直属の親衛隊が馳せ参じて歌ったもの。1首目では「偉大なる頭領大雀!」的な掛け声、2首目では「麻呂が父」と絶対忠誠の根拠を謳って、万全な権力であることを誇示している訳だ。
再度書いておこう。・・・吉野勢力の武力に関する話題は、朝廷の高級官僚は避けていたと見る。律令国家組織に属さず、天皇あるいはその可能性が高い皇子への絶対忠誠を誓う私兵(非傭兵)とみるからだ。軍事氏族とは全く性格が異なり、朝廷組織に関係することはなく、天皇を"麻呂が父"と呼べるのである。📖沸き立つ品陀和気命の宮
君主への無条件な臣従を旨とする倭国の体質を示したものと言えよう。現代でも、軍事独裁国家で生き残っている少数民族の傭兵体質とよく似て、独裁者への絶対忠誠と戦闘力提供との引き換えに、例外的に狭い領地での疑似国家体制を容認してもらう。

儒教とはあくまでも揺るぎない宗族社会体制維持の宗教であり、<忠>は二次的であり、血統護持の<孝>が絶対的な根本倫理でありこれに代わるものはない。ヒエラルキー社会の安定化には必須の理念だからで、他はその補強的役割を果たせる場合にのみ重視されるに過ぎまい。
家族とその属する血族社会に於ける紐帯なくしては、古代社会で生き延びることは不可能だろうから、儒教特有の理念と見なす訳はいかないが、皇帝-官僚(+卿・士大夫)体制固定化の核として、人民全体からすればほんの僅かに過ぎない統治階層の思想を洗練したに過ぎない点が独特である。
このため、現皇帝の方針が宗族繁栄の視点で思わしくないと感じたなら、臣下であろうが王朝打倒策を練る必要がある。その革命が成功した曉には、それまでに辱めを受けたことがある一族を抹消させること務めるが、宗族第一主義である以上それは義務でもある。中華帝国は、こうした儒教精神を根底に於いているので、見かけ上軍事独裁に成功し社会安定が実現されると、<徳>政と自称することになるが、(徳のある"中華"皇帝に、全ての人民とあらゆる民族がひれ伏すという御伽噺でもある。)内実は不安定そのもの。宗族間の角逐は凄まじく、社会混乱発生の火種を増産しているからだ。そして、それこそが歴史の必然と考えるのが、儒教社会に於ける常識。

書き方から見て、太安万侶や「今昔物語集」編纂者はここらをよくご存じだったと見てよいだろう。両者ともに、反儒教の仏教徒である可能性が高いが、同時に仏教勢力批判者でもあろう。(もともと仏教は"個々人"が解脱を目指すことに意義を認めている宗教。ところが、倭国での仏教の浸透は事実上国教化から。中華帝国の扱いに倣った訳で、換言すれば、仏僧は命ぜられ修得した上で就任した鎮護専門官僚ということ。)

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