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2010年6月23日
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【古都散策方法 京都-その42】
体質を見抜く。[皇位係争は厄介]

秦氏の氏寺は太子のお寺。
 鴨氏の神社がどう扱かわれているのか,ざっと眺めてみた。(39〜41回)よくわからん、というのが正直なところ。  そうなると、秦氏のお寺“広隆寺”もどうなっているか見ておこうかという気になる。
 なにせ、こちらは推古天皇時代創建の寺とされ、京都最古であるのは間違いないのだから。

 本堂は上宮王院と呼ばれている。その名前から想像されるように、ご本尊は、聖徳太子像である。
 牛祭り(摩多羅神祭典)を行うというのに、有名な弥勒菩薩ではない。それなら、もともとの薬師如来にしておいてもよさそうなものだが。秦氏の氏寺とされているから、聖徳太子を血縁扱いし、祖霊と見なしたのだろうか。
 この御像だが、高田装束研究所による御束帯御装束調査によれば、立派な下着と下袴を着用しているそうだ。そして、ご存知のように黄櫨染の袍を着用しているのだ。それも、歴代天皇の即位大礼で用いられた実物。
 どうしてそこまでする必要があるのか、誰も口を開かこうとはしない。いかにも京都らしい。

太子のお寺は別にある。
 ただ、素人的には、想像がつく。もちろん潤色の類にならざるを得ないが。・・・
 太子と秦氏は力を合わせて歩んできた筈。裏で支えてきた実権派だと思う。ところが、太子一族は絶えてしまい、秦氏一族は生き残こる。なかなか世渡り上手である。しかも、今度は、平安京建設で実質的な責任者。太子の鎮魂を怠れば、罰が当たるというもの。祟りなきよう、できる限り敬うのは当然だろう。

 しかし、それなら、特定の一族の氏寺でなく、太子墓所を護る叡福寺で盛大な行事を行ってもよさそうに思うが、そちらの方は意外と冷淡である。
  → 「聖徳太子御廟」 [叡福寺]
(このお寺は山門→二天門→御廟が一直線であり、菩提を弔うためのもの。ご本尊は如意輪観音だが、太子堂の太子像の方が重要そうだ。多くの高僧が訪れてきた廟は、寺でなく宮内庁管轄。)

 このお寺は「上の太子堂」とされているという。そこで、「下の太子堂」とはどんなお寺か見てみると、推古天皇命名の「大聖勝軍寺」。四天王寺と同時創建のお寺。
 普通なら、ふ〜んでおわる話だが、そうならない。門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったという「守屋池」があるからだ。もちろん、近くには物部守屋の墓がある。どう考えても、これは物部鎮魂のお寺だろう。

広隆寺は山背大兄王の鎮魂施設なのかも。
 この大聖勝軍寺のご本尊は植髪太子(聖徳太子)。物部守屋の怨念を、聖徳太子が抑え込んでいるということなのだろうか。あるいは、太子が守屋に成り代わっているのかも。反仏教派の首領を神としてお寺に祀る訳にはいかないが、実体としては、怨念を鎮める神社と見てよいのではないか。
 代理という見方はもちろんトンデモ論の類だが、そんなことをつい考えてしまうのは、親鸞の六角堂百日参籠での夢告、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」があるから。太子が女性になりかわるという、凡人はただただ驚くだけの話。(六角堂は30回でとりあげた。)

 してみると、広隆寺の太子像とは、実は、山背大兄王の代理なのかも。要するに、ヤマシロの大兄王の鎮魂施設ということ。本来は天皇になるべき人物が、滅ぼされたのだから、その祟りだけは勘弁して欲しいということ。

 ということで、独断と偏見でまとめれば、・・・。
〜京都の民の体質〜
- 1 - 土着感覚  地についた伝統でなければ収まりが悪い。
- 2 - 身分峻別  分相応をわきまえない信仰は落ち着かない。
- 3 - 怨念の地  権謀術数からくる祟りなどたまったものではない。
- 4 - 縁の伝承  親の信仰を粗末には扱う訳にはいくまい。
- 5 - 混沌堅持  商売繁盛は皆で謳歌したいもの。
- 6 - 霊と共存  この地の霊と共に生きていく。
- 7 - 信心第一  信心こそ命。
- 8 - 最古との自負心  古事記の世界を護る。
- 9 - 口外無用  みだりに由緒を語らない。
- 10 - 潤色放置  お話を作りたい人はご勝手に。
- 11 - 皇位係争は厄介  皇位争いの余波は永遠に続く。

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