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2010年2月24日
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【古都散策方法 京都-その22】
知恩院の複雑な境遇を学ぶ。

宗教革命家、法然のお寺の再興版を参拝してみよう。
 二条城二の丸、京都御所、とくれば知恩院を無視する訳にはいくまい。  なにを目指しているかおわかりだろうか。
 歴史書を読んで、そこに登場する話の遺物を眺めて確認する散策ではなく、ご自分の目で眺めながら、どんな意図でこのようなものが作られたのか考えてみようということ。
 言うまでもないが、江戸の権力者が京都をどう扱ったかということ。二の丸と御所ではわからない、もう一つの動きが知恩院から見えるということ。

 一般に、知恩院といえば、南禅寺や東福寺を凌駕する巨大で禅宗風の三門と、大晦日にテレビ放送で流される巨大な梵鐘の除夜の鐘の音で有名である。
 法然が比叡山黒谷の青龍寺[ご本尊:阿弥陀如来]から下りて庵を結んだところが浄土宗の総本山になった訳である。その精神は歌で表現されていると割れている。
   月影の いたらぬ里は なけれども
     ながむる人の こころにぞすむ
        [光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 「観無量寿経」]

 小生の浄土宗に関する知識は義務教育の歴史の授業程度しかないが、法然が革命的な宗教家だったのは間違いない。
 なにせ、身分制度を超越し、“智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし”との思想で布教を行ったのだから。当然ながら、朝廷と比叡山から徹底的に弾圧されたようだ。なかでも比叡山の僧兵の宗祖法然に対する憎しみはただならないものがあった。なにせ、墳墓を破却されそうになったのだから。
 そこまで弾圧されても、復興できたのは、浄土宗信徒の家康が政治の実権を握ったからである。
 徳川幕府による再興がどんな意図だったか、二条城、京都御所、と見て来たことを踏まえで考えてみようという訳。

家康に、軍事的抑止力としてのお寺にされたのかも。
 二条城は、いかにも京都に睨みをきかす城砦だが、こちらは数々あるお寺の一つでしかない。
 しかし、このお寺に古くから伝わる七不思議を眺めると、徳川幕府が考えていそうなことが伝わってくる。
   →  「知恩院の七不思議」 (C) 知恩院

 【鴬張りの廊下】
 二条城二の丸御殿と同じ。城なら夜間警報は不可欠だが、宗教施設にそんなものが必要かね。警報ではなく、単なる釘隠しという理屈はつくが。
 一応、僧侶の知恵で「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」の音とされてはいるが。
 【白木の棺】 (非公開)
 “三門楼上に二つの白木の棺が安置され、中には将軍家より三門造営の命をうけた大工の棟梁、五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められ”ている。“工事の予算が超過し、夫妻はその責任をとって自刃した”とされているが、ピラミッド建造と同じで建物構造や抜け道に係わる秘密を知っている大工の棟梁が自らの立場を理解したということでは。
 いかにも京都らしい。
 【大杓子】 (非公開)
 “長さ2.5メートル、重さ約30キログラム”の大きな杓子があるのも、なにかあれば大規模炊き出しができるような備えができていたということ。
 数千人が篭城する可能性を考えれば、驚く大きさではない。
 【瓜生石】
 路上にそのまま残された石。“石を掘ると、二条城までつづく抜け道があるとか”言われている。要するに、寺だが二条城と一体のもの見られていたのである。
 話が脱線するが、東京から来て不思議に感じるのは、石の信仰ではない。無神経に広いアスファルト道路を作っておく一方で、その交差点の真ん中に、いかにも通行の邪魔になりそうなものを、適当な柵をつけただけで、残しておくこと。この扱いは、一体、なんなのかね。

 これだけではない。二つの建造物を眺めるとわかってくる筈。
 【黒門】
 瓜生石の前方にあるのが、伽藍の北側の門である「黒門」。秀吉の嫌いな黒色だが、伝伏見城移設。周囲は石垣。誰が見ても、これは城砦建築そのもの。
 【山亭庭園】
 そして、知恩院の地が重要だったことがわかるのが山腹に建てられた「山亭庭園」。なにも、こんな場所に庭園を作る必要もあるまい。見ればわかるが、京都市街一望の要所。見張り場所としては最適だ。
 あまりにあからさまなので、庭園にしたのではないか。建物は皇女御殿. [1759年]

 ただ、城砦と言っても、鴨川を渡れば防衛線は無いから、それほど大きな力になるとは思えない。  不穏な空気が流れたら、ここを急遽軍事基地化できることに意味があるのだと思う。西の二条城に対抗して、東の鴨川に布陣でもされたのではたまらぬということであろうか。南都や北嶺の僧兵や、一向宗の動きに対応するには絶好の拠点ということだと思われる。

障壁画が見れないのが残念至極。
 無粋な話が続いてしまったが、それも仕方がない。
 このお寺の本来の本堂は、どう見ても、山腹にある勢至堂だから。ここに宗祖像と勢至菩薩(幼名が「勢至丸」)が安置されてしかるべきだろう。
 なにせ、そこは法然が住んでいた場所なのだから。それに、後奈良天皇の宸筆「知恩教院」はこのお堂のものである。
 ただ、多数の信徒が集まる場所が作れないということはあるが。
 素人的には、宗祖御影堂と阿弥陀如来堂を中心してしまうと、脇待としての勢至菩薩と観音菩薩を別なお堂に安置するのは、どうも違和感と持つというだけのこと。

〜狩野派の代表的絵師〜
【足利】 正信
元信
【織豊】 永徳
 
 
山楽
【徳川】
 
探幽/尚信/安信
信政
山雪
【明治】 芳崖、河鍋暁斉
 おそらく、家康が重視したのは、二条城二の丸と同じようなものを作ること。公家や僧侶の文化的優位性を示すようなものを排除したに違いないのである。探幽型の部屋という枠組み内に収まり、縁起がよい装飾画にせよという訳だ。永徳流の枠からはみ出る磊落さ、源氏物語的な歌の遊び、それと逆の利休風草庵の寂寞さは厳禁なのである。
 大名文化を広げたい小堀遠州と、なんとしても権力者をパトロンに繋ぎ止めたい狩野派が組んで、二の丸同様の徳川幕府の文化的なご威光作りを進めたということだろう。要するに、広大な敷地に重要施設として方丈を作ったということ。
 ただ、残念なことに、写真でしかわからない。

 「知恩院の七不思議」には、大方丈廊下の杉戸の絵【三方正面真向の猫】と、菊の間の絵 【抜け雀】が入っている。{非公開}
 前者は“どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいる”、子猫を愛む親猫の姿。後者は“あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれて”いるそうだ。小さな写真でしか見たことがないのでなんともいえないが、探幽の枠組み厳守のなかで、見つからないように、微妙な洒脱感を出そうと工夫しているように見えないこともない。
 大/小方丈のほとんどは、狩野尚信の作品なのに、この2つだけは狩野信政の作品とされる。探幽の弟の作品は賞賛したくないと見える。複雑な心境の結果だろうか。

 美術館などで、尚信の作品を見かけた人もいようが、探幽と違い、気楽に描く絵師ではないか。天賦の才能がありそう。
 絵は感覚的に美しければ、それで結構というタイプだと思う。
 勉強もせずに書いているから話半分で聞いていただきたいが、探幽とは平均律を極めたようなバッハのような存在ではないか。徹底的に構想を練り、絵のあるべき姿を手本で示して、集団を統率したのだと思う。当然ながら、さらっと流すことはできない。それに対して、尚信は逆。手本が提示されれば、それを上手に真似る。しかし、あくまでも自分の感性のままに描くから、見かけ上は手本と同じモチーフだが、印象は全く違うものになる。言ってみれば、モーツアルトのような感じ。お客様のご注文に対応してはいるが、自分なりの面白さで描いてしまうのである。
 二条城の黒書院の、探幽とは全く違う松を見れば、そのセンスは想像がつくと思うが。
【二条城 黒書院の尚信の作品: 四の間「菊図」,「秋草扇面散図」,三の間「松図」(襖),「花籠図」(杉戸)】

 従って、末弟の安信が宗家を継いだのはわかる気がする。おそらく、才能というより努力の人。教育家として向くわけで、装飾画ビジネスを組織的に強化する上では最適な人材だったのだと思われる。クローン絵師を沢山育てて全国制覇を狙うのだから、バッハやモーツアルトのようなタイプが家を引き継いではこまるのである。
 画像は小さいが、以下の絵を見れば、尚信のセンスがわかる。
   →  収蔵作品リスト ([画像] 「富士見西行(・大原御幸)図屏風 」を選択) (C) 板橋区立美術館
       西行法師のビックリ仰天姿を描くことができる絵師だったのである。
        顧客の複雑な心境に配慮しないで済む江戸でこそ描けた絵と言えるのだが。
   →  収蔵品 狩野尚信 (「破墨山水図」を選択)  (C) 東京藝術大学大学美術館
       独自の描き方で、破墨を試してみたかったのでは。
       
 知恩院方丈の尚信の襖絵も拝見したいものである。
  大方丈: 上段の間[山水人物画], 中/下段の間[仙人図],鶴の間,松の間,梅の間.仏の間[蓮華]
  小方丈: 上段の間,雪中山水の間
    (現代の研究者の推定だと思われるが。)


折角だから新門から歩いていこう。
 知恩院へ行くのなら、鴨川から歩いていくとよいだろう。ただ、健脚であることが前提。
 阪急電鉄ターミナル(高島屋)から四条通を東に進み鴨川を渡り、北に進み、白川南通から、新橋通を経て、知恩院道から三門という道筋をお勧めしたい。
 帰路はくたびれ加減で好き好きだが、できれば黒門から通りに出よう。その交差点に「瓜生石」があるからだ。特に、拝見用に配慮されている訳ではないから、交通事故などおこさぬよう。

 ついでながら、ご存知のように、白川南通は川向に情緒ある建物が並ぶし、辰巳大明神は祇園で有名な神社である。巽端から南の小道や、北の小道も風情を感じるところ。花見小路など、花街らしい名称である。  [ここら辺りは祇園新橋伝統的建造物保存地区である。]
 本来なら、こういう地域は、治外法権的“危なさ”が漂うものだが、どういう訳か京都はその逆で、“自己規制”と“品位”を感じさせるのが、なんとも不可思議。もっとも、財布の“危なさ”だけは間違いなさそうだが。
 まあ、今回の散歩としてはココはオマケだが、花街は他にもあったのに、ここら辺りが残れた理由も考えると面白いかな。
 小生は、いち早く、明治の元勲御用達になったからと睨んでいるのだが。

 それはともかく、三門までは、それほどの距離ではない。途中に「新門」があるが、ここからがお寺だったことになる。塔頭は華頂道のほうが目立つが、知恩院道も昔はそんな状況だったのだろう。
 尚、普段あまり歩かない人はこの散策はとばした方が無難。ここが大変な訳ではなく、知恩院内の階段でヘバルかも知れないので、体力温存のため。

 きつい階段を上ることになるから、そのつもりで。もちろん、その分だけ下りることになる。
  (1) 通りから三門
  (2) 三門から本堂
  (3) 本堂東の経堂横から勢至堂
  (4) 勢至堂前から法然廟拝殿
  (5) 一番高台にある山亭(勢至堂裏手)
 観光客の大半は上らないが、それではなんのために来たのかわからないので、是非にも全て歩こう。小堀遠州型庭園などどうでもよいではないか。
 そうそう、本堂が見えたら、とりあえずお休み処で一服してから動いた方がよい。それが、浄土宗のお寺でのマナーなのかも知れないし。

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