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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.15 ■■■

酉陽雑俎的に山海経を読む

--- 全体像:13 西王母の扱い ---

「酉陽雜俎」は奇妙奇天烈な怪物だらけの奇書とされがちだが、繰り返して書いているように、全巻を見ればそのような書籍ではないことはすぐにわかる。
しかし、そのレッテルが外されてこなかった理由は、"奇書"扱いされている「山海経」を真面目な書とみなしていそうに映ったからだろう。

その「山海経」だが、地誌の体裁にもかかわらず、取り上げられている山々を現実の地図上の場所に比定するのは困難であり、そこを儒教勢力がついたから、空想の書と見なすことになったのだろう。それに加え、知識人が信奉する司馬遷の言葉が効いたのは確か。・・・
太史公曰:《禹本紀》言「河出崑崙。崑崙其高二千五百餘里,…
至《禹本紀》.《山海經》所有怪物,余不敢言之也。

[:「史記」卷一百二十三 大宛列傳第六十三]

しかし、空想が過ぎるというか、お話を創りあげるという点では、「山海経」をはるかに超えているのが後世の為政者と宗教勢力である。
崑崙と西王母の話がどう扱われているか眺めるだけで、そんなことは素人でもわかる。従って、「帝江=渾」に注目している成式がそれに気付いていない筈がないのである。 [→「有識無面目の帝江」]

実際、「"周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、彼女に会い、帰るのを忘れた。"とか、"前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えた。"というストーリーは道教勢力と政治権力が力を合わせて生み出したもの」というのが、「酉陽雑俎」を読んでいると自然にわかるようになっている訳で。 [→「桃信仰の変遷」]
従って、李白の道教文学が一世風靡していることに、嫌気がさしていた可能性さえある。 [→「李白評」]

実際。「山海経」はどうなっているか見ておこう。・・・
崑崙之丘は文体と内容と情報量から見て特別扱いされている。帝之下都だからであろう。
そこは、是多怪鳥獸の地でもある。[西山経]そして、西王母は、崑崙虚北に在すると。そこでは三羽の鳥が食を供している。[海内北経]
その崑崙之墟だが、開明獸が守っている。[海内西経]
ところが、その一方で、西王母の居住地は▲玉山とも。そこでの姿は人的だが、蓬髮で豹尾虎齒。[西山経]さらに穴棲とも。[大荒西経]しかも、凶的な役割を担っている。

屈原:「楚辞」卷第一離騷經には崑崙話があるが、そこには西王母は登場しない。両者に関連性があるとは考えていなかったか、西王母に注目していないのどちらかであろう。単に、崑崙は巡り巡って到達するような地であるという点に注目しているにすぎない。
吾道夫崑崙兮,路脩遠以周流。
(尚,卷第三天問では崑崙と書いてはいないが, その様相を描いている.)

「呂氏春秋」孝行覽本味にしても、"菜之美者:崑崙之蘋"と"水之美者:…;崑崙之井"として引かれているだけで、西王母は登場しない。

「淮南子」にしても、昆侖は河川源流地の扱い。西王母はそこから離れた、流れが消える地に居るだけで、関係があるようには見えない。
しかし、よく読めば、大きく替えられているのである。突然にして、不死薬を作る仙女とされているのだ。見方を恣意的に変えさせた政治勢力のための書であることがよくわかる。
禹乃以息土填洪水以為名山,掘昆侖虚以下地,中有搶驪繽d,…
河水出昆侖東北陬,貫渤海,…
昆侖之丘,或上倍之,是謂涼風之山,登之而不死。
 :
西王母在流沙之瀕,樂民、拏閭,在昆侖弱水之洲。
[卷四墜形訓]
譬若羿請不死之藥於西王母,姮娥竊以奔月,悵然有喪,無以續之。;[卷六覽冥訓]

西王母尊崇の流れが生まれたのは、ここらからだろう。

驚かされるのは、陶淵明は、そのように変貌した西王母を愛読書たる「山海經」から読み取っていること。読み取るといっても、細かなストーリーは一切記載されていない書であり、「穆天子伝」のストーリーに基づいて勝手に解釈して眺めているに違いない。
吉日甲子。天子賓于西王母。 [晉 郭璞:「穆天子傳」卷三]
なにせ、蓬髮で豹尾虎齒に描かれているのに、妙顏と言うのだから、トンデモなく強引な解釈である。・・・
「讀山海經」十三首から文言を拾ってみると、こんな具合。・・・
…泛覧《周王傳》 流觀《山海圖》
   俯仰終宇宙 不樂復何如。
 [其一]  周王傳=穆天子傳
…王母怡妙顏…王母怡妙顏 寧效俗中言 [其二]
…西南望昆墟… [其三]
…杳然望扶木…靈人侍丹池 朝朝爲日浴… [其六]
…雖非世上寶 爰得王母心。 [其七]

これを踏まえて、「酉陽雜俎」に戻って見てみよう。・・・

西王母姓楊,諱回,治昆侖西北隅。以丁丑日死。
一曰婉衿。
 [卷十四 諾皋記上]

不老不死とは無縁な存在であり、魅力ある女性とされている、と指摘している訳だ。
これこそ肝。

要するに、女性を抹消させたいと考える男系社会において、何時までも残り続けそうな女神については、時々に位置付けが変わってくるだけのこと。(山海経から想像するに、ほとんどの女神が消えてしまったと見てよいのでは。)

一番古い女神は、どうにか残った。言うまでもなく、人頭蛇身の女。ヒトを創出した神であり、女系社会時代の残渣でもある。そのような神は、抹消したくても人々の意識にいつまでも残っている訳だ。そのため、男神との交合が図られるなど、その存在感を薄めるための話が次々と作られて来たのである。

一方、ここで取り上げた西王母は一介の西方の山の巫女でしかない。ただ、それはことの他重要な意味を持っていた。武力統帥権と神権が併存していた時代の最高権威者の象徴でもあるからだ。巫女だが、国王でもある。これも、人々の潜在意識の奥底に残っているから、抹消し難いものがある。従って、女の地位をできるだけ下げようとの動きと同様なことが発生する訳だ。それに、巫女自体も、統制的ト占にそぐわないから、職掌の再定義も行われることになる。

もう一つ付け加えるなら、織女。これは、職能としての女神が前身だと思われる。成都の初代蜀王"蚕叢"は養芋虫を始めたとなっているから、その周辺の独立女王あるいは、王の娘か后と考えることもできよう。その魅力的な織布技術を必要としていた河向うの強大な武力勢力に拉致されたのであろう。年1回は故郷の人々との会合が許されたということ。
この場合は、女神として力を発揮する訳ではないので、脚色する要無しかも。

(参考) 森雅子:「西王母の原像:中国神話における地母神の研究」史学 56(3),1986年

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