トップ頁へ>>> YOKOSO! JAPAN

2010年3月1日
「観光業を考える」の目次へ>>>
 


【古都散策方法 京都-その23】
宗達に会う。

探幽の意図を考えて見ると面白い。
〜絵師の時代〜
動き 


 



1397
1413
金閣造営
如拙「瓢鮎図」
1420
1434

 
1449 義政元服
1467 応仁の乱
1490 義政死去
1506
1506

 





 




1539
1543
 

1568 信長入京
1582 本能寺の変
1590
1600 関ヶ原戦
1610
1615 大阪落城
 二条城二の丸、京都御所、知恩院で眺めることで、徳川幕府の考え方を感じ取ろうという話をしてきた。
 要するに、1600年代初頭の二人の“作品”の底流を見抜こうということ。
   ・小堀遠州[1579-1647年]
   ・狩野探幽[1602-1674年]

 その点では、探幽の二条城の障壁画はわかり易い。これはどう見ても時代を画すもの。特徴を集約すれば2点になるだろうか。
 一つ目は、部屋全体をキャンバスに見立てたような作風。襖と壁の一体化とか、欄間の意匠を加味したり、庭との繋がりまで入れた大掛かりな構想が見てとれる。
 おそらく、これが権力者好みということだろう。
 二つ目は、一つ目と表裏一体であるが、公家色を一掃し、宗教勢力の影響を削ごうとしたこと。
 この辺りを感じとるには、その前の絵師を眺めておく必要があろう。
 と言うことで、少し絵画について考えてみたい。

 表で示すが、その前は永徳・等伯の時代であり、ここで狩野派的な障壁画が主流となったのだろうが、さらに遡れば、雪舟・光信の時代。
 禅僧の水墨画の流れと、公家嗜好の大和絵という流れから、狩野派主流に変えた訳である。
   
 先ず、水墨画だが、絵師は僧侶であったという点が重要である。儀式用に水墨画が使われたことを意味している。おそらく、それは密教の時代からの伝習だろう。秘伝の密儀には、曼荼羅図絵だけでなく、中国の景色を描いた山水図も必要だったと思われる。
 禅宗においても、仏殿に飾る絵として不可欠なものとされていたということではないか。それを、装飾風景画化する動きが始まったということではないか。日本の伝統信仰が加味されるから、樹林図風になっていく訳だ。
 こう考えると、水墨画系の花鳥画は、万葉集のモチーフから発生したものではないと言えそうだ。瑞兆としての花や鳥と考えた方がよさそうである。例えれば、春日信仰から紅葉は鹿となるし、松なら丹頂鶴だし、竹は鳳凰、といったような発想。桂林のような環境で仙人のように生活することが尊ばれた宋の時代の思想だと山水画になるが、唐の時代の仏教感だと、花鳥画になる筈で、両者が合体すること山水花鳥図も多かったのではないか。
   
 もう一方の、大和絵だが、その主流は物語絵だろう。
 こちらの源流はおそらく釈迦物語辺りで、宗教説話だと思われる。従って、宗教行事や縁起の絵巻に発展するのは自然な流れ。その一方で、伊勢物語や源氏物語が発刊されたので、その絵巻が大流行ということだろう。これに触発され、宗教画も、阿弥陀来迎図や、儀式絵へと主流が変わる訳だ。

 風景画とは、要するに、この絵巻物の断片。当然ながら、選ばれるモチーフは、歌を詠むシーンになるから、好みの和歌の歌絵巻が増産されたのだと思われる。
 従って、大和絵の基本はあくまでも絵巻。
 初期の障壁画とは、この絵巻の切り張りだろう。30cmで凝視して見る作品をそのまま障壁画にするのだからチグハグ感は否めない。
 そのため、次第に飾り絵として美しく映るように工夫が進んだ筈。だが、いかに風景画に見えても、それは物語か歌のワンシーンである。
 土佐派の真髄はあくまでも絵巻ということ。
 狩野派障壁画とは違い、細かな部分にこだわった繊細な絵にならざるを得まい。
 探幽は、この両者が持つ宗教観や美学とは異なるものをどうしても打ち出したかったのでは。
 それこそが、徳川幕府の時代の幕開けとなりえる道ということを理解していたのだと思われる。
 小堀遠州ともども、相当な切れ者。

さらに面白いのは、探幽と同時代の絵師に俵屋宗達がいること。
 1600年頃といえば、こうした権力者の動きとは別な流れが存在している。こちらを忘れて、探幽の障壁画ばかり見ていると実はちっとも面白くないのである。

 言うまでもないが、それは俵屋宗達。歴史の教科書で頭に叩き込まされるから、風神雷神図を知らぬ人はいまい。こちらも絵師だが、実態がよくわからないのは、町場で活動していたからである。
 そのため、技芸で権力に対抗したとされたりするが、そういう話ではなかろう。探幽と全く逆に方向を定めただけではないか。
 風神雷神にしても、もとのモチーフは縁起絵巻。しかし、絵はそれとは似てもにつかぬもの。だいたい、頭に孫悟空が嵌めるようなバンドをしているし、表情は恐ろしいというものでもない。
 絵巻の物語性や宗教性を消し去り、いかに美しい装飾画に仕上げるかという一点に心を集中しているとしか思えまい。だからこそ、絵に賭ける後世の人々が離れられない作品と化したのだと思う。
〜風神雷神をモチーフにした絵の変遷〜
-作者- -作者の年代- -作品所蔵者-
藤原信實 1177-1265年 北野天満宮
俵屋宗達 1560頃-1640年頃 建仁寺
尾形光琳 1658-1716年 東京国立博物館
酒井抱一 1761-1829年 出光美術館
橋本雅邦 1835−1908年 広島県立美術館
今村紫紅 1880−1916年 東京国立博物館

  ・・・参考サイト・・・
  [信實] 北野天神縁起絵巻[承久本 巻五19〜23紙] “雷神に向かう時平” 1219年
    http://www.kitanotenmangu.or.jp/homotu/01.html
    http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp2/w/143.html
  [宗達] http://www.kenninji.jp/gallery/index.html
  [光琳] http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A11189.1
  [抱一] http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/rimpa.html


 そして、なんといっても画期的なのは、探幽の作品と違い、可動性という点。パトロンが指定するモチーフに合わせる描画サービスを提供する絵師ではなく、パトロンが好みそうなモチーフを探して工芸商品に仕上げる絵師だということ。

 と言うことは、「風神雷神」が有名だから屏風絵画家と考えがちだが、そうではないということ。その本質は「生活の中の工芸品」作家。その真価は、扇子や団扇の絵や、屏風や襖に貼る色紙といった形態で発揮される筈。探幽とは違うのである。
 ただ、その手の作品は消耗品でもあるから、後世に残ることは少ないので、我々が鑑賞できる機会は稀と見てよかろう。

光悦あっての宗達である。
 どうして、一絵師でしかない宗達にそんなことができたかといえば、そこには強力な組織があったからである。以下の町衆の3人が揃い踏みして、初めて大きな力が発揮できたということ。
  ・俵屋宗達[1560頃-1640年頃] (不詳)
  ・本阿弥光悦[1558-1637年] (刀剣業家の婿養子)
  ・角倉素庵[1571-1632年] (父親は豪商の角倉了以[1554〜1614年])

 もちろん中心は本阿弥光悦。分野はご存知のようになんでもござれだが、「寛永の三筆」であるから、書道家と言うべきだろう。ここが重要なところ。小堀遠州のお眼鏡にかなうリーダーだったということ。
 徳川幕府の方針とは、公家、僧侶、商人の政治力を削ぐこと。要するに、こうした層を、芸術に注力させるための動きを支援したということ。
  ・本阿弥光悦[1558-1637年] ・・・商家
  ・近衛信尹[1565-1614年]・・・公家
  ・松花堂昭乗[1582-1639年]・・・僧侶

 光悦は鷹ケ峰地区に土地をもらい、その流れに乗って、一流職人を集め、一大芸術産業を創出したということ。書道、画、茶道、作庭、陶芸、作庭、盆栽、香道 礼法、能面、囲碁/将棋、工芸品、・・・。
 おそらく、京都の伝統工芸産業の下地はここで培われたと思われる。

 宗達は、画才を生かして、こうした多様な領域で活躍したということ。おそらく、力が発揮できるなら、なんでも試してみたに違いない。探幽のような、パトロンの家で現場仕事をする絵描きではなく、工芸産業コンプレックスのピカ一絵師だったということ。

京都国立博物館の宗達の水墨画がお勧め。
 素人の絵画論はこの辺りにして、さあ、それではこれを踏まえて、京都のどこを散策するかである。

 ガイドブックのお勧めなら、おそらく「鷹ケ峰」行きだろう。そこには、今でも、光悦の住んでいた建物が茶室になっているそうだし、光悦の好む生垣が存在しているらしい。
 しかし、有名なのは、染色工芸館、日本庭園、結婚式場、料亭等からなるテーマパーク「しょうざん光悦芸術村」の方だろう。“京都洛北・鷹ケ峰を背景に広大な敷地三万五千坪の日本庭園”とのことだ。これこそが現代の京都の実像である。
[京都産業21のビジネス情報誌によれば、経営は西陣の株式会社しょうざん。リクルート企業の広告を蜜と、設立1948年7月、松山靖史社長、従業員140名 、資本金1200万円、 売上高25億7500万円(2009年3月期)となっている。]
 どちらにしても、光悦や宗達の作品が見れる訳ではない。
 と言って、建仁寺所蔵の風神雷神図も時に展覧会に登場したりするが、大入りなのは間違いなく、人ごみが嫌いだとなかなか難しい。

 小生は、そんなものより、是非にも見たいものがある。相国寺承天閣美術館所蔵の「蔦の細道図屏風」。烏丸光広賛、いかにも伊勢物語の世界を、人一人登場せずに、美しく描いた屏風。金地に、緑青と墨だけ。画集で見たに過ぎないが、素晴らしいの一語につきる。書が絵でもあるという、おどろくべき構成である。
 じっくり見れるなら、これだけでも京都に行く価値がありそう。
  → 2009年開催の「狩野派と近世絵画 〜爛漫と枯淡と〜」“(「蔦の細道図屏風」特別展示の項あり) (C) 相国寺

 といってもなかなかチャンスは無いから、お勧めとしては、京都国立博物館の作品か。
   ・鶴図下絵和歌巻[本阿弥光悦] →(C) 京都国立博物館 収蔵品データベース
   ・蓮池水禽図 →(C) 京都国立博物館 収蔵品データベース

 前者は和歌の長巻物で、下絵が文字通りの千羽鶴。東京の山種美術館には短冊があるが、その大元である。短冊は鶴以外もあるが、それらの鑑賞は頭をひねらされることになる。歌が読んでいる花と絵が一致しなかったりするからだ。従って、ここら辺りのツボがわからないとさっぱり面白くない代物。
 千羽鶴なら、絵も書も、工芸デザインとして見ることができるから、眺めるだけで楽しめるだろう。
[東京国立博物館所蔵品は蓮花で、余り楽しくない。]

 それよりは、後者。
 描かれている水禽とは、鳰鳥(ニオドリ: かいつぶり)。それに浄土イメージを感じさせる蓮を組み合わさったモチーフ。この鳥は、常にカップルで過ごしており、始終潜って餌獲りに余念が無い。絵は、その健気に生きる鳥の性格を的確に捉えており、実に鋭い。
 しかも、画面全体が柔らかく描かれており、その霞かかったモノクロームの世界の美しさは例えようもない。彩色画を超えているのでは。この絵を眺めていると、“日本人好み”とは、宗達が作りあげた嗜好ではないかという気になってくるほど。
 ただならぬ技量なのは素人でも見ただけでわかるが、なんといっても特筆ものは、宗教感や絵物語という範疇を超えた作品に仕上がっている点。これは、キャンバスという与えられた枠内で表現する現代絵画となんらかわらない。
[東京国立博物館所蔵品は一幅の牡丹図で、成熟した画伯の作品のような感じで、面白味がない。]

<<< 前回  次回 >>>


 「観光業を考える」の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2010 RandDManagement.com