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2010年1月19日
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【古都散策方法 京都-その9】
御室で思い巡らす

“嵐電”に乗って気分を高めよう。
 浄瑠璃寺で「鄙」を味わったら、その反対の「雅」といきたいが、それは何なのかと言われると難しい。のんびり御所を散策し、紫式部の世界でも味わいところだが、公開されていないのでそうもいかない。小生は一回入っただけ。
 そうなると、御所に相当するところか。
 御室御所(仁和寺)、嵯峨御所(大覚寺)、粟田御所(青蓮院)ということになろうか。

 名称で魅惑的なのはなんといっても“御室”だろう。お住みになっているというのだから。

 それはよいとして、京都駅から、この“御室”こと仁和寺に行くのに、どのような交通機関を使うかだ。不便なところにある訳ではないが、どうするか思案のしどころ。
   ・京福電鉄 北野線 御室仁和寺駅から徒歩2分
   ・JR 山陰本線(嵯峨野線) 花園駅から徒歩15分
   ・JR京都駅から市バス40分
 京福電鉄にしたいところだが、問題は始発駅が四条大宮。京都駅からの便が余りよくない。ルートは3つ。
   ・JR 山陰本線(嵯峨野線)利用。
     太秦駅で京福電鉄 北野線の始発駅 帷子ノ辻に乗換
   ・地下鉄烏丸線利用。
     御池駅で乗り換え太秦天神川駅下車。
     京福電鉄 北野線 嵐電天神川駅に乗換。
   ・JR京都駅から四条大宮行き市バス利用。
     京福電鉄 嵐山本線始発駅から乗車。
     帷子ノ辻駅で北野線に乗換。
 お勧めルートは、JR京都駅から市バス。

 東京で育った人だと、古都鎌倉散策のような感じか。JR横須賀線の北鎌倉駅か鎌倉駅から入るのもよいが、藤沢から江ノ電でトコトコ行くのもおつなもの。
 小生は鉄道ファンではないから、ローカルな電車に乗っても嬉しさは感じないが、混みあう時期以外なら、のんびり乗っていられるのは有難い。そして、駅名を眺めながら行けるのが上気分にさせてくれる素。
 “嵐電[ランデン]”は京都らしさ芬々。新駅さえも「鹿王院」なのだからたいしたもの。
〜JR山陰本線〜 〜京福電鉄“嵐電”〜 →「嵐電観光マップ」
【嵯峨野線】 【嵐山本線】 【北野線】
京都 四条大宮 大宮大路とは皇后の通り 帷子ノ辻 壇林皇后送葬の途中帷子が飛散
丹波口 西院 淳和天皇の離宮こと西院 常盤 嵯峨天皇の皇子 源常の山荘
二条 西大路三条 町(洛内)の入口 鳴滝 川の滝が鳴り響き洪水を告知
円町 山ノ内 宇多野 宇多天皇ゆかりの地
花園 嵐電天神川 御室仁和寺 宇多天皇御室の寺
太秦 蚕ノ社 妙心寺
嵯峨嵐山 太秦広隆寺 竜安寺
保津峡 帷子ノ辻 ■→北野線へ乗り換え■ 等持院
馬堀 有栖川 お祓の川 北野白梅町 大内裏北側の原野
亀岡 車折神社 亀山法皇の乗った牛車が立ち往生
鹿王院 (公団住宅用の駅)
嵐電嵯峨
嵐山

“御室”らしさを探すことで愉しもう。
“御”の読み方
-分類- -読み- -例-
呉音 御所
漢音 ギョ 御苑

オン
オオン
御室
御地
(大)御
御堂
 と言うことで、下車する“嵐電”の駅は「御室仁和寺[おむろ ニンナジ」。
 上皇の御部屋があるお寺という表記なのだろうが、こちらの散策目的は、「仁和寺」拝観ではなく、「御室」こと、御所巡りである。ここが肝。
 なんと言っても、このオムロという語感が素晴らしい。源氏物語の王朝文学的表現のオオンムロなら、さらなりだが、そこまでは無理か。

 ただ、小生は御室と言われると、どうしてもオムロンという企業名を思い出してしまう。日本経済バブルの真っ盛りの頃、神谷町裏通りの数人しか入れぬ定食屋が数億円で地上げされたのだが、こんなことでは社会が壊れると憤慨されていた経営者の姿が目に浮かぶのである。
 まあ、そんな現代の話は忘れて、できる限り精神を集中し、典雅さを味わいたいもの。

〜宇多天皇の在位〜
 
-年-
光孝
58代
宇多
59代
醍醐
60代
830 出生
867   出生
884 即位  
885   出生
887 崩御 即位  
888 仁和寺創建
897 出家 即位
921 崩御
930 崩御
 ご存知のように、御室というのは、法皇の住居という意味だ。菅原道真を重用したことで知られる宇多天皇が、30才代で、先帝のためのお寺で出家して法皇となり、まだまだ幼い第一皇子に皇位を譲ったことからくる。
 年表でわかるように、30年以上も御室で活躍したのだから、ここは実質的には御所だったのだろう。

 しかし、その当時の建物がお寺に残っている訳ではない。
 にもかかわず、御所の雰囲気が期待できるのは、徳川家光の寄進で再建された際に、旧皇居から移築されたものが残っているからである。
   従って、その建物を鑑賞することで、御所の文化を思い巡らすことができるのではないかということ。これが、今回のテーマである。

 具体的には、御所の以下の建物とされる。
   ・金堂と呼ばれているのが【紫宸殿】
   ・御影堂は【清涼殿】の材料を使用
   ・御影堂表門は【台所門】
 “御殿”は明治期に設計されたものだが、おそらく、上皇のお住まいらしさを出そうと努めているだろうから、ここも雰囲気は十分と言えるだろう。
(栂尾の高山寺の金堂は、仁和寺からの移設とされている。内陣があるらしいので、結界がある密教用の金堂だった可能性もあるが、屋根が銅版葺だから、御所内の建物と見た方がよさそうである。山奥の杉林にたたずむお堂なので、典雅さは全く感じられない。)

紫宸殿の姿を想像してみよう。
 と言うことで、先ずは一番奥の金堂をじっくり眺めてみよう。

 本尊は阿弥陀三尊だったようだ。真言宗だが、仁和帝の菩提を弔うということだから、当然の設定か。
 しかし、阿弥陀仏といっても、ここは密教のお堂。従って、その祭祀に合わせた改築が行われただとうから、もともとの紫宸殿とはかなり違うものになっているのはやむを得まい。すぐにわかるのは、屋根が檜皮葺でなく瓦葺という点。室内にしても、密教は結界が不可欠なので、基本的に仕切りが無い紫宸殿とは異質の空間になってしまう。
 一方、御影堂は屋根の点ではよいのだが、清涼殿という感じは受けない。残念ながら、素人には、どのように改造されたのか、全く想像がつかない。
 結局のところ、なかなか御所の雰囲気を直感的に味わうのは難しいのだが、無理という訳でない。

 屋根と微妙な形の崩れさえ気にしなければ、金堂は美しい建物だからだ。その素は、格子。かくも美しいものかというところ。金色の金具がその引き立て役。

 それより傑作は、御室御所址に建つ再建の宸殿のお庭か。
 南庭は前庭だが、右近の橘、左近の桜に白砂で、いかにも朝廷らしい。一方、北庭は池泉型で築山に樹木が茂り美しい。もちろん茶亭も配置されている。御所の基本様式がどのようなものか考えることができるよき場所と言えよう。

五重塔の御室型景色もじっくり味わおう。
 お庭について簡単に説明してしまったが、その真意を伝えておく必要があるか。
 ここは、広大な敷地に大伽藍という構成。にもかかわらず、それを堪能もせずに、建物の一面を眺めたり、再建された御所のお庭をお勧めするのはいかにも奇異な感じがするだろうから。

 実は、ここが一番重要なところなのだ。
 特に、見るべきは北庭である。そこからは五重塔の上部が背景にのってくる。

 う〜む。
 法隆寺五重塔から始まり、薬師寺東塔、浄瑠璃寺三重塔という流れを前回ご説明したが、この塔はそれらとは全く別物。  屹立する柱への信仰から、天を仰ぎ見ることで仏教感を味わう塔。目立つデザインのお堂に変わったというながれとは違うようだ。ここの五重塔は美意識の塊なのでは。
 塔の真下に行けば、その違いがわかる筈である。この塔は、直方体を立てたような形状であり、恣意的に屹立感を消しているのだ。つまり、側で仰ぎ見る建造物ではない。
 と言って、東寺の五重塔や八坂の塔のように、寺院の象徴として遠くから目立つことを意図しているのではなさそうだ。東寺は、おそらく、塔がよく見えるように樹木を取り払ってきた筈。御室の五重塔はそれとは全く逆。樹木のなかに埋もれるのである。
 もちろん、樹木に埋もれるといっても、室生寺の山中の塔の感覚は皆無。

 そこで、ふと気付かせられるのが、横浜の三溪園の景色。樹木に囲まれた旧燈明寺三重塔が広い園内のどこからでも見える。そのために作った庭園かと感じさせるほど。その姿の美しさを堪能せよとの設計者の声が聞こえてきそう。
 考えてみれば、その元は御室の北庭だったのである。

 これこそ、御室が名所化した由縁でもあろう。
 そう、ここは大伽藍だが、建造物に人気があったのではなく、一番は桜。それも余り伸びない種類。その花の絨毯から五重塔の上層部が飛び出るのである。
 花が散れば、周囲は松林で、背後には緑の山。五重塔は景色のなかで不可欠なアクセントなのである。

 五重塔とはお寺の建造物で、御所には不要。しかし、御室の塔は典雅な美を追求するためのものになっているということ。
 宇多天皇の頃はどうだったかわからぬが、その精神を受け継いでいるのは間違いないと思う。

仁和寺も面白い。
 お寺としての話をしていないので、最後にそこら辺りを加えておこう。

 仁和寺というと、どうしても、「これも仁和寺の法師」が頭に浮かんできてしまう。いたしかたなし。
 兼好法師は双ヶ丘の西麓の庵に住んでいたそうだが、実際訪れれば、まごうかたなき真南の岡であることが実感できる。これほど近いのだから、どう考えても、仁和寺と無縁な筈はない。ほとんどの友人がここに係わっていたに違いない。
 それが、どんな人達か、しっかり書いてくれている。
 高くやん事なき人、若き人、病なく身強き人、酒を好のむ人、たけく勇める兵、虚言する人、欲深き人。
 当時、これに該当する友人達は兼好法師と宴会でも開いて、皆で大笑いしていたのではないか。そんなこともあろうかと読めるのが徒然草の面白さ。仁和寺文化はその土台。
   → 「徒然草の魅力[1]」 (2007.9.19)

 この辺りには、宇多法皇の影響で、風雅に生きる人も多かったということでもある。兼好のようなエスプリが住んでいたのである。

 と言うことで、もう一つお寺を訪ねてみたらどうか。
 車が通る道だが、それほどの距離ではないから、少し歩こう。
 と言えば、ご想像がつくかもしれないが、観光名所の竜安寺である。ここで石庭を眺めて、散策は終了。

 さて、この方丈の南庭だがどう感じるかな。
 言うまでもないが、宸殿の南庭と比較しての話。

 これは、エスプリの庭であることがわかるのではないか。祭祀を室内で執り行うようになれば、宸殿のような前庭は不要。どうするか、文化人に頼んてみたということ。その結果が、白砂と岩で覆う庭が登場したと見るのが自然である。
 その本質は知的遊びにすぎないが、本気で対応もできる。それがこのお庭の特徴。たいした意味などあろう筈がない。兼好法師の悪しき人の一覧みたいなもので、冗談半分で、真面目に議論するから楽しいのである。
 そんな観点では、築地塀もお寺らしく瓦にした方がよい。
 と言うことで、枯山水を本格的に味わいたいなら、このお庭はよした方がよい。とことん磨きぬいた、茶道中心の寺院がベストだと思う。尚、そんな場所に、この後、ふらっと立ち寄ったのでは、御室巡りの楽しみ半減である。
 余計な場所に寄らずに、余韻を残したまま帰ろうではないか。

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