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2010年3月3日
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【古都散策方法 京都-その25】
小堀遠州の思想に迫る。

小堀遠州の関係した作品を見てから、金地院を訪れよう。
 二条城二の丸・御苑・知恩院(第20-22回)から、宗達・光琳(第23/24回)まで話をしてきたが、この辺りが京都の文化の骨格を考える上での、準備活動のようなもの。
 これらの底流にある思想が、徳川の治世の京都を形作ったといえそうだが、その根幹はなにかといえば、おわかりだろうか。
 そう、小堀遠州の文化政策である。実は、それを感じるために、色々眺めたということ。

 義務教育の歴史で習った時は、単なる茶人の一人という印象でしかなかったが、よくよく考えると、そのような見方は間違い。
 それを実感するために、お庭拝観がお勧め。蹴上駅からトンネルをくぐってすぐの南禅寺塔頭 金地院である。南禅寺から哲学の道への散歩コース(第2回)では、拝観しないという設定だったが、今回は、散策せず集中しよう。

 言うまでもないが、金地院の枯山水庭園「鶴亀庭園」が小堀遠州作とされている。裏付ける資料もあるそうだ。
 しかも、小堀遠州作の茶室もある。
 そして、なによりも重要なのは家康を祀った「東照宮」併設のお寺という点。おそらく、こちらの基本設計も担当したに違いあるまい。

 ここら辺りで、しつこく注意を喚起しておこう。これは日光東照宮の原型だが、タウトがキッチュと見なした陽明門の基本設計もおそらく小堀遠州だ。
 一方、これとは全く違うものとして褒め称えられたのが桂離宮。こちらは数奇屋風書院なのだろうが、どう見でも、小堀遠州の感覚が持ち込まれた設計である。
 同じ人の設計指針で作られた建築物を対比して、片方を批判して意味があるかね。
 建物も庭も目的あってのもの。そこを理解しないと、鑑賞どころではなかろう。

八窓茶室の実像を知ると、遠州の考え方がよくわかる。
 さて、それでは金地院でどう眺めるかだが、見ることはできないが、茶室がどんなものか知っておくとよい。
 襖絵は「猿猴捉月図」で長谷川等伯筆だが、そんなことより全体構造が重要。三畳台目で窓が8つなのである。つまり明るいということ。
   →  「第224回展示 茶室おかし絵図集」 (C) 慶應義塾大学三田メディアセンター展示委員会

 これだけでも、利休とは考え方が違うことがわかる。光が差し込む部屋で、侘び茶でもなかろう。

 そう、系譜から言えば、珠光→利休→織部→遠州というのが茶道の流れで、遠州は大名茶の系譜ということになる。しかし、遠州は公言こそしなかったが、大名茶を越えた考え方をしていたと考えるのが自然である。
 利休や織部は、いわば時代の流れに立ち向かう思想家である。切腹の憂き目にあうのも、予想していた可能性もなきにしもあらず。利休など、秀吉の金の茶室に反対しなかったくせに、徹底的に草庵にこだわった。自我を貫くことを最重要と考えていたのは歴然。
 織部にしても、その好みはアバンギャルド的。自己の美意識を打ち出すことにかけていた人生に映る。
 これに対して、遠州は常識人的な姿勢を貫いたようである。従って、おちついた大名茶の流派を形成した人と見ても間違いはない。しかし、その影響力を考えればわかるが、考えに考え抜いて、遠州美学を演出しているように思える。

 簡単に言えば、利休や織部は自分の思想の完璧さ、純粋さに酔った芸術家だったが、遠州は政治文化の指導者だったということ。遠州美学を見せつけはするが、それは自我というよりは、誰のための美学なのかを始終考えて行動しているということ。

 利休の侘びに拘れば、茶室や露地は、できる限り装飾を削ぎ落とし、自然のままを尊ぶことになるし、茶碗も色を無くした黒楽を好む。
 しかし、そのような美学は町衆には向くかも知れぬが、将軍に合うとは思えまい。遠州の肝はココである。

 遠州に自由に茶室を作らせたら、部屋が3つになるということでもある。1つ目は暗い草庵風。緊張感のもとで侘びを味わうのである。その隣は室内は明るく、庭の景色が眺められ、水墨画に囲まれた書院風。心の垢を落とし、落ち着いた気分で精神性を高める訳だ。さらに短い廊下で繋がる、より開放的な宴会向きの広間。ここは、和歌のシーンの衝立でもよいのである。要するに、町衆、武家、公家の文化を両立させようと図ったということ。雑炊的だが、それはサロン作りこそ文化の源と確信していたということ。
 これは、すべての文化について、深い理解がないとできることではない。

鶴亀庭園こそ、遠州の真髄。
 要するに、遠州が利休と大きく違うのは、誰が何のために使うかとを考えたということ。当然ながら、そこには政治的な思惑が入る。建物や庭をどのように使い、そこでは何が期待されているかで設計が変わるということ。かなりビジネスマン的な思考をしていたということでもあろう。

 それがわかるのが、鶴亀庭園である。一見、伝統を遠州美学で発展させたものと勘違いするが、よく見るとそうでないことがわかってくる。

 境内図を見て欲しい。(正確性は保証できないので、ご注意。)
 伏見桃山城移設されたという、入母屋こけら葺の方丈には将軍家光が座ることになる。当然ながら、襖絵は狩野探幽/尚信の筆だ。

 さあ、それで将軍が南の庭を眺めることになる。いわゆる額縁景色。
 遠景は、樹木に覆われている。だが、その裏側には、家康が祀られている東照宮がある。そうなれば、左右に鶴島・亀島、中央に遥拝石。さらに、仏教的な三尊石組を揃えるのは極く自然な設定。借景は意味が無いから、逆に、庭木の手入れが重要になる。探幽の襖絵にマッチするように、庭木や石に手を加え、すべてトリミングしたに違いない。
 庭だけ独立して「美」を求めた設計をした訳ではないし、自然をそのまま生かそうとしている訳でもないのである。
 利休の露地の感覚や、寝殿造りの庭園の雰囲気を感じさせないように図ったと言うと、言い過ぎだろうか。

東照宮の自己主張は遠州の企画ではないのか。
 庭もそうだが、東照宮の存在もユニークである。家康は、浄土宗信者であり、禅宗のお寺で祀る必要はない訳で、別途、新しく東照宮を創建してもよかった筈だ。  ただ、普通は、このお寺の僧侶崇伝が家康の智恵袋で活躍したからということだから当然とされている。確かに、方広寺の鐘銘問題の火付け役だったし、所蔵資料殻見て、対外交渉役を一手に引き受けていたから、功績は大。しかし、それと、祀る問題は別ではないか。

 小生は、3つ目的があったと思う。
 1つ目は、なんとしても、南禅寺内に幕府らしさを組み込みたかったこと。なにせ、南禅寺は京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院。ここに、徳川らしさが一目でわかるものを設置し、なんとしても、このお寺に楔を打ちこむ必要があった筈。
 2つ目は、京都では、武家を祀るような事例が滅多に無く、秀吉の施設を削る動きをかけていたから、独自の施設を作ることを躊躇したのでは。勝手知ったる金地院なら、問題は発生しないから好都合ということだろう。
 3つ目は、京都に設置することで、同様の施設を地方にもと考えていたのだと思う。プロトタイプを先ず作ってみたということ。

 この辺りのシナリオ作成に小堀遠州が深くかかわっていたに違いないと見ているのだが。
 と言うのは、ともかく、今までの宗教施設とは違うことがわかるものでないと、徳川の威光を示すことにならないから、そのような設計指針が必要だった筈で、そんなことが可能なのは遠州以外にはあり得ないからだ。

 金地院の東照宮は傷んでいるからよくわからないが、ともかく見た瞬間、他の寺社仏閣と違うことがわかる。そして、建物の北面を見ればわかるが、これは極彩色。ただ、色は派手だが、南禅寺の巨大な門のように、規模で驚かすようなものではない。ここが味噌。
 後は、儒教的な寓話の象徴に繋がりそうな、飾り物を付ければよいのである。そのセンスは、方丈の襖絵でもわかる。仏教の説話や、縁起物語は駄目なのである。
 はっきり言えば、ゴチャゴチャ大いに結構なのである。戦国の乱世のなかから生まれてきた大将軍を祀る施設なのだから。

遠州にはグローバルな視点があった。
 ごたごたと書いてきたが、早い話、とんでもない能才ということ。

 特筆すべきは、グローバルな発想をしているという点。庭ひとつとっても、トリミング手法など、どう考えても、庭木を定規で揃える西洋型に近い。当時の西洋庭園のコンセプトを理解していたに違いないのである。
 優れているなら、海外品も使おうという発想も濃厚。それまでの茶人とは相当違う。 そんなところが、幕府の外交官でもあった、金地院の崇伝と馬があった理由だろう。
 目的にあわせて、慣習として続けておくべき点を的確に見抜き、それ以外は、世界を意識した新しい流れを打ち出したということ。
 もちろん、古今集や方丈記の世界を知り尽くしていたからできたこと。海外と対比しながら、伝統の美意識を探ることで、真髄に思い至ったのだと思われる。
 伴大納言絵巻(出光美術館所蔵)を見ると、天皇と太政大臣の私的な対面のようなシーンはあるし、一人一人勝手気ままに歩く検非違使の一団がいたり、野次馬的に集まった町衆の姿も。町衆、公家、武家が個々人として表現力豊かに描かれているのである。細々しているから気付かないが、当時の西洋絵画の表現より、ずっと深いものがある。遠州もそれに気付いたに違いない。しかも、日本の場合、それが歌の世界と結びつく。イマジネーションとしての美しさが加わるのだ。なんとも美しきかなである。色々あるが、こうして時は流れていくという感興に襲われることになる。

 ただ、同時に、町衆、公家、武家の感覚の違いも歴然。従って、安定した社会をつくるためには、その違いを浮き立たせることも重要と考えたと思われる。しかし、全てを貫く日本の「美」のセンスも見抜いていたのである。
 大徳寺の塔頭の入り口を眺めた方は、(第13回)その「美」には、とっくにお気付きかも。世界に通用する普遍性をもった美学が完成しているのだ。
 舗石ひとつにしても、全体を考えながら、細部にまでの心遣い。一見、無駄な装飾を省いているように見えるが、至るところに心を込めたもてなしが潜んでいる。全体構図が描けているから。自然をそのまま生かしているように見えるが、実は徹底的に人為的なのである。

 桂離宮の概観写真を眺めると、思わずモンドリアンのコンポジションを想いおこさせるが、遠州は早くからそんな美意識を身につけていたと思われる。公家、町衆、武家の違いを強調しながら、すべてを貫く日本の伝統美を打ち出すことできたのは、この類稀な才能によるのだと想われる。

 金地院で遊ぶと、遠州美学は、今の日本人の基底となっている感じがしてくるから不思議である。

 末筆ながら、お勧めの理由をもう一つあげておこう。金地院の総門前通りは南禅寺に行く人の波。ところが、滅多に入場する人は無い。これが有難い。と言ってよいかはわからぬ。メインテナンス投資をしながら、庭師を擁した保全作業を考えると、収支バランスがとれるか心配だからだ。

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