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【古都散策方法 京都-その42】 体質を見抜く。[皇位係争は厄介]
〜 秦氏の氏寺は太子のお寺。 〜
鴨氏の神社がどう扱かわれているのか,ざっと眺めてみた。(39〜41回)よくわからん、というのが正直なところ。
そうなると、秦氏のお寺“広隆寺”もどうなっているか見ておこうかという気になる。
なにせ、こちらは推古天皇時代創建の寺とされ、京都最古であるのは間違いないのだから。
本堂は上宮王院と呼ばれている。その名前から想像されるように、ご本尊は、聖徳太子像である。
牛祭り(摩多羅神祭典)を行うというのに、有名な弥勒菩薩ではない。それなら、もともとの薬師如来にしておいてもよさそうなものだが。秦氏の氏寺とされているから、聖徳太子を血縁扱いし、祖霊と見なしたのだろうか。 この御像だが、高田装束研究所による御束帯御装束調査によれば、立派な下着と下袴を着用しているそうだ。そして、ご存知のように■黄櫨染■の袍を着用しているのだ。それも、歴代天皇の即位大礼で用いられた実物。
どうしてそこまでする必要があるのか、誰も口を開かこうとはしない。いかにも京都らしい。
〜 太子のお寺は別にある。 〜
ただ、素人的には、想像がつく。もちろん潤色の類にならざるを得ないが。・・・
太子と秦氏は力を合わせて歩んできた筈。裏で支えてきた実権派だと思う。ところが、太子一族は絶えてしまい、秦氏一族は生き残こる。なかなか世渡り上手である。しかも、今度は、平安京建設で実質的な責任者。太子の鎮魂を怠れば、罰が当たるというもの。祟りなきよう、できる限り敬うのは当然だろう。
しかし、それなら、特定の一族の氏寺でなく、太子墓所を護る叡福寺で盛大な行事を行ってもよさそうに思うが、そちらの方は意外と冷淡である。
→ 「聖徳太子御廟」 [叡福寺]
(このお寺は山門→二天門→御廟が一直線であり、菩提を弔うためのもの。ご本尊は如意輪観音だが、太子堂の太子像の方が重要そうだ。多くの高僧が訪れてきた廟は、寺でなく宮内庁管轄。)
このお寺は「上の太子堂」とされているという。そこで、「下の太子堂」とはどんなお寺か見てみると、推古天皇命名の「大聖勝軍寺」。四天王寺と同時創建のお寺。
普通なら、ふ〜んでおわる話だが、そうならない。門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったという「守屋池」があるからだ。もちろん、近くには物部守屋の墓がある。どう考えても、これは物部鎮魂のお寺だろう。
〜 広隆寺は山背大兄王の鎮魂施設なのかも。 〜
この大聖勝軍寺のご本尊は植髪太子(聖徳太子)。物部守屋の怨念を、聖徳太子が抑え込んでいるということなのだろうか。あるいは、太子が守屋に成り代わっているのかも。反仏教派の首領を神としてお寺に祀る訳にはいかないが、実体としては、怨念を鎮める神社と見てよいのではないか。
代理という見方はもちろんトンデモ論の類だが、そんなことをつい考えてしまうのは、親鸞の六角堂百日参籠での夢告、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」があるから。太子が女性になりかわるという、凡人はただただ驚くだけの話。(六角堂は30回でとりあげた。)
してみると、広隆寺の太子像とは、実は、山背大兄王の代理なのかも。要するに、ヤマシロの大兄王の鎮魂施設ということ。本来は天皇になるべき人物が、滅ぼされたのだから、その祟りだけは勘弁して欲しいということ。
ということで、独断と偏見でまとめれば、・・・。
〜京都の民の体質〜 |
- 1 - |
土着感覚 |
地についた伝統でなければ収まりが悪い。 |
- 2 - |
身分峻別 |
分相応をわきまえない信仰は落ち着かない。 |
- 3 - |
怨念の地 |
権謀術数からくる祟りなどたまったものではない。 |
- 4 - |
縁の伝承 |
親の信仰を粗末には扱う訳にはいくまい。 |
- 5 - |
混沌堅持 |
商売繁盛は皆で謳歌したいもの。 |
- 6 - |
霊と共存 |
この地の霊と共に生きていく。 |
- 7 - |
信心第一 |
信心こそ命。 |
- 8 - |
最古との自負心 |
古事記の世界を護る。 |
- 9 - |
口外無用 |
みだりに由緒を語らない。 |
- 10 - |
潤色放置 |
お話を作りたい人はご勝手に。 |
- 11 - |
皇位係争は厄介 |
皇位争いの余波は永遠に続く。 |
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