表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.10 ■■■ 酉陽雑俎的に山海経を読むキメラとは、特徴を示す表現様式であるとの話をしたので、その続き。 [→「キメラ偶像の意味を探る」] 気になったのが、"夔"。 角は無いが牛のような姿で、暴風雷雨の神として扱われていそうな獣。何故か、一本足なのである。・・・ 東海中有▲流波山,入海七千里,其上有獸,状如牛,蒼身而無角,一足。出入水則必風雨,其光如日月,其聲如雷,其名為夔,黄帝得之,以其皮為鼓,橛以雷獸之骨,聲聞五百里,以威天下。[大荒東経] 又東北三百里,曰岷山,江水出焉,東北流注于海,其中多良龜,多鼉。其上多金玉,其下多白珀,其木多梅棠,其獸多犀象,多夔牛,其鳥多翰鷩。[中山9系] 「韓非子」外儲説左下によれば、堯帝は楽の能力発揮には一本足で足りるからと解釈、孔子も一本足ではない、と語ったそうだ。すでに、一本足がどのような能力を指すかわからなくなっていたようだが、単に能力を示す表現としての一本足であると理解されていたようである。> そうなると、一本足とは雷音の凄まじさの表象ということだろうか。夔の皮を太鼓にしたというなら、それは足を失った揚子江鰐が森をモソモソ進む(夊)姿の表象とみるのが自然だが。 (降雨儀式に於ける犠牲牛を意味するとの解説だらけ。捧げられる神より、供物の方に力があり、神とされたとの理屈なのだろうか。納得しがたい。 「荘子」外篇 達生第十九では、降雨信仰とつながることが多い蛇と同列扱いだし。・・・水有罔象,丘有峷,山有夔,野有彷徨,澤有委蛇。) そうみると、それなりの納得性を感じさせないこともないが、「國語」魯語の韋昭 注によれば、「木石謂山也。或云夔,一足,越人謂之山繅[=糸+巢/巣]也。或言獨足魍魎,山精,好學人聲而迷惑人也。」とされている。 ここでは、山の神は、名称的には相当な混乱状態。全く迷惑千番な話。 だが、それは、致し方あるまい。 山信仰と言っても、それが何を意味しているかは曖昧なことが多いからだ。山繅など、いかにも緑蚕の山繭を示しているようにも思える訳で。 山そのものではなく、山林や、特別な古木を指していることも多かろう。[こだま/木霊,木魅,木魂,谺] 例えば、木客は、もともとは樵を指す言葉だろうが、山の神として紹介されることが多い。"木客大冢"との言い方があるから、山に生えている樹木信仰的な用語から来ていそうな言葉である。従って、それが、山の精に当たるのかと問われれば、ナントモ答え難し。 [→「千年古墓」] しかも、モデルが樵だとしても、その実態は、薬草に詳しいが異質な生活習慣の山岳部族を指しているかもしれない。そんな場合、その部族言語の自称名が使われたり、部族トーテムがママ流用されもしよう。もしも、そうだとすれば、言葉の意味は全く読み取れないことになるし、多種の名称が乱立しかねまい。 それに、山に棲んでいる生き物が山の精の代表とされる可能性も高かろう。そうなると、ヒトのような仕草をする猿類や、滅多に合えない美しい珍鳥が選ばれてもおかしくない。。 実際、狒々が、魑魅に似た鬼である山都のことと見る識者もいる訳で。・・・ 狒狒,如人,被發,迅走,食人。(梟羊也。《山海經》曰:“其状如人,麵長唇K,身有毛,反踵,見人則笑。交廣及南康郡山中亦有此物,大者長丈許。俗呼之曰山都。)[爾雅注疏 卷第十] しかしながら、これをそのまま信じる訳にはいかない。狒狒などいたかわからぬということではなく、贑巨人[海内経]や梟陽國人[海内南経]に、山都の記載が見つからないからだ。(版が異なるのかもしれぬが。マ、裸の動物だから、ヒトではなさそうだし、狒狒としか思えないが。)・・・ 廬江大山之間,有「山都」,似人,裸身,見人便走。有男,女,可長四五丈,能𡅇相喚,常在幽昧之中,似魑魅鬼物。[干寶:「捜神記」第十ニ卷] この山都という名称だが、"〇都"との言い方で、「卷十五 諾皋記下」にでてくる。異様な動物"鳥都"が居り、"豬都"とも呼ばれるとのこと。・・・右手第二指上節邊禁山都眼 山に修行と称したミーハー族が大挙して押し掛け、"豬都"属ができあがっている状況を皮肉っているのかも知れぬ、というのが小生の推測だが。 [→「獺祭か、はたまた豬都か」] ただ、山の神といっても、尊崇対象かと思いきや、逆なのである。神と言うよりは鬼。 政権転覆で、突然にして逆賊になるようなものかもしれない。それこそが、中華帝国らしさでもあろう。 なんといっても有名なのが"山魈"。新年の爆竹行事とは、山からやってくるこの悪疫を驚かせて、追い払おうというもの。未だに、続いている儀式である。この"山魈"だが、別名は結構色々ある。もちろん、段成式が、そのことに注目せよ!ということで記載しているのである。 [→「爆竿」]・・・ 山蕭,一名山臊,《神異經》作猩參(㺑),《永嘉郡記》作山魅,一名山駱,一名蛟,一名濯肉,一名熱肉,一名暉,一名飛龍。如鳩,青色,亦曰治烏。巣大如五鬥器,飾以土堊,赤白相見,状如射侯。犯者能役虎害人,燒人廬舍,俗言山魈。 [前集卷十五 諾皋記下] 上記の山臊だが、旁の喿が基本形らしく、肉偏だけでなく、犭偏や糸偏も使われているらしい。[山𤢖 山繰]鬼偏はないようだが、喿の代わりに肖をあてたのが山魈のようだ。 この鬼だが、獨腳鬼とされている。山からやってくるというのに、獨腳鬼、つまり一本足らしい。どういうことなのだろうか。 原典を見るとこうなっている。この時代にすでに音で驚かす方法が示唆されている。・・・ 《神異經》云:「西方山中有人焉,其長尺餘,一足,性不畏人,犯之則令人寒熱,名曰山臊。人以竹著火中,烞熚有聲,而山臊驚憚遠去。 [梁 宗懍 撰:「荊楚歲時記」] 成式は割愛したようだが、山経には、まだ2つほど、該当しそうなものがあるので付け加えておこう。両方とも分類上は獸であるが、神とは紙一重。帝国官僚のお墨付きが無いだけと見てよかろう。 山膏[=高+肉] ▲苦山,有獸焉,名曰山膏,其状如逐,赤若丹火,善罵。[中山経] 山𤟤[=犭+軍] ▲獄法之山…有獸焉,其状如犬而人面,善投,見人則笑…見則天下大風。[北山経] だが、山からくるのなら、上記にも出てくるが、本来の名称としてはやはりこちらだろう。その姿は小兒獨足とされている。・・・ <山精 (蚑 暉 金累 飛飛) 山鬼> 抱樸子曰:“山中山精之形,如小兒而獨足,走向後,喜來犯人。人入山,若夜聞人音聲大語,其名曰蚑,知而呼之,即不敢犯人也。一名熱内,亦可兼呼之。又有山精,如鼓赤色,亦一足,其名曰暉。又或如人,長九尺,衣裘戴笠,名曰金累。或如龍而五色赤角,名曰飛飛,見之皆以名呼之,即不敢為害也。”[東晋 葛洪:「抱朴子」内篇卷十七登渉] どうしても、1足になるようだ。 尚、一足一手欽音ということでは、西山4系▲剛山にも人面獸身の神𩳁が存在する。文字からみて、同類ということになろう。 こうして眺めてみると、鰐のような強力な尾とか蛇尾を独足と見なしているのではなく、2本足である人が片方を失った姿を示していそうだ。 そうなると、2つのタイプがありえよう。 1つは、生活スタイル上、事故等で手足目の片方を失うことが多い部族を示していると見るタイプ。 これは、一本踏鞴[たたら]伝説があるため、もっぱら日本での見方である。精錬の祖とみなされているヒッタイトやその技術を東に伝えたであろうタタールにはその手の話があるとの情報が見つからないから、この説は無視した方がよかろう。中華帝国の体質からすれば、片目、片手、片足は刑罰の結果と考える方が自然だ。と言うことは、山神に直接仕える神官はそのような姿にされた可能性が高かろう。 しかし、鬼的な扱いになっているから、それとは異なるかも。・・・山に逃れたものの、結局隷属させられた部族が、絶滅を逃れるために、部族長が自ら進んで目、手、あるいは足を差し出したということか。部族長が二度と戦えそうにない体にしたことを示す訳で、宦官発想と同じで、中華帝国官僚が大歓迎する方策である。 もう1つは、部族が、2つの相反する勢力に分かれたというもの。 前者は山中における金属精錬専任者達との説があるようだ。 後者は、古代の実例をあげにくいが、後世の信仰を考えると十分ありえると思う。12〜13世紀創建なのだが、ベトナムタインホア省の有名なSam Son Beach近くの、Truong Le Mountain北側に、One Leg Temple(Doc Cuoc Temple:仏教寺院ではない。)がある。僅かな観光情報しか見つからないので、実態はよくわからないので残念だが、一足一手一眼の伝説の神が祀られているようだ。それは海を平定した神らしい。従って、漁民信仰の神だろうが、あくまでも、それは半身なのである。残りの半身は山に残ったという。海彦と山彦はそれぞれ半身ということ。 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |