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2010年1月21日
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【古都散策方法 京都-その10】
高雄で密教の古里に出会う

京都の高尾と呼ぶと本家に失礼だが、どうもその感あり。
 今回は、なんとなく馴染み感を覚える高雄をとりあげよう。
 もっともそう思うのは東京に住んでいる人だけかも知れぬが。

 それは名称のせい。
 高雄・槙尾・栂尾は三尾とされ、高尾とも書くといわれれば、京都の高尾山といった印象を持ってしまうからだ。要するに、密教寺院の山というより紅葉名所。秋には雑踏どころではなくなる。そんなことで有名な観光地という意味。
 ただ、紅葉の天麩羅は高尾にはない。食べたいなら裏高尾の景信山の茶店まで歩くことになる。一方、高雄では供されているようだ。こちらは食べたことがないが。
 尚、本場は箕面らしい。以前、観光シーズンで京大阪で宿が見つからず、唯一、一室見つけた箕面に泊った時に知った話。

 東京の高尾山の場合、拙宅を9時に出ても余裕で頂上でお弁当を食べられる交通至便さ。高雄はバスなので多少厄介だが、時間的には同じようなもの。
 ただ、高尾山の場合は「薬王院」の境内を通り抜けるだけで、ハイキングが主目的だが、高雄では「神護寺」参拝が主目的という違いはある。だが、お寺の状況からいえば全く逆。高尾山薬王院では滝に打たれたり、山道を駆け巡る山岳修業者を見かけるが、高雄山神護寺ではそんな様子は無い、
 そう言えば、高雄には“滝”はないとされるが、腑に落ちぬ。少し南の愛宕山の奥にでもあったのでは。そうでなければ、川の名称が“清滝川”となった理由がわからぬではないか。他に考えられるのは、神護寺の東側ということでの命名。弘法大師が“青龍”川としたのかな。
 中国文化をともかく取り入れたいという熱意を考えればありそうなことではある。この川の渓谷美を錦雲渓とか、金鈴渓と呼ぶ位だから。
 一条通を西に、仁和寺辺り(宇多野)から、高雄を経て、若狭へ向かう街道を、周山街道と呼ぶのも、中国文化愛好姿勢から。これは明智光秀の周山城があったからの命名だそうだが、中国の国家、周を羨望の眼で見つめていたということ。
[ハイキング好きなら、清滝川の峡谷を愛でながら下り保津川(下流は桂川)に出るのが一番かも知れないが、遠路訪問者は不慣れだから、遠慮するのが無難。]

 こんな風に眺めていると、真言密教の発祥地なのに、思ったほどの密教色を感じさせないことに気付く。
 高尾山と言えば天狗様と言うくらいで、そのイメージは護摩と修験道。力強さに満ちた密教のお寺。その程度を、神護寺に期待すると拍子抜け。いかにも山を切り拓いたような、広い境内に都会の一般寺院を移築したような雰囲気がするだけなのだ。
 しかし、それは昔からかも。

神護寺の薬師如来が密教普及の牽引車ではないか。
 はっきり言えば、このお寺拝観の決め手は境内や建物ではないということ。重要なのはご本尊。
 金堂に安置されている薬師如来立像がすべて。

 と言うことで、少しご説明しよう。
 法隆寺や薬師寺の像を見ればわかるが、如来は自ら動く必要がないから坐像が基本。唐招提寺は立像だが、それは脇待だから。
 ところが、このご本尊は立像。つまり、自ら行動するお薬師様ということ。
 しかも、造りが一木彫だという。そうなると、魂を込めて彫られた像に違いない。

 と言うことで、写真を眺めると、独特なお姿である。
 先ず、薬瓶が目立つ。如来に道具は不要だと思うが、薬瓶を持つことで、その力を見せつけているような姿だ。そんなこともあるのか、知的な感じがしない。現代感覚なら、脂肪が多すぎる体型とでもいおうか、要するに、力士的な強さを感じさせる像なのである。
 それに行動的な仏様と感じるもう一つの理由は、お顔の表情。たまたま個人的に感じたということではなく、おそらく、もともとの意図がそうなのだと思う。だいたい、白毫が無いではないか。
 薬師寺の坐像とは対照的である。眼光は鋭く、口は厳しいのだ。
 不動明王ほどでないにしても、同じように、威圧的ということ。これは密教仏に近い。

 これは是非とも拝見せねばと思ったが、実際にはよくわからない。人の大きさとほぼ同じで、暗すぎるからだ。まあ、しかたがないか。

 ともあれ、何故そこまで密教的な仏像になったのか、思わず考えてしまう。だが、このお寺の由緒を読むと一気に氷解する。平安京造営責任者の和気清麻呂公(733-799年)の私寺のご本尊だというのだ。
 と言うことは、皇位を狙う道鏡に対抗する役割を担った仏様に間違いなかろう。まさに霊験あらたか。

 う〜む。そうだったのか。

 曼荼羅に登場しない薬師如来を密教がどうして重視するのかよくわからなかったが、空海・最澄がこの仏様の威力に感服したということだな。
 このお寺は真言密教の発祥地だが、その基底には、この仏像があるということ。建築物はほとんど壊滅させられたというのに、よくそんな仏像が残っていたものである。大きな金堂寄進があって当然である。
[空海(774〜835年)は長期間にわたり住持(809〜823年)。
和気清麻呂(733〜799年)一族からの支援があったということ。
ハイライトは810年の国家鎮守の修法。812/813年には金剛界潅頂を行った。
そのなかには和気氏や最澄(767〜822年)が含まれている。
そして、824年、私寺を脱皮し神護国祚真言寺となったのである。]

江戸期のお寺は随分違う感じだったかも。
 このご本尊だが、現金堂が落成するまでは、毘沙門堂に安置されていたそうだ。そちらが「金堂」だった訳である。
 と言うことは、弘法大師住房跡に再建した大師堂も、江戸期は文覚堂だったに違いない。文覚上人のお墓があるくらいなのだから。
 真言密教寺院だから、金剛界の五智如来のお堂もあったに違いない。多宝塔内に、五大堂から移設された五大虚空蔵菩薩座像は、その変身像ということか。
 そして、現在金堂がある辺りには、井戸から汲んだ水を使って行う、金剛界潅頂用の建物の跡があったと思われる。

かわらけ投げとは文覚上人を偲ぶ遊びなのかも。
 話はとぶが、衣笠貞之助作品の「地獄門」という“総天然色”映画を見たことがある人もいるのではないか。1954年のカンヌ・グランプリ受賞作ということで。
 筋はたいしたものではない。
 高貴な方を逃がすための身代わり役となった“袈裟御前”(京マチ子)が、それを護衛する北面の武士(長谷川一夫)に一目惚れされ、強引な手口で迫られてこまりはて、夫になりすまして殺されるという話。主人に絶対忠節を誓う武士にしては、相手には主人を裏切ることを強要する矛盾が、人間の実像を示している話。しかも、この武士、丁髷を切ってけじめをつけるだけ。ここまできても、社会の枠組みを離れられない生き様を示している訳だ。従って、それなりの提起があるとは言える。
 正直なところ、素晴らしいのは、平安絵巻物調の画像だけ。

 なぜ、こんな話をするかといえば、これは実話だから。この武士とは、神護寺再興の文覚上人その人なのである。
[袈裟御前の、伝首塚/木像/関連の碑は上鳥羽 浄禅寺にある。鳥羽地蔵のお寺の参拝者向けにつくられたものかも。恋塚寺が別にあるようだから。]

 現代では、このような話は忘れさられれているようだが、江戸期には超有名だったに違いない。神護寺とは文覚上人のお寺というイメージが強かったとおもわれるし。
 小生は、文覚上人が、山岳修業の高野山と、都会の東寺にはさまれ地位的に不安定だった神護寺を救ったと見ている。朝廷からも嫌われ、廃墟化されたようだし。上人なかりせば、廃寺の可能性もあったかも。

 地蔵院は谷崎潤一郎の奥方の実家が寄贈した建造物らしいが、もともとは、かわらけ投げ広場を前庭としたかなり大きな建物だったようだ。
 地蔵ということは、 死者の救済だから、江戸期に、“袈裟御前”の話にもとづいた寄進で建てられたものがあったということか。実態的には、地蔵信仰の塔頭というより休憩場所だったと見た方がしっくりくる。寺域に入れば、現在のような茶屋があるとは思えないから、地蔵院で一服という設定だったのだと思う。なにせ、金堂辺りは広い平地だけで休める場が全く設定されていないのだから。  そして、一休みの座興に、深く落ち込む谷(錦雲峡)に向かって、土器の小皿“かわらけ”を投げたのだと思う。

 なんだかんだいっても、今でも、これが神護寺で一番嬉しい行事ではないか。

 ちなみに、寺域だが、写真にもあるように、川を渡ったところの「参道表示板」からだろう。本来なら、このような看板ではなく、総門があってしかるべきである。  そう思うのは、表示板手前に石碑があるから。なにげなく立っているだけで、字も判別できない代物だが、「下乗」石だとされている。やんごとなき人もここからは聖域だから徒歩でという目印である。それにしては、駐車スペースが無いから、なんとなくおかしいが。
 銘は正安元年(1299年)だとか。

不動堂がどこかにあった筈だが。
 勝手に想像をめぐらしてしまったが、ついでにもう一つ。

 このお寺には不動明王があった筈なのである。それは、今、成田山新勝寺のご本尊。借りたのは、とんでもない昔のこと。

 そんなことを知ったのは、京都観光でではない。浅草にある下町情緒を残すおでん屋さんで呑んでいた時、見ず知らずのお隣に座った方から教えて頂いたのである。
 おでんも良いが、熱燗ならやはり駒方どぜう。冷は藪蕎麦に限ると言ったら、ウケてごちそうになったのである。こちらが若造だったせいもあるが。その時に、成田山に詣でたか訊ねられ、一度も無いと言ったかららしいのである。交通至便ではないからわざわざ行く気にならないというだけのことなのだが。

 どういうことかおわかりだろうか。
 要するに、神田明神のもともとのご祭神は平将門ということ。その討伐の護摩儀式を行ったのが成田山新勝寺だったのだ。そのために、神護寺から不動明王が持ち込まれたというのである。
 言うまでもないが、徳川幕府は神田明神びいきだったが、その後は、将門外しが続いたらしい。日本の信仰とはそんなゴタゴタを繰り返しているものなのである。

 それはともかく、この不動明王のお堂があった筈である。考えられるのは現金堂の辺りである。いつか戻ってくるのかも。
 もっとも、成田山新勝寺は、初詣参拝客数で日本第2位と言われているから、そんなことは考えられないか。

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