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2010年1月14日
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【古都散策方法 京都-その7】
西陣に食べに行く

小生にとっては西陣は食べに行くところだった。
 西陣とは正式には地理上のどの範囲か知らないが、なんとなく、南東の角の交差点「堀川・今出川」と北西の交差点「千本・寺之内」で囲まれた一角辺りと思ってきた。

 小生の場合、この地のイメージは織物の地というより、食べに行くという感じ。

 と言うのは、その昔、西陣織会館に立ち寄ったのだが、その帰りに入ったお店が気にいったにすぎない。
 織機の音がする街だから行ってみたらと言われ、小路を歩いたらたまたま気付いたのである。当時はガイドブックやパンフレットには全く載っていなかった。おそらく、宣伝したくなかったのではあるまいか。

 お昼を大分過ぎていて、お腹がすいていたこともあったが、白濁した鶏のスープが実に美味しいかったのである。しかも、お客さんゼロのようで、通されたのが、古びた狭い個室。中庭もあったりして、その風情がなんとも言えず、こんなところで帯の商談でもしていたのかと、歴史を感じさせられたのである。

 食事の後は、そこらで、お土産でも買うかとなる。和服は滅多に着ないから、西陣はそれ以上ではなかったのである。

 織物事業で大成功して倉を建てた人がいたのだろうから、色々なお店がありそうだが、小生が知っているのは以下。もっとも、お大臣は花街かな。上七軒はすぐだし。
     ■■■お店■■■
     【鳥岩楼】
       ・地鶏の「水炊き」
     【かま八老舗】
       ・どら焼「京北山」
     【鶴屋吉信】
       ・和菓子「京観世」
       ・2階茶寮
     【五辻の昆布】
       ・手すきのおぼろ削り昆布「もぞく」
 実は、お店の前を通っただけで食べたことがないので、どうして西陣のどら焼きが有名なのかわからぬが、じっくり手をかけているということなのだろう。お店の名前が面白いが、釜職人が銅鑼を作って焼いたのだろうか。
 東京では、お菓子の名称は、どら焼だけでなく、「三笠山」と呼ぶことが多いが、「京北山」という名称が愉快。
 「三笠山」の場合、本来は鶯餡にして若草色を表現したに違いないと睨んでいるが、北山だから栗が入っているのかな。
 そんなことにが気になったのは、都内の展示場で、どら焼きならぬ、虎焼きがあることを知ったから。寅年の縁起もの菓子という訳だ。直接金属に乗せずに紙を挟むことで縞模様が出るように焼く「どら焼」。どら焼とは虎焼から来たのだという主張も一理ある。
 ハハハ。小生は、どちらでもかまわないが。

路地歩きの前に地図を眺めよう。
 全国どこでもそうだが、この地もマンション化の波に洗われている。そのため、街並み保存運動が盛んなようである。ただ、櫛の歯型に小さな家屋が並ぶ街だから、それを維持せよというのは並大抵のことではなさそうな感じがする。
 それに、観光業は薔薇色とは言い難いし。なにせ、国内旅行消費の総額は減る一方だ。にもかかわらず、全国津々浦々観光業化のための自治体の投資だらけ。マクロでは、収益を無視した熾烈な競争なのだからたまらぬ。
 西陣も智恵で頑張って欲しいものだと思う。

 まあ、そんなことで少しまとめて見ることにした。

 先ずは史跡だが、西陣といっても戦乱で焼け野原化したのだから、たいしたものがあろう筈もない。あとは、お菓子「京観世」があるのだから、どこかにその所縁がある程度かな。
 探してみると石碑はあるらしい。小生も、何回もその前を通っている筈だが、今まで目にとまったことはない。京都は、どこに行っても、道端に、石碑、道標、お地蔵様を見かけるし、とても小さなお社が家の片隅にあったりするもの。そのため、言われて初めて気付かされたりする。
 学校内には祠があるようだが、小学校だから拝見は無理だろう。外壁のどこかに記念表示板でもあるのかも。
     ■■■史跡■■■
     【五辻殿址】。
       ・後鳥羽上皇院御所址
       ・五辻通という名称の由来
     【山名宗全邸宅跡】
       ・西陣とは、応仁の乱 西軍の大将の陣地ということだそうである。
       ・応仁の乱とは、何がどうなっているのかさっぱりわからぬ内乱。
     【西陣中央小学校】
       ・“中央”とは4校合併の名称
       ・観阿弥/世阿弥の屋敷跡
        (観世稲荷、観世井)

 と言うことになれば、西陣織の地という観点の路地歩きか。
 この場合、行く前に地図を見ておいた方がよい。それも、観光用ではなく、行政区域を記載した地図。
 町名を眺めるということ。
 はほ〜。なかなか味がある名称が並ぶわい。・・・
 硯屋町、 紋屋町、 真倉町、 大黒町、 聖天町、 五辻町、 観世町、山名町、等。
 東京のように広域化して、丁目と番地で整理するようなことはしない訳だ。電子情報化の時代、同じ名前で無いなら、どうにでもなるのだが、昔の名前を消し去りたい人が多いからどうにもならない。羨ましい限りだ。もっとも、それはここら辺りだけかも。1988年につくられた千体仏塔は、市の区画整理で収容できなくなった石仏を集めたものだというのだから。(千本・大宮近くにある壬生寺内)
 この地域は東西約1Kmといったとこだから、迷ったところでどうということもない。適当に散策。といっても、家内製手工業地帯が一般住宅化した訳だから、そう楽しい場所ではないが。

 ただ、この辺りに、見るべき場所が無いということではない。
     ■■■展示場、等■■■
     【西陣織会館】
     【京都市考古資料館】
     【裏千家センター-茶道資料館】
     【表千家不審庵】外観のみ
     【裏千家今日庵】外観のみ

西陣の寺社はなかなか面白い。。
 何度もこの地域を歩いているのだが、散策という気分ではなかったから、寺社の門前は通りすぎていた。
 いや〜、たまたま一覧にしてみたのだが、実に味があるものばかり。人間臭さ芬々。寺社そのものではなく、その名称の方だ。もちろん俗称での話。京都の人々は正式名称で呼ぶのがえらくお嫌いと見える。
 この辺りが、東京から見るとなんとなく壁に感じる由縁。私等の寺社ですゾといった自己主張に聞こえるからだ。
 ということでご紹介しておこう。
     ■■■寺社■■■
     【白峯神宮】
       ・俗称“まりの神さま
       ・蹴鞠の宗家跡地の神社・・・摂社
       ・祭神は白峯御陵(崇徳天皇)から・・・怨霊信仰である。
     【宝鏡寺】
       ・俗称“百々御所”あるいは“人形寺”
       ・皇女用遊具の所蔵では超有名
     【妙蓮寺】
       ・本門法華宗の本山
     【首途八幡宮】
       ・義経旅立ち[“かどで”(首途)]の八幡神社と言う意味
       ・小さな公園と同居
     【本隆寺】
       ・俗称“不焼寺”(応仁の乱でやけなかった。)
       ・法華宗真門流本山
     【雨宝院】
       ・俗称“西陣聖天
     【石像寺】
       ・俗称“釘抜地蔵
     【引接寺】
       ・俗称“千本ゑんま堂
     【大報恩寺】
       ・俗称“千本釈迦堂
       ・“おかめさん”像
       ・12月の無病息災行事“大根炊き”
       ・再建三十三間堂より古い建造物(非禅宗の伝統様式)
     ■■■上記地図範囲外の神社(参考)■■■
     【北野天満宮】東門が五辻通西端
       ・俗称“北野の天神さん
       ・言うまでもないが、怨霊信仰である。
     【晴明神社】西陣織会館の南
       ・陰陽道(紋は五芒星)
     【大将軍八神社】今出川・天神通から南へ行った一条通近辺
       ・方除(金星)

 聞くところによると、修学旅行生に陰陽道が大流行だそうで、晴明神社は大賑わいなのだそうである。上記地図には掲載していないが、西陣織会館の南である。
 そこから人が流れてくれれれば一大観光地ななるのかも。
 それにしても、京都は何故こうまでも親しげに寺社を呼ぶのだろうか。東京で“天神さん”のように、さん付けにすることなどあり得ないと思う。
 そして、この辺りの特徴は、呪術や怨霊の神社が多いこと。
 あと、気付いたのは、上記以外も含めて、この辺りに日蓮宗系(法華経)のお寺が目立つこと。
 そういえば、本阿弥光悦も確か日蓮宗の筈。輝く金色を愛する人達にとっては、質実剛健を良しとする墨色の禅宗文化はどうにもたまらなかったに違いない。

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