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2010年4月27日
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【古都散策方法 京都-その37】
体質を見抜く。[この地の霊と共に]

なにはともあれ仏教なくしては。
 祇園祭のように怨霊鎮めを重視する土地柄だが、家々ではそれより重要なのは祖霊の方ではないか。住所は移動していても、京都に住み続けている人が多いなら、盆地一帯に無数の祖先の霊が存在するということになってもおかしくない。
 菩提寺でのご法要だけでは気持ちがしっくりこないのは当然だと思う。
 それに、ここは仏教各派の総本山だらけ。仏教行事を粛々と行うのは信仰もさることながら、ここで居を構える上での当たり前の礼儀でもあろう。

 ただ、お墓参りと祥月命日的な法要行事を除くと、どもすると、お寺の行事としては煤払いや除夜の鐘に目がいってしまう。
 だが、奈良のお寺を考えると、もともとは鎮護国家の役割だった筈。京都のお寺は菊のご紋を掲げるているがそのイメージは弱い。“修正会”的な行事が目立たないからだ。
 それよりは、宗派独自の行事の方が浸透している印象が強い。・・・栄西忌(建仁寺)、親鸞聖人命日の報恩講(本願寺)、興教大師生誕の青菜祭(智積院)、皇福茶/空也踊躍念仏(六波羅蜜寺)、等々いくらでもある。競争状態と見ることもできるが、宗派にかかわらず琴線に触れるところがあれば同居したらよかろうとの感覚に近いのではないかと思われる。宗教戦争の時代を忘れている筈がないし、お寺の栄枯盛衰を知っている訳で、寛容というより微妙なバランス感覚が働いているのではないか。

 このことは、仏教に対する尊崇の念が強いということでもあろう。
 そう思うのは、京都では今もって花祭りの掲示を結構みかけるからだ。東京もお寺の幼稚園などがあるせもあって、昔はそこここで行われていたのではないかと思うが、下火なのではないかと思う。お寺の町だから、流石に違う。
 涅槃会や灌仏会は盛んだし、立派な出し物もあったりして、お祭として定着しているようだ。

仏教の役割は死者の鎮魂。
 しかし、お釈迦様を慕っているにもかかわらず、偶像・遺骨崇拝から脱皮するようにと諭されても従わなかったのが、現実の仏教徒。これは日本だけの話ではない。
 奈良との一番の大きな違いといえば、それは盛大なは盂蘭盆会なのでは。

 霊のお迎え儀式と、送り火にかける情熱はただごとではなかろう。各家庭で小じんまり行う行事ではとても間に合わないほど霊が多いという感覚なのでは。その霊をお寺さんと一緒になって大切に扱おうという姿勢が濃厚。
 そのなかでも、六道詣り(六道珍皇寺)やお精霊迎え(千本ゑんま堂)といった行事が特徴的。閻魔大王の領域から霊が帰って来るということだが、この感覚は現代では失われているのでは。現代に馴染み易い行事ではない。

 現代に合うのは、千灯供養(化野念仏寺)、万灯供養会(壬生寺)、東大谷万灯会(大谷祖廟)といった情景なのではないか。
 観光的には、五山送り火(第16回でとりあげた.)、嵐山灯籠流しか。当然ながら、この類の儀式は全国的にも盛んである。

 まあ、東京は、お盆の時期は帰省する人が多い訳で、故郷でのお墓参りやイベントがあるから京都のお盆が盛んだといっても特段驚くことではないかも知れない。東京でも、商店街主催の盆踊りは珍しいものではないし。

 しかし、地蔵盆は滅多にないのでは。
 この特徴は、狭い地域で祀っている街のお地蔵さん信仰である点。ここで重要なのは、子供を中心としたお祭に徹しているように見えること。地域で、子供に祖霊信仰の慣習を植えつける仕組みと考えてもよいだろう。
 京都の町もマンション建築が進んでいるし、子供の数が減っているし、集団で遊ばない状況になっているから、はたしてこの慣習が何時まで続くか。

霊が蘇る感覚が残っていそうだ。
 京都の仏教という観点では、注目すべき行事がもう一つある。どうやら残っているものだが、念仏狂言である。壬生寺、清涼寺、引接寺(千本ゑんま堂)にどうやら残っている、それこそ無形文化財的なもので、これもどこまで続くかはわからない。
 大阪・平野にある大念仏が根本道場で、身振り手振りで信仰を広めた円覚上人の念仏の教えを無言劇化したものとされている。まあ、それはそうなのだろうが、これでは念仏宗派の昔の行事以上の位置付けになってしまうが、そんなものだろうか。
   → [動画] 「壬生大念仏狂言」 (C) 京都新聞 [2007年10月06日]

 狂言と名前がついているが、それなら対話劇の筈。仮面劇だから狂言と名付けているだけで、根本的に違うのではないか。これはあくまでも宗教劇だが、題材が宗教がかっている訳ではない。そうなれば、何を意味しているかはわかりきったこと。
 仮面をつけた演者には、鉦や太鼓の音で現世に蘇ってきた“霊”が憑いているのだと思われる。従って、演者が言葉を発する道理がない。
 そう思って見ないと、バリ島で観光用ガムランを見物するのと同じことになってしまう。

 比喩的に言えば、天井が高い教会内でバッハのポリフォニー音楽が奏でら、降霊感が湧くようなもの。あるいは、天台仏教なら声明が響いて仏様が存在する感覚を味わうと言ってもよいかも。
 昔の人は霊を実感したのだと思う。ほとんどの現代人が忘れてしまった感覚である。
 しかし、京都にはまだ残っているということ。

 ということで、独断と偏見でまとめれば、・・・。
〜京都の民の体質〜
- 1 - 土着感覚  地についた伝統でなければ収まりが悪い。
- 2 - 身分峻別  分相応をわきまえない信仰は落ち着かない。
- 3 - 怨念の地  権謀術数からくる祟りなどたまったものではない。
- 4 - 縁の伝承  親の信仰を粗末には扱う訳にはいくまい。
- 5 - 混沌堅持  商売繁盛は皆で謳歌したいもの。
- 6 - 霊と共存  この地の霊と共に生きていく。

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