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2010年3月11日
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【古都散策方法 京都-その28】
京都の桜に活力を貰う。

京都の桜は東京とは違う。
 蹴上駅のインクラインには桜並木があり、坂を登った上にある日向大神宮も桜で有名であるが、京都は至るところに桜を眺める場所があることには触れた。(第2回)

 もちろん、東京にも有名なお花見所はある。江戸の頃からという点では、隅田(浅草)、上野、飛鳥山といったところや、上水の並木か。小生の場合は、歩いていける青山墓地と、比較的便がよい千鳥ヶ淵。以前はホテルでお茶もできたので後者は楽しかったが、その愉しみも失われ行かなくなってしまった。上水は葉桜の方が好きである。
 あとは少しタイプが違うが新宿御苑も訪れる。立派なカメラを抱えた人だらけだが、広々としているから気持ちがよい。郊外に住んでいる人なら、井の頭や小金井か。
 新宿御苑は植物園的なところもあるから例外だが、東京の特徴は“染井吉野[ソメイヨシノ]”の整列植え。満開になると派手である。人の声や遠くからの車の音も聞こえたりして、静粛とは無縁。花も人も“群れ”、その愉しみを満喫するのだから、都市型祭と言えそぅだ。ただ、この時期は寒い風が吹いたりして、春を楽しむ気分になれないことも少なくない。

 桜花を愛でるのが好きだと、もう少し静かなところに行きたいという人も。そうなると、寒いうちから咲く“熱海桜”(糸川沿)や、春の兆候が出たとたんに咲き誇る“河津桜”や、その後の伊豆辺りに多い“大島桜”を眺めに行く人も少なくない。いずれも、ソメイヨシノとは違う。

 京都の桜はソメイヨシノ以外が多いだけで同じようなものと思いがちだが、これがそうではないのである。だいたいにして、京都の県花県木は「枝垂れ桜」。栽培種だろうが、上記のような花木とは全く違う。それに、五弁の一重へのこだわりは少ないようで、「八重桜」も結構見かける。
 なかには、地主神社のように珍種の桜を集めようと努力するところも。東京の寺神社の境内には、たいてい桜が植わっているが、植え方や、由緒の説明には力を入れるが、種類はほとんど気にしていないのが普通。感覚が相当違うことがわかる。
 二条城にはソメイヨシノが随分進出しているが、京都全体の好みはそれとは違うと見てよさそうである。
 ただ。東京型の鑑賞の仕方の原点は京都にあることは踏まえておいた方がよい。それは仁和寺(第9回)の“御室桜”。遅咲きで知られるが、樹高が低く、境内を一面覆ってしまうので、五重塔が山に映える。どう見ても、現代の花見感覚。
 こんな話をすると、差がわからなくなるかも知れないが、どうも根底に流れる思想が違うような気がするのである。

 先ず、京都で特筆すべきは、宴会・ピクニック禁止で、三脚も使えない、植栽業者の私営施設があること。庭園だと専門庭師が必要だし、毎日の掃除を考えると、年間経費はすぐに1億円を越す。梅や桜のお花見時期しか開園せずに、このレベルを維持するのは大変なこと。桜にはとてつもなくこだわる人が多いということではなかろうか。
   → “原谷苑”のホームページ

 ただ、一般的に、京都らしいとなれば、ガイドブック的には「祇園の夜桜」とか、平安神宮西神苑の「紅垂れ」になる。枝垂れ桜に和服の情景が京都となる訳だ。
 あるいは、花園左大臣や藤原定家の歌を想い、疎水の桜を眺める手もあろう。
 だが、小生が考える京都らしさは全く別モノ。一番気になる場所は、平野神社。(>>>)花山天皇の桜祭[985年]の伝統を引き継いでいると言われているからだ。
  このもとを すみかとすれば おのづから
   はな見る人と なりぬべきかな
 花山御製[栄花物語-和漢朗詠集]
   → 「桜珍種十品種の紹介」 (C) 平野神社

 もともと、花見とは、公家の邸宅にある一本の桜を眺め歌をものするものだったろう。それぞれの桜の微妙な違いを感じとることが、面白かったのだろうし、大切にしている家にとってはその木は植えた人の形見でもあったのだと思う。
 それを、桜祭で皆で楽しむように変えたのだろうが、それ以前のこうした精神が消えた訳ではないと思う。

古代、桜は命だった。
 従って、生物学的に珍種を見ることに、たいした意味はない。独特な一本の桜と対面するからこその花見というだけ。

 それがよくわかるのが内裏の左近の桜。前庭にはその一本で十分なのである。本来の花見は“群れた”花木を眺めるものではない。残念ながら、京都御所での花見は難しいから、その感覚を知ることは難しいが。  実は、この木は桜ではなく、中国伝来の梅だったそうである。それが、日本古来の山桜に変わったのだ。

 その辺りの感覚がわかる書物に、先日、たまたま出会った。 中西進: 「亀が鳴く国−日本の風土と詩歌」 角川学芸出版 (2010年2月) 今まで感じていたこととピタリ一致したのには驚いた。
 ご存知のように、「非時香菓」“是今橘也”。この橘に対応する左近の桜とは、「非時の花」だというのである。花が散り、葉が落ちるが、命は永続ということ。その通りだ。山桜は、ソメイヨシノのような短い寿命の筈がなく、永続性があるからこそ御所に植えられたに違いない。
 普通は、桜とは、花片へ生命の姿を変えて散っていくものとされる。それこそが死の尊厳と解釈する訳だ。これは、武士道で古代精神とは違うとの主張。
 余り説明は無いが、引用している歌は確かに、樹木の永遠性を語っている。
  桜花 時は過ぎねど 見る人の
   恋ふる盛りと 今し散るらむ
 [万葉集巻十-1855]

 そうなのである。雪月花とは単なる景色を愛でる対象ではない。
   ---宴席詠雪月梅花歌一首---
  雪の上に 照れる月夜に 梅の花
   折りて送らむ はしき子もがも
  大伴家持 749年12月  [万葉集巻十八-4134]

 花吹雪は文学的には命が散る象徴とされるという解説はわかり易いが、それは古代人の感覚とは違うということ。花を頭に挿すことで、命の息吹を感じたのである。人間の寿命を越える、花木の活力を頂戴したということでもあろう。
 社会の近代化で、この日本人独特の自然観が失われてしまったようでまことに残念。

 ただ、完全消滅した訳ではない。
 堀文子展に、幻の花 ブルーポピーを見に行ったことがあるが、それこそが現代の桜。どうして画家がそこまでこの花に入れ込むかといえば、そこに命を感じるから。“画業70年 自然と共に生きて”きた方ならではの作品。
 それに、日本人は、もともとは、この画家のように、「群れない」ことが誇りだったのである。桜とは、山の木々に紛れて一本づつ咲くもの。それこそが生命力なのである。
 桜吹雪にしても、柳の枝が風で靡くのと同じ。それは生命の躍動感であって、死の表象になる筈が無いのである。もしも桜に死を感じるとしたら、“えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけて”いるような時代に生きていることを意味している。

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