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【古都散策方法 京都-その33】 京の池の話を聞く。
〜 恐ろしい池という“お話”の凄さ。 〜
京都に深泥池があるのをご存知だろうか。ここは、氷河期からの生き残り種が棲む湿地的な池。貧栄養状態が維持されてきたためらしい。水面の1/3を浮島が覆い、光が差し込まないし、その島も冬は冠水。温度が低く腐敗がほとんど進まない池ということのようだ。
だが、そんな状況も、風前の灯火のようだ。
航空写真を見れば、住宅が寸前まで迫ってきている。これでは、富栄養化進行は防げまい。その前に、埋め立てて道路と化すらしいが。
道路反対派もいそうだが、多分、“市民のための”自然公園設置へと靡くのが現代の風潮。
当たり前だが、こういう場所には見に行かないのが礼儀というもの。“美しい”深泥池の写真撮影などもってのほか。
こういう類の場所は、古代から“恐ろしい”場所とされていた筈である。鬼が出入りするような場所なのである。[“みそらが(御菩薩)池の丑寅のほとりに大豆塚”: 日文研の該当頁>>>]
こんな場所をぶらぶらすれば、祟られかねないと恐れられていたのである。古代の信仰にすぎないが、“そのままにしておけ”という自然の声が聴こえたのでは。
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“深泥池” 京都府レッドデータブック
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“深泥池 天然記念物 深泥池生物群集” 京都市情報館
おわかりだと思うが、現代の“自然と親しむ”とは、古代感覚とは違う。今、喜ばれるのは、現代的に整備したところを散策すること。
深泥池のすぐ近くの宝ヶ池はその典型。「京都議定書」の会議場所で一躍知られることになった場所である。[地下鉄烏丸線国際会館駅下車]
こちらの池は、江戸時代に作られた農業用の溜池を公園らしく仕立てたもの。名物は鯉の大群らしい。
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[Video] takasippo:
「京都 宝ヶ池 鯉の大群」
〜 広沢池には里の力を感じる。 〜
もっとも、古くからある広沢池(京都市観光文化情報システム>>>)にしても、もともとは溜池だったが、989年、遍照寺(HP>>>)の建立に合わせ庭池に改造されたものである。真言宗の拠点で栄えたが、その後衰微。そこで、後宇多天皇が再興。
こころざし 深く汲みてし 広沢の 流れは末も 絶えじとぞ思ふ
もちろん、応仁の乱で廃墟化。
そして、文政の頃再度建て直し。
いかにも京都という感じだが、それより、池の傍らにある児神社の由緒の方が京都らしさ紛々。 僧正が入滅し、侍児が悲しみのあまり入水。それを哀れに思った里の人々が祠を建てたというのである。
神社が健在なのだから、そんな里の力は今も持続していそうだ。
この池はほぼ真四角で、いかにも鯉養殖に適している。おかげで、師走には“鯉上げ”が行われる。漁民が存在しているということ。
最近は、池のそばの“佐野藤右衛門邸の桜”も有名だが、こちらは造園業。繁盛していそうだ。
航空写真には田畑が映っているから、農業も健在だ。
これぞ正真正銘の里。
少し南側の太秦に近い辺りには、阿刀宿禰祖昧饒田命を祀る阿刀神社(玄松子の記録の当該頁>>>)があったりして、マンションの裏側に押し込められているとはいえ、祖先信仰は続いているのだ。里の民の強さをひしひしと感じる。
少し西側の大沢池は大覚寺の塔が見えたりして雅感があるが、それは当然である。観月に最適の地だとして作った人工の池なのだから。それに対して、ここ広沢池ははまさしく“鄙び”の京都。
尚、この辺りで一休みするなら、知る人ぞ知る“池の茶屋の宇治金時”はどうか。白州正子の世界だが。
ところで、航空地図を見ると東に溜池らしきものもあるが、養殖池だろうか。
“広沢のひがしなり、路のかたはらにくぼみたる所あり、是なり。むかしはいと深くて、此池の霊帯と化して人を取りしとぞ”が残っているとは思えないが。
→ 「帯とり池解説画像」 (C) 国際日本文化研究センター
「今ではすっかり埋められてしまって跡方も残っていませんが、ここが昔の帯取りの池というんですよ。江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。」というのは、江戸は市ヶ谷の話である。
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岡本綺堂: 「半七捕物帳 帯取りの池」 青空文庫
〜 捨てさられた巨椋池の思い出。 〜
そう言えば、蓮池だった巨椋池も昭和期に全面干拓され、今や姿形さえ想像できない。もちろんここにも貴重な種が存在していた。
太古の世界では、京都も含めた大盆地があり、それの残存池ということ。ただ、深泥池とは違い、眺めを楽しむ場所だった。
巨椋の 入江響むなり 射目人の
伏見が田居に 雁渡るらし
柿本人麻呂 (万葉集九-1699)
と言うより、木津川、宇治川、桂川(+鴨川)が流れ込んでおり、淀川から摂津に出る河川交通の要所。秀吉が大規模に堤を作ったり、流れを変えたりしたようだから、早くから全面干拓に踏み切ってもよかったのだろうが、戦略的意味が大きかったのだろう。
だが、陸上交通主体になれば、一挙に邪魔な場所となったということ。
池の思い出を語る場所も作られていないようである。
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