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2010年8月5日
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【古都散策方法 京都-その43】
体質を見抜く。[鬼門除け不可欠]

賀茂斎院制度は賀茂祖先神の力を頂戴するためのものか。
 賀茂斎院制度がつい気になってしまい、“京都”についての思考が中断してしまった。
 と言って、特段、調べた訳ではない。どういうことか思い巡らしたにすぎない。それを踏まえて、少し書いてみようか。

 賀茂斎院制度だが、この由緒ははっきりしている。810年、平城京に都を戻そうと平城太上天皇が動いたのである。(薬子の変)そこで、これを抑えるべく、嵯峨天皇が戦勝祈願したという。聖徳太子は、かつて、四天王寺建立をもって戦勝祈願としたが、嵯峨天皇は斎院制度にした訳だ。そして、勝利を収めたので、約束通り、5才の有智子内親王を奉仕させたのである。どう見ても、“神妻”的な感覚だ。
 尚、この親王は長じて文芸の才能が花開き、賀茂はサロン化したようだ。

 鎮護仏教の平城京v.s.鎮守の平安京と考えれば、この辺りの話は納得し易いが、好まれない方向の北東へと、御所から勅使が行列で向かう行為はどうも解せぬ。出立の日時や方向に至るまで、すべて縁起をかつぐのに、鬼門方向に正式な行列を出すのは尋常ではなかろう。
 しかも、その行き先は天皇家の血族とは言い難い、鴨一族の氏神を祀る神社なのだ。

 それに、何故、松尾や日吉(比叡山)では駄目なのか。
 賀茂別雷命は神山から流れてきた丹塗矢で懐妊して誕生とされているが、古事記には、淡海国の日枝(日吉)の山、葛野の松尾の神は鳴鏑を用つ神とされているから、力量も十分な筈だと思うが。
 そこで想い浮かぶのが、鴨氏の出自である。葛城地区がもともとの祖の地だ。この地区の氏族は飛鳥(大和)の首長に滅ぼされたと見てよさそうだが、鴨氏は、傍流にせよ、生き延びで山城地区で繁栄している訳だ。これはたいしたもの。扇状地農耕に長けていたこともあろうが、祖神の威力と考えられていたのではないか。

 そういえば、ウエブ検索で初めて知ったのだが、平城京に近い関西線加茂駅の傍、木津川沿いの地にも、祖神を祀った岡田鴨神社(岡田山)がある。賀茂に移動する前はここに一族の拠点があったようだ。高槻にも三島鴨神社、鴨神社がある。ただ、こちらは、大山祇神・事代主神がご祭神。(藤原鎌足の墓と推定されている阿武山古墳がある地域。春日大社の本殿を移築しているのも、そんなところからか。)そういえば、三宅島から移転してきた三島大社を擁する伊豆にも、加茂の地があり、そこには葛城山もある。かなり古い神社であるのは間違いなさそうである。
 渡り鳥のように、水運の便ある地を探して移動を続けてきた進取の精神に富む一族だったのカモ。
 従って、この一族の力を頂戴したいと思うのは理にかなっているのかも知れぬ。

氏族の消長は激しく、天皇家内紛にも繋がってきた。
 そう思うのは、葛城以後も、次々と氏族が消されてきたからだ。・・・蘇我馬子は聖徳太子と組んで物部氏征伐。その孫の入鹿は太子一族を滅ぼすが、中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足に滅ぼされれてしまう。ところが、どう立ち回ったのか、太子盟友の秦氏はその抗争から逃れ、最終的には平安京招致に成功している。
 そして、平安京移転に当たって、ついに大伴氏までもが消えていった。天皇家に一番近しかった氏族ではないかと思うが。
 万葉集の末尾に掲載されている家持759年の作とは、一族の鎮魂歌という説があるらしいが、そうかも知れぬ。
     新しき 年の初めの 初春の
      今日降る雪の いやしけ吉事 [万葉集巻二十4516]

 この権力闘争だが、太子家系断絶とか、石舞台のように墓を暴くことまで行っているから、かなり先鋭化した対立と見てよいだろう。宗教や思想で互いに相容れない状況が何度も繰り返されたということかも。平安京遷都の頃は、大陸の帝国、朝鮮半島の南部3地域と北方、満州から沿海州にわたる領域、にそれぞれ別な勢力が存在していたから、海外との合従連衡方針で対立せざるを得なくなったということでもあろう。(古事記には海外の話が出てこないし、万葉集には仏教臭が無い。表立って外交を語ることの難しさを示しているのかも。)

 こんなことを考えると、大伴一族処罰に絡む早良親王への処断も、単なる勢力争い以上のものがありそうだ。少なくとも、平城京の旧仏教勢力の影響力抑制の目的があったのは間違いないかろう。
 それには、仏教以前の勢力の力を借りるしかなかったということかも。天皇家の外戚でもない氏族の祖神を祀る神社への尊崇は実に奇妙な感じがするが、古代政権の時代から天皇家の傍で助けてきた一族だから、困難に直面している平安京を救うためには、その力を借りる以外に手はなかったということか。

かつての有力氏族がこぞって祭祀を行っていたようだ。
 それにしても、気になるので、賀茂神社辺りをもう一度眺めてみた。
 う〜む。
〜 平安京の街道口 〜
■■■大原口(寺町今出川)■■■
 ↓   〜 若狭街道[俗称鯖街道] 〜
【出町柳・・・叡山電鉄 叡山本線】
 ↓
【元田中】
 ↓
【茶山】
 ↓
【一乗寺】→赤の宮神社
 |   →狸谷不動院
 ↓
【修学院】→鷺森神社━[雲母坂]→比叡山
 |   →赤山禅院
 ↓
【宝ケ池】      →叡山電鉄 鞍馬線 乗り換え  ★→
 ↓
【三宅八幡】→崇道神社、蓮華寺
 ↓
【八瀬比叡山口】→[【叡山ケーブル→【ケーブル比叡]
 ↓[若狭街道]
 ・八瀬天満宮→比叡山
 ↓
 ・惟喬親王墓/小野御霊神社
 ・江文神社━[江文峠]→静原(貴船の南)
 ↓
 ・大原→三千院、寂光院
 ↓




■■■鞍馬口(賀茂川西岸出雲路)■■■
 |   〜 鞍馬街道 〜
 ↓→上・下御霊神社(旧出雲井於神社[出雲寺御霊堂])
 ・出雲路橋
 ↓
 ・下鴨中通
 ↓
 ・深泥ケ池西
 ↓
 ・円通寺
 ↓
       【★→宝ケ池・・・叡山電鉄 叡山本線】
         ↓[叡山電鉄鞍馬線]
       【八幡前】→三宅八幡宮
        ↓
       【岩倉】→石座神社、山住神社
        |
        =
        ↓
【二軒茶屋】
 ↓
【貴船口】→貴船神社、惟喬神社
 ↓
【鞍馬】→鞍馬寺、由紀神社
 ↓
■■■荒神口(河原町通)■■■
→(京大)→吉田神社前→北白川小学校→北白川天満宮→[志賀街道]→山中越→・・・・・・・・→近江[琵琶湖]
〜北西側〜
  ●長坂口●・・・大宮土居町から 鷹峯/周山街道
〜東側〜
  ●粟田口(三条)●・・・蹴上から 東海道/中山道
  ▼伏見口(五条)▼・・・伏見街道[秀吉開設の大和街道]
〜南側〜
  ▼竹田口▼・・・東塩小路から 竹田街道[江戸時代の伏見港道]
〜南西側〜
  ●丹波口(七条)●・・・桂大橋から 山陰街道[亀岡方面]
  ●東寺口(鳥羽)●・・・平安京羅城門から 西国街道[長岡宮・山崎方面]+鳥羽街道[淀川方面]   

 鬼門の猿で有名な赤山禅院や、岩倉の石座は、いかにも朝廷を護る役割を担っていそうだが、じっくり眺めると、御霊信仰の神社も揃っていることがわかる。
 鬼門方向の街道を挟むように設置された訳だ。その任を勤めるのは出雲一族である。
 そして、崇道神社は八瀬の手前。矢張り鬼門方向だ。ここは外交で力を発揮した小野一族の地であり、祭祀を任されたということだろう。
 どうも、一番気になるのは鬼門の方角ということのようだ。初期は上層階級の意識でしかなかったと思うが、どうもこの地ではそれが民に広まっている感じがする。
 ただ、都の鬼門ではなく、自宅の鬼門に関心が集中しているようだが。

 ということで、独断と偏見でまとめれば、・・・。
〜京都の民の体質〜
- 1 - 土着感覚  地についた伝統でなければ収まりが悪い。
- 2 - 身分峻別  分相応をわきまえない信仰は落ち着かない。
- 3 - 怨念の地  権謀術数からくる祟りなどたまったものではない。
- 4 - 縁の伝承  親の信仰を粗末には扱う訳にはいくまい。
- 5 - 混沌堅持  商売繁盛は皆で謳歌したいもの。
- 6 - 霊と共存  この地の霊と共に生きていく。
- 7 - 信心第一  信心こそ命。
- 8 - 最古との自負心  古事記の世界を護る。
- 9 - 口外無用  みだりに由緒を語らない。
- 10 - 潤色放置  お話を作りたい人はご勝手に。
- 11 - 皇位係争は厄介  皇位争いの余波は永遠に続く。
- 12 - 鬼門除け不可欠  鬼門には細心の注意を払う。
- 13 - 氏族祭祀重視  古代氏族の祭祀は重視せねば。

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