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2010.7.23
 
 


土器の形態による時代区分に何の意味があるのだろう・・・

 京都の話が結構面白いので、なんとなく書いていたのだが、突然中断してしまった。飽きた訳ではなく逆。成り行きで、たまたま土器が気になってしまい、どう考えるべきか一寸悩んでしまったのである。どうでもよい話ではあるが。

 そんなこともあり、土器の話を書いておきたくなった。と言っても、すでに書いているのだが、再度、土器による時代区分ほど歴史観をゆがめるものはないと感じ入った次第。ただ今回は、土器を重視するのは、必ずしも日本の学界の特殊性だけでない気もしてきたこともあっての、追加記載。
  → 「鍋釜合戦」 (2009.7.23 ) 、 「方針なき時代区分の命名」 (2010.3.4)

 実は、今の今迄、ほとんど気にとめていなかったのが、佐世保市泉福寺にある砂岩の岩壁洞窟で発見された土器。どこまで信頼性あるデータかはわからぬが、約13,000年前のものとされている。日本最古のようだ。調べていないが、世界最古の一つだろう。
 この年代は常識では旧石器時代では。土器が登場するのは新石器時代と習った覚えがあるから、丁度過渡期と考えてよかろう。ところが、そんな時代も「縄文時代」なのである。
 日本の歴史観とは、このような洞窟生活の時代と、大集落の竪穴住居の時代をひとくくりにする訳だ。このセンスには愕然とさせられる。一体、日本では、時代区分をどう考えているのだろうか。
  → 「佐世保の歴史 第二章 縄文時代の佐世保」 佐世保市 [2003年]

 そうそう、言うまでもないが、これは縄文式土器ではない。特徴的文様は、縄ではなく豆粒なのだ。小生の感覚では、器の口を手で持ちやすいようにするためにつけたブツブツ突起ではないかと思うが。まあ、それはどうでもよいが、ポイントは縄文時代の土器とされている点。・・・小生には、縄文時代のコンセプトがまったくわからない。

 縄文時代とは、自然採取経済を主体とするものの、栽培も取り入れることができるようになり、住居を建てて定住集落を作るようになった頃を指すのかと思っていたら、洞窟民も該当するらしい。両者は全く違う時代と見るべきだと思うが、土器を使っていれば同時代と考えるらしい。それなら、土器にどのような意味があるのだろうか。
 素人からすれば、土器の時代区分など簡単極まる。土器でどうして歴史区分ができるのか、全く理解できない。

 ちょっと書いてみようか。

■先ず第一期。土器の登場。
 これは、移住型から、半定住に変わった頃。ただ、道具が未熟なので、住居を作る力はなかった。洞窟のような自然を利用して住処にしていた訳である。旧石器と新石器で時代を分けるのはよくわかる。石器の質が高まったことで、狩猟用を始めとして、高度なな道具を作れるようになり、生産性が飛躍的に向上したと考えるのは自然なことだからだ。それに応じて土器に意味が出ただけのこと。乾物用や水の容器ではなく、脂分の保存と考えるのが自然である。金属の道具が無い限り、耕作の生産性が買う段に上がる訳はないからだ。  ただ、煮炊き可能な土器を生み出したのはイノベーションそのもの。最初の形態はそれまでの木皮容器と同じだった筈だが、火を使うようになれば、土器は、石で支え易い形態になる筈。泉福寺発見土器はその観点ではいかにもという感じがする。ラクビーボールのような形態であり、キックする際にボールを立てる姿を彷彿させる。
 ただ、この形では移動させるのは難しかろう。そうなると、別途、地面に直接置ける丸底あるいは平底の土器もあったと考えられる。

■洞窟から出るのが、第二期。
 食糧調達に便利な箇所に住居を構えることができるようななった時期。農業が始まったと考えることも可能だ。温暖化して、洞窟から出ることができたというだけのことかも知れぬが。
 この場合、土器を使おうとすると、洞窟内とは違い、支える適当な石を探すよりは、土中に土器の下部を埋める方が手っ取り早いし、安定し易い。それに、容器の大型化も容易だ。従って、土器の形態は縦長で底が尖った、逆向き団栗型が中心とならざるを得まい。洞窟とは違い、多人数で焚き火を囲む場面が想定される。そうなれば、儀式的な雰囲気が生まれるのは成り行き。
 信仰にかかわる象徴的装飾が土器に付随することになり、その象徴的出土品が、火焔型土器と言えよう。生産性が高い地域なら、かなり凝った作品が登場しておかしくないし、調理用具としては実使用しない祭器用土器も作られたに違いなかろう。
 ただ、縄目模様の土器を、信仰と関係していると見なしてよいかは疑問。縄を巻いた用具で土器の厚み調整を行ったのかも知れぬし、燃料を器に立てかけるには、表面に凹凸があった方が便利そうだから。

■第三期は竈の登場。
 定住が進めば、常時稼働に近い竈が必要となってくる。と言っても、石で組むだけの簡単な構造だったと思われるが、こうなると今までの土に埋めるタイプの土器は邪魔もの以外のなにものでもなくなる。一気に代替されて当然。
 熱がかかる底は熱効率から考え、扁平なものになる。小さな竈を数多く持つこともあれば、大竈で多量調理もあっただろうから、両者並存で、様々な大きさや、機能別にデザインされた土器が登場したと思われる。

■ちなみにあくまでも土器で歴史区分したければ、第四期も設定できる。
 調理器具、食器、保存容器といった実用性と食の祭器以外の利用が急激に増えた頃だ。
 そう、古墳の飾りもの。これは万の単位で作られたようだ。とてつもない大量生産の時代である。
 尚、理由は知らないが、この頃の土器は“土師器(ハジキ)”と呼ばれているようだ。どこがそれ以前と違うのかは小生は知らない。

 まあ、素人だから、こんなところ。
 おわかりだと思うが、第二期を普通は縄文時代と呼び、第三期が弥生時代で、第四期は古墳時代となる。

 こんな土器の流れを設定して、はたしてまともな歴史観が生まれるものだろうか。
 例えば、鉄器時代といえばよくわかる。強力な武器が登場した訳だし、耕作効率が格段にあがる。水利工事の質も違ってくるから、農業生産性は飛躍的に向上したろう。それに伴い、社会の仕組みも大きく変わって当然。
 それに比して、上記の土器の区分で、そんなイメージが湧くものだろうか。社会の変化に応じて土器が変わっただけのことではないだろうか。
 それに、これらの土器は区分できるといっても、技術的な断絶など全くない。信仰が変わった可能性はあるが、それは土器と直接関係しているとは思えまい。使用方法にしても、イノベーションと呼べる要素など指摘できまい。
 単に使われる場所が変わったことと、意匠がかわっただけ。芸術品として土器を眺めるのなら、確かに、この区分は意味があるが、そんな発想で歴史を眺めるのはご勘弁とはいえまいか。

 なかでも、小生がこれはアカンと思ったのは、弥生式土器は稲作化の時代と暗記させる教育がまだ続いていそうな点。
 誰が考えたところで、弥生式土器と稲作が繋がる論理は見つかるまい。当たり前である。米の調理なら縄文式土器でもよいからだ。生産性が高い農業が普及したから、弥生式に変わっただけにすぎまい。当然ながら、住む場所も変えたに違いないが、それは土器の断絶という話ではなかろう。
 効率的な稲作化の普及が重要と考えるなら、そんな農業を可能とした画期的な技術の象徴となりそうな物品でで時代を区分すべきではないか。
 それに、阿波とか安房という地名が残っていることから見て、弥生式土器が最初に使われだしたのは稲の調理用とも限るまい。

 ちなみに上記第四期の後は、須恵器の時代となる。そして、陶器、磁器へと進んでいくのだ。
 須恵器は轆轤使用の焼き物で、極めて硬いし、火にかけることはできないから、土器とは全く異なる器。しかし、いかに違っていようが、焼きモノの歴史を語るなら別だが、一般の歴史区分に須恵器の時代を持ち込もうという人などいまい。そんなものが、歴史を象徴する文物とは思えないからだ。尚、“土師器(ハジキ)”の次世代を無理に設定したいなら、轆轤使用の“瓦笥(カワラケ)”になる。

 なぜ、こんなつまらぬ話を始めたのかは冒頭に書いたが、なんとなく、京都地域には土器に強い思い入れがあるような気がしたから。しかも、縄文や弥生という器のデザインなどどうでもよく、土の色にこだわっているようなのだ。
 その話は、別途してみたい。


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