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【古都散策方法 京都-その17】 葬式仏教の原点に触れる。
〜 精霊迎え・送り行事の意味を考えさせられる。 〜
小生は、五山送り火が、日本の仏教信仰の土台を形作ったのではないかという気がしている。死者をどう送るか、そしてその霊をどう祀るかという点で、精霊迎え・送り行事が果たした役割は大きい感じがするからだ。
それは、毎年のお盆の行事で、人々は無常感を覚えたに違いないと思うから。その感覚が一番よくわかるのが徒然草。・・・
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。
一日に一人二人のみならむや。
鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る數おほかる日はあれど、送らぬ日はなし。 されば柩を鬻ぐもの、作りてうち置くほどなし。
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。
今日まで遁れ來にけるは、ありがたき不思議なり。
[徒然草百三十七段]
その感覚があるからこその、精霊迎えと送り行事といえる。五山送り火の鍵は、なんといっても、奥嵯峨の化野だろう。そこには、京都の人々の先祖の誰かが葬られていたに違いないからだ。
ともあれ、この送り火は、個々の家庭の集大成というものではなく、都全体のものということ。京都の悲しさの象徴かも。
ただ、京が小さかった頃は、目に付くお墓は、化野ではなく、鳥部野(鳥辺野)や舟岡(蓮台野)だったようだが。
〜 鳥辺野は観光地には不適だろう。 〜
折角だから、京のお墓について、少し見ておこう。
小生は人の気配もしない鳥辺野に踏み入れたことがある。東京都民用の八柱や多摩の開けた墓地とは思ってはいなかったが、青山や入谷のような雰囲気なのかと勘違いしたのである。清水寺一帯は観光地しており、楽しくお参りにくる老若男女が溢れているからといって、その裏の鳥辺野辺りは散歩の地ではないことを悟ったのである。
しかし、この地をよく眺めると、鳥辺野にまつわる信仰がしっかりと根付いていることがわかる。
そう、“六道の辻”である。
昔、お棺が、鳥辺野へ向かって、松原通から清水道へと運ばれていったのだろうが、その途中の辻である。野辺の送りの行列がここで解散したということなのだろうか。
正確に何所を指すのかは、素人にはよくわからないが、六道珍皇寺の門前から西福寺の門前迄とされているようだ。
お気付きになるかも知れぬが、清水寺辺りの散策の話(第5回)では、恣意的に割愛したお寺である。地図には大谷本廟だけは載せておいたが。
お勧めすべきお参り先なのかはわからなかったからだ。
もし、京都のこうした信仰に興味があるなら、少し考えて見るのは悪いことではない。特に、六道珍皇寺の精霊迎えの行事「六道詣り」は日本人の精霊感がよくわかる行事である。
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「六道詣り(六道さん)」 (C) 小宮山繁
小生には全く知らない習慣だらけ。閻魔大王の話は聞くが、盂蘭盆に直接関係しているとは知らなかった。考えてみれば、そういうことになるのかも知れないといったところ。
経木塔婆(水塔婆)を用いた水回向など、その存在自体全く知らなかったし、迎え鐘も初耳。
ここまでは、それぞれの地方の特徴もあるからそんなものかという感じなのだが、“高野槙”に降霊するといういうのは、随分と異なる習慣だという感じを受けた。昔、仕事で材木商に材木のことを教えてもらったことがあるが、うろ覚えだが、“高野槙”とは風呂桶用材の筈。どうして記憶に残っているかといえば、平城京以前の一時期だけは棺桶用材だったと教えてくれたから。ともかく水に強いのだそうである。
その後、これが高野山の霊木であることを知ったのは、親王さまのお印報道を読んで。
〜小野氏系譜〜
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妹子
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=
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【小野 篁】
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□ □
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小町 道風
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このお寺、臨済宗とされているが、実態は真言密教ということ。小野篁[802〜853年]が関係していた時代なのだから当然だろう。
この「六道詣り」だが、同じように墓地だった、西陣の北にある船岡山西側の“蓮台野”へ遺体を運ぶ途中のお寺にも行事として残っている。
こちらは分り易い。お寺の名前が俗称千本ゑんま堂と閻魔大王が直裁的に使われている。正式名称も“引導を渡す”という意味の“引接寺”である。
そもそも、昔は船岡山を北側に内裏があって、朱雀大路があった訳で、その道が“千本”と呼ばれるのは卒塔婆卒塔婆の本数だというのだから、鳥辺野よりこちらの方が本格的かも。こちらは山ではなく、紙屋川の谷の一帯だったようである。皇族は早くから火葬だったらしいが、一般の人は風葬ということ。
ただ、そんなことを言ったところで、西陣辺りから、千本通りを北に歩いたところで、お墓があったことを感じさせるものは何もない。今は昔である。
おっと、全く無しと言うと言いすぎか。上品蓮台寺があり、ここには広い墓地がある。それが“蓮台野”の歴史を示すものか否かはわからぬが。
〜 九相図が与えた影響が現代の葬式仏教に繋がっていそうだ。 〜
まあ、閻魔様のお寺の話はそこそこにして、“六道の辻”の話にに戻ろう。六道珍皇寺と一緒に登場する西福寺にも触れておかねばなるまい。
こちらは「六道詣り」ではなく、所有している掛け軸で有名なのである。ただ絵の芸術性や注目すべき作者ということではなく、なかなか目にする機会がない題材であるので、知る人ぞ知る有名な絵というだけのこと。別に、このお寺にしか無いというものではなく、所有していても拝観に供しないことが多いのである。
ちなみに拝観可能な掛け軸の名称は「檀林皇后九相図」、「六道十界図」、「十王図会」らしい。見たことが無いのでどのようなものかわからないが、死体変化絵や地獄絵の類である。檀林皇后でなく、小野小町版があるのは、後代になると美人といえば小町であり、小野篁の関係でこちらの方が訴求力があったからだろう。
この手の死体が画題の絵画を鑑賞するのは苦手の人が大半だろうから、拝見はお勧めしない。
と言っても気になるだろうから、ウエブの絵巻物をご覧になっておくとよいだろう。掛け軸も似たような構図だと思われる。
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「嵯峨天皇之后 檀林皇后廿七歳命終九想之圖 卷子 一軸」 (C) 東北大学図書館 狩野文庫
この絵を見ても、日本型仏教の普及に、嵯峨天皇皇后(檀林皇后 橘嘉智子)[786〜850年]が大きく貢献したのは間違いない。
美貌皇后だったが、遺言通りに辻に放置され、その亡骸は腐り、野良犬に喰い千切られ、最終的には骸骨となって、風化して土に戻っていくという事実をあからさまに伝えたからである。仏教徒の死生観とは、これなりということ。
穢れを嫌い、目をそむける習慣のなかで、視覚で訴えたのだから、さぞや強烈な衝撃だったろう。
そこで、皆、死者を手厚く葬ろうと考え始め、風葬を嫌うようになったのだろう。“六道の辻”とは、お経をあげ、戒名をつけてもらう場所という意味だと思われる。
そんな話をすると、嵐電の駅名(第9回)を思い出す人もいるかも。
そうなのである。嵐山本線から北野線の乗り換え駅名「帷子ノ辻」とは、“壇林皇后送葬の途中帷子が飛散”という故事から来ているのだ。
嵐電は、西大路三条まで行くと、三条通を西に進む。帷子ノ辻で分岐し、北野線は北東の常盤、宇多野に繋がる訳だ。
その手前は太秦。帷子ノ辻で下車して北へ行けば広沢の池。そのまま乗車して西に進むと下嵯峨野。終点から北西に進めば、上嵯峨野で
さらに行けが奥嵯峨野。そこは化野。
再度、徒然草を引用しておこうか。・・・
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、
いかに物の哀れもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つく\〃/と一年を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。
飽かず惜しとおもはば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。
いかに物の哀れもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。
とも、一夜の夢の心地こそせめ。
[徒然草七段]
“あだし野”とは、遺体を放置した風葬の地。それが次第にいたたまれなくなり、土葬になったのである。真言密教や空也上人が力を注いだと言われている。
そして、墓石が置かれるようになるのだが、戦乱の都である。結局は無縁仏の道を辿るしかない。そんな歴史を感じさせるのが、百人一首の小倉山の北東麓に位置する化野念仏寺。(>>>)ここには8,000体と言われる無縁仏があり、千灯供養がおこなわれている。
もちろん、一大観光地である。
小生は、無縁仏群へのお参りは遠慮させて頂いているが、それは悲惨さの実体験を欠くからかも。阪神・淡路大震災にしても、それはテレビのニュース画面内の話でしかない。それ以前となると、ほとんどお話の域に近い。
考えて見れば、実際の凄さは九相図など大きく越えているである。その悲惨さの実体験が、1000年以上に渡って語り継がれているのが京都とも言える。日本人の心の古里などと軽々しく言える場所ではないのだが。
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