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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.3 ■■■

後書き考

「酉陽雑俎」に序はあるが、後書きは無い。
消失したのではなく、当初から書く気がなかったのではないか。最後の巻まで読み通してもらえれば、それで結構ということ。
どうせ、この本も滅失の憂き目にあうだろうから、限られた人であっても、その頭になにかが残ればそれで十分と考えていたと見る。しかし、予想以上の読者からの反響があったことと、廃仏棄寺による佛経典破棄を知ってしまい続集を出すことになった訳だが、当初はそんなことは考えてもいなかったと思う。残念ながら、続集の序は一行以外は喪失しているが、おそらく為政者にとって余り心地よくないない文章が入っていたのであろう。
  「續集序」

ついそんなことを考えるのは、白楽天の「白氏文集」に対する態度と正反対に映るから。

この本が残っているのは、初版の恵萼筆写本(蘇州南禅寺奉納書籍@844年)が日本に渡来し一世風靡したことが大きい。日本では、応仁の乱や廃仏毀釈運動でかなりの書籍が散逸したとはいえ、様々なところから古書が見つかるのである。
ここらは、中華帝国の風土とはえらい違い。時の権力が不快とみなせば、その手の書籍は焚書の対象になり、社会をあげてそちらに靡くことになる。権力の横暴と憤慨する人など稀で、逆に、そんな動きを嬉しがる社会と考えて間違いない。例えば、桃源郷的話は帝国支配に好都合だから残るが、それが性的エロス表現だから排除すべしとなれば完全に抹消される社会。人々の記憶からも消えていくのである。
そのような流れに抗し、密かに本だけでも残したいものと考える、異端寛容派は極僅か。そんな姿勢をみせて異端と見なされたりすれば、一族郎党すべて徹底的に叩き潰されかねないからでもある。

題名の「酉陽雑俎」とは、そういう状況を踏まえて執筆された本であることを忘れるべきではなかろう。
  「序で垣間見える思想」

ただ、成式自身は、酉陽に失われた書籍が保存されているなど、全く期待していなかったろう。それよりは、中華帝国外との文化的交流が活発化し、異端も容認可能な多様化社会が生まれて欲しいものという感覚では。想像をたくましくすれば、酉陽の地とは、四神に守られた知の聖地ということ。
東の出口は、急峻な崖下を渦巻いて流れる荒れ狂う長江しかない。
北は、蛇の住む暗い山々に囲まれ、唯一の出口は剣が峰のような峠を越す道一本。
西は人が行き着くことが不可能としか思えない雪を被った超高山で、山麓の森には虎がすむ。
南は赤土の深々した山々が続く。
そう、四川盆地とは、青竜-朱雀-白虎-玄武の発祥地なのである。北は中原、東は江南、南は雲貴、西は西蔵から印度へと繋がっており本来は文化の十字路に当たる。しかし、現実にはその真逆で、国粋的な道教一色の地と化してしまった。・・・それを成式は憂いの目で眺めているという図が浮かんでくる。
「酉陽雑俎」という題名に拘っているのは、そんな感覚がベースにあるから。

そう考えると、後書きは無用となろう。

「白氏文集」とは余りに対照的である。
こちらは、明らかに、後世に残そうとの所存が見えている。寺に奉納したのも、滅失を避けるため。
当然ながら、後書きがあり。

 「編集拙詩成一十五巻
  因題巻末戲贈元九李二十」・・・元九=元 李二十=李紳
   一篇長恨有風情
   十首秦吟近正聲
   毎被老元偸格律
   苦ヘ短李伏歌行
   世間富貴應無分
   身後文章合有名
   莫怪氣粗言語大
   新排十五巻詩成

楽天の嬉しそうな気分が伝わってくるではないか。

成式は、そりゃ甘いと見たに違いない。長安での寺院巡礼を想いだしながら、貴重な梵字経典の一切合切が消え去ってしまった状況を目のあたりにしたのであるから。
「酉陽雑俎」にしても、都合が悪いとなれば消される運命。マ、それならそれで結構と達観していたに違いなかろう。
従って、この本を読むのは、ことのほか難儀の筈。珍しい話を断片的に収載しただけだから。しかも、それぞれの奇譚はできる限り簡素な形にし、互いに脈絡なさそうに収録した形式に仕上げてある。読者は、成式の洞察力からすると、ここはこう読むべきということかナと、頭を捻る以外に手はない。要するに、素材を提供したから、勝手に読めと突き放されている訳である。
明らかに、一般大衆を端から相手にせず、異端に寛容なインテリ向け読みモノ。物事の本質の見抜き方をご教授しようといったところだろう。マ、俗言の方が、社会の真実をより語ってくれることが多いヨと指摘しているとも言える。
そんな類書は無い。従って、良質なインテリ層は保管し続けていた可能性が高かろう。その結果、この本はそこそこ残ったのだろう。

白楽天とは逆の道を歩んだことになる。
楽天は、できる限り誰でもが理解できるよう、あくまでも易しい表現にこだわった。成式が指摘したように、詩句を刺青で掘り込むパンクがいるほど。それはそれで大成功したのである。

そこには、かすかではあるが、それを通じて社会が良い方向に変わって欲しいという望みが見えてくる。その辺りだけは、成式と心根は似たところがあろう。要するに、生活を棒に振ってまで、正論をただただ述べたところで、社会はなにも変わらんし、下手をすれば悪い方向に進みかねないのが現実との見方をしているということ。

そのように考えると、「酉陽雑俎」最終の巻二十完結箇所は、成式流の後書きかも知れぬという気になってくる。
その卷二十とは「肉攫部」篇。
現代人からすればなんだかわからぬ用語だが、鷹の趣味話。しかし、呂氏春秋 季夏紀 六月紀に"鷹乃學習。"とあり、権力中枢からすれば四方山話にでてくるような話題。
その意義については、すでに記載済み。
  「鷹狩」
要するに、鷹は王権の重要な印でもあったからこそ取り上げたということでもある。
藩臣千里貢名鷹,雨血風毛遍九嗽書存今東閣,君王新卻海東青。 [全史宮詞卷十六 宋]
   嗽書=養鷹

この篇の特徴と言えば、矢鱈に、羽の色変わりの話が多いこと。おそらく、それは宦官の鷹狩愛好者相手の薀蓄話でもあろうが、よくよく読むと、鷹が跳んで行く先の地名が入っていたりする。それがなかなか意味深に映る。よくできた仕掛けである。上流階級だけに可能な贅沢三昧のお遊びではあるが、せっかくだからのめり込みながらも、社会への目を開くお話に仕立て上げていると言えよう。ただ、それが通じる人はサロン主義者だけだろうが。

しかし、よくよく読んでみると、この篇の主張の核は「凡」かも。わかりきったことだが、それを本当に理解することは簡単ではないと言いたげ。・・・

 凡鷙鳥飛尤忌錯,喉病入叉,十無一活。
 叉在咽喉骨前皮裏,缺盆骨内,之下。


最終巻は以下の文章で終わる。今村与志雄がパラグラフに分けてふったナンバーでは872。こんなにもあるのかという数字。
しかも、最後も矢張りナンダカネの内容。徹底しているのである。・・・
 凡夜條不過五條數者短命,
 條如赤小豆汁與白相和者死。

   條=滌=+木+攸(人の背中に水をかけ洗い流し、禊ぎを行うこと)
 凡網損、擺傷、兔傷、鶴兵爪,皆為病。

こんな鷹取りがなされれば、どうなるかなど自明。
鷹飼いを趣味にしている人にわざわざ書くような話ではなかろう。
ある意味、立派な書に書かれている懇切丁寧な寓話的な動物比喩話を高く評価する人達への批判にもなっている文章と言えよう。知的営為とはそんなものではないのだヨと。
つまり、この短い文章では以下のストーリーが暗示されているのである。
 一網打尽的に補足される。
 脱獄せざるを得なくなる。
 泳がせられ挙げられたり。
 標的化され、ついに刺客が送り込まれる。
たとえ命が保たれようが、このような扱いが続く限り、皆、病に至るのである。
これは、社会の病ということ。

もっとも、学者によれば、鷹とは鳩属。
鷹鳩屬也。觴凡五種。鷹為爽鳩。仙陽而變則喙柔仁而不驚。 [漢 蔡(清 蔡雲編):「蔡氏月令」竇二]
鷹は鳩になるし、鳩も鷹になるというのである。
鷹則為鳩。鷹也者,其殺之時也。鳩也者,非其殺之時也。
五月---鳩為鷹。
 [「大戴禮記」夏小正]
そういうものかも知れぬ。と、言うより、この時代、それは常識のレベル。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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