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2010年3月10日
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【古都散策方法 京都-その27】
寺町通りのお店に入る。

京都の古美術店巡りは敷居が高すぎる。
 お菓子屋さんの話にかこつけて、滅多にない家具屋街をご紹介したが、古都だから、骨董店街の話もしておくべきか。
 と言っても、町そのものが骨董のような感じもするから、そんなお店はそこらじゅうにある。家の建替えで古いものが溢れて出るということのようだ。京都ではアンティークとリサイクルは紙一重なのかも。

 ただ、ショーウインドウに、美麗で大きな商品が飾られているお店もある。原宿のオリエンタルバザール的な手で、どうも骨董イメージが湧かない。しかし、繁盛しているようだからそんな商品の方がリビングルームに合うということで人気があるのかも。

 そんなお店は別として、ガイドブック的に骨董街といえば、祇園風情が濃厚な白川南通・新門通・古門通の辺りと決まっている。知恩院への参道である。(第22回) いかにも、時代劇に出てきそうな感じの街並みであり、お店もその雰囲気作りに一役かっている。東京 青山の骨董通りはお店はあるものの、名前が実態を表していないが、こちらはスバリ。ただ余りに賑やかで、お客さんになりそうもない観光客が多いので、ビジネスになるのか心配である。いらぬ心配、余計なお世話と言われそうだが。
 ここは綺麗なお店が多く、冷やかしで入るには気が引ける。小生は、ガラス戸越しに眺めて前を通り過ぎるしかない。
 骨董通と呼ばれているが、古美術通と呼ぶべきではないか。

寺町通の骨董屋さんは気楽に入れて楽しい。
 小生は骨董収集の趣味が無いので、知識は皆無だが、お店を覗くのは好きである。商品を見る楽しさもさることながら、お店の陳列の仕方に滲みでてくる骨董商の自己主張のようなものが面白い。
 一見、雑然と置いてあるように見えるが、そこには、店主のひとかたならぬこだわりがあるらしいのである。そんなことを実感したのは、軽井沢での出張骨董市。お客さんの波が消えた時に入ると、暇にしている店主が寄ってきて、薀蓄話をしてくれたりするのである。これも、いとおかし。
 もっとも、話しこんでいると、骨董の魅力にひきづられ、危うく買いそうになったりするのでご用心。安い買い物ではないのだから。

 というような愉しみを京都で味わいたいなら、寺町通がお勧め。北は丸太町通で南は二条通といったところ。見かけは普通の町の通りでしかないが、ポツポツと骨董のお店がある。新興勢力臭いお店もあれば、古道具屋スタイルなど、統一性は感じられない。そこが気楽に歩ける理由でもある。結構、観光客をひきつけている通りではないかと思う。通りとしての美しさは感じられないが、ガイドブックに載せやすい通りであることは間違いない。

そこは、檸檬の通りではなく、現代の観光地である。
 しかし、小生にとっての寺町は、骨董ではなく、“檸檬”。ご存知だと思うが、2009年にこのお店はなくなってしまった。
   → “「檸檬」時代の終焉[続]” (2009年2月16日)

 そんなことでもわかると思うが、ここは、どう見ても現代の観光産業的な通りである。まだ途上という感じもしないでもないが、素材は十分すぎるくらい揃っているのである。もちろん菓子舗があるが、老舗洋菓子店まで並ぶ。そして、茶舗、竹垣屋、京錺(飾)、紙屋と特徴ある店も。従って、町屋カフェや様々な料理屋には最適立地だろう。となれば、そんなお客さん相手のお店も増える。典型はアジアン雑貨店か。この辺りの状況は都会ならどこも同じ。
 ただ、この地区は新興という訳ではない。明治の頃は路面電車が走る京都のメインストリートだったそうである。その面影は感じられないが。

気になるお店もあったりして。
 小生がこの街で気になるお店としては、御茶屋さん。
 と言っても、京都のお店で購入したことは一度もない。このお店の東京のデパート店で抹茶を購入しているに過ぎない。一度位は本店でと思っているにすぎない。茶人を目指すつもりはさらさらないし、通でもなんでもないが、満足してきたということ。もらいものより、師範の親類のものより美味しい気がしたりして不思議なものでる。
 自分でもよくわからないが、素人だから、おそらく気分から。様々な銘があり、ピンキリのお値段を眺めて、今回はどれにするか迷うのが嬉しい点が選択理由の感じがしないでもない。なにせ、煎茶はこのお店では買わないのだから。
 そうそう、番茶を買ったのもこのお店。家で飲んだことがなかったが、香ばしいと聞いて、試してみただけ。番茶の価格帯を知らないからよくわからないが、余りに安価なのに驚いた。これが京都の日常生活品だと思い知らされた逸品である。

 そうそう、少々南の方だが版画出版社もあるから覗くとよいかも知れぬ。版画は海外土産に最適だから、昔はわざわざ神保町に行ったりしていた。そこで、この出版社の名前を知ったのだが、一度も訪れたことはない。東京にも支店があるそうだ。

 こうして書いていくと、結構、ガイドブック的になってきたので、ついでながら、この通りで有名な観光地をあげておこう。北側の“下御霊神社”と竹屋町通の“革堂(行願寺)”。前者は怨念を鎮めるひっそりとした神社だし、後者は赤い提灯が下がる、いかにも、町衆の信仰を集めそうな小さなお寺。そんな寺社が肩を並べるように存在する地域でもある。これも、いかにも京都らしさ。

お勧めは京野菜の八百屋さんに立ち寄ること。
 尚、この通りには、「ほんまもん京野菜取扱店」認定盾を飾る八百屋さんがある。 [“ブランド京野菜の買えるお店”>>>] 
 錦小路もよいが、あちらは余りに人だらけ。こちらがお勧め。邪魔にならないようにすれば、じっくりお店を見ることができよう。乾燥してもかまわない野菜くらいは、自宅用に購入したらよいと思う。
 もっとも、錦で1本\50,000の松茸が売られていたから、最高級の特殊野菜はそれなりの価格であることは覚悟しておく必要があろう。水菜のように、ほとんど日常野菜化してしまったものもあるし、逆に広葉の壬生菜は見かけなくなった。たまたま知った、上質のお出汁に京油揚と壬生菜を入れるだけの鍋が好きになったが、それができにくくなってしまった。
   → 「水菜の話」 (2007年12月25日)

 野菜をかかえて列車に乗るのは気が進まないなら、旅先でビタミンC不足だろうから、ここでレモンを買って、ホテルの部屋で齧るというのもよいかも。その尖った刺激で脳が刺激されたところで、街を思い出しながら、この町は、いったい何を壊し、何を残そうとしているのか、考えてみるとよいだろう。そこに流れるものこそ、日本人の精神的源流かも知れないのである。
 そういえば、京菓子の話をしていて、つい水上勉の「失われゆくものの記」(1969年)を読んでしまったが、そこには伏見人形の話もでてくる。骨董屋には京人形はあるが、こちらの人形は滅多に見かけない。買うなら、新品でということだろうが、この伝統文化は今後もは続くだろうか心配である。
 拙宅のリビングルームのベランダに面するガラス戸の前には信楽焼の30cm位のとぼけた顔の狸はいるが、伏見人形はいない。東京育ちなので、“幼少時の想い出”のシーンにはそうした土偶が入っていないからである。しかし、伏見人形の素朴さのなかに、なにかよくわからないが、惹かれるものがあるのは確かだ。それは、京都の街を歩くと、ふと憶える感覚に似ている。それこそが街歩きのよさだと思う。
   → 「伏見の土人形産業を考えて見た」 (2005年5月11日)

 末筆ながら、行く気がでた場合は、前もってGoogleのストリートビューで、京都市役所の西側から、この通りを北に上がってみよう。訪れたが、期待と違うと言われたのではかなわぬから。

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