トップ頁へ>>> YOKOSO! JAPAN

2010年8月6日
「観光業を考える」の目次へ>>>
 


【古都散策方法 京都-その44】
体質を見抜く。[焼き物への思い入れ]

賀茂波爾神社の存在を初めて知った。
 鬼門の話(第43回)をしたが、京都が特に盛んと言いたい訳ではない。実際、そうとも限るまい。陰陽道の方位学をベースとした占術と呪術であるにもかかわらず、今でも廃れるどころか結構盛んだと聞くからだ。
 ただ、平安京遷都の頃、天皇家が矢鱈に凝ったのは間違いないが。・・・といった点に気を引かれた訳ではない。
 話の流れ上、不可欠だからとりあえずあげてみただけ。

 それなら何なんだとなるが、実に細かなことだが、左京郵便局の北にある、下鴨神社の摂社の一つ、「赤の宮神社」の存在をウエブで知ったからである。もちろん、鬼門方向の神社。葵祭では、御蔭山で生まれた荒御魂を迎える前に、この神社に立ちよることになっている。
 まあ、通り道だし、氏子もいるから、ありそうなことと単純に考えていたが、おそらくそういうことではないのである。その神社の正式名称は賀茂波爾神社で「赤の宮神社」は通称。“赤”は稲荷勧請に由来するそうで、お宮が赤色に塗られたかららしい。それはどうでもよい話で、この“波爾”だが、“埴”のことで土器を意味するそうなのだ。(「玄松子の記憶」による。)

 う〜む。

 “赤”の由来はその通りなのだろうが、この神社でそれを強調したかった理由は土器の“赤”では。
 もともと土器は祭祀用具。土は古くから、悪霊を防ぎ追いはらう呪力があると考えられてきたのである。ただ、その泥は赤色でないと意味がなかったのは明らか。陵墓の場合、運ばれてきた赤土で覆われていることが多いからである。そもそも“赤”の文字は、“大”+“火”であるし。
 鴨氏はこの辺りの祭祀も取り仕切る力があったことになる。
 このような神社まであるとは知らなかった。京都おそるべし。

陶器好きの原点は土と火の崇拝にあるのかも。
 実は、こんなことを考えていた時、たまたま、「日本の美・発見III 茶 Tea ―喫茶のたのしみ―」というタイトルの展覧会に行ったのである。特段の期待感があった訳ではなく、目玉出品の集客型でないから、騒がしい“茶人”小母さん集団が少ないと見て足を運んだだけ。主目的は“大名物”拝観。
 だが、なんとなく感じ入るものがあった。景徳鎮、柿右衛門、マイセンの水注を見物してから、本阿弥光悦作「楽焼兎文香合」を眺め、突如感激してしまったのである。直径8.5cmの蓋に兎と草を描いただけの赤色の楽焼で、なんということのないものなのだが。もちろん重要文化財ではない。
 なにが良いのか自分でもすぐにはわからなかったが、手で触れた際の焼き物の質感が伝わってくる気になったからかも。一種の愛玩気分と言ったところか。

 まさに、直感を擽る逸品モノであった。なかなかこの手の焼きモノには出会えない。
 国宝モノで見てみようか。
 秋草文壷は、神剣代替の薄、朱色を意味する烏瓜、安芸津の線刻模様が施されている。全体の姿と重ねると、なんとはなしに宗教観を感じさせる焼きモノである。「楽焼兎文香合」は壷ではないにしても、この手の感興とは余りに無縁な感じがする。今や熱海名物となった感のある仁清の藤花文茶壷のような端正極まる美しさとは対極的。と言って、とてつもない“念”を感じさせる、迫力ある土器という訳ではなく穏やかそのもの。
  → 「国宝・秋草文壼」 (C) 慶應義塾、 「色絵藤花文茶壺」 (C) MOA美術館、 「火焔型土器」 (C) 十日町市博物館

 なんといっても特筆ものなのは、火で焼いた泥感覚が自然な形で出ている点。しかも、それを慈しむような絵が描かれているので、その気分を高める。
 この感覚、実は“土”崇拝かも。・・・ということで、「赤の宮神社」の重要性に気付かされたのである。

カワラケの伝統は京都には残っていそうだ。
 早い話、焼きモノを眺めていると、“土”と“火”の感覚を呼び覚まされるということにすぎないのだが、これは日本独特かも。
 普通は、もっぱら、薄さ、白さ、フォルム、絵の色柄といった具体的な視点で陶磁器を評価するのでは。だからこそのボーンチャイナだし、景徳鎮であり、青磁だと思う。磁器から遠く離れた楽焼は民具でしかない。(もちろん民芸という視点もあるが。)
 ところが、拙宅でも、好きなタイプの焼きモノとなると、備前の花立、常滑の朱泥急須(壊して廃棄したが)、信楽の狸、壷屋のシーサーといったところ。
 もちろん、このタイプの陶器は実用的食器には向かないから、好みにあわせて色々な種類の陶器を揃えることになる。こんな国はそうそうなかろう。
 こんな話と、賀茂波爾神社の由縁が、直接繋がる訳ではないが、精神の底流は繋がっているように思えてしまったのである。

 そう思ったのは、どの神社だったか失念したが、土器でお神酒を頂戴した覚えがあるから。神社祭礼で土器が使われているものかよくわからないが、東京近辺でお神酒を頂戴しても、それは白無地の陶器製。京都ではどうなのか気になるところだ。素焼き土器が使われていることもありそうな感じがする。
 なぜなら、神護寺で「カワラケ■[瓦笥]■」投げが続いているからだ。観光的座興に近いものになってはいるが、土器信仰を今に伝えていると見てよいだろう。
 “清しと見ゆるもの かわらけ(土器)”(枕草子141段)の世界が続いている訳だ。
 尚、各地にも似た風習があるが、それは伝承ではなく、ほとんどが神護寺の真似でしかない。

 京都といえば、清水焼となるが、土と炎を感じさせる焼き物への信仰という観点で考えると一寸違うかも。楽茶碗をどうしてそこまで重視するのか不思議だったが、この見方をすると、なんとなく納得できるものがある。川端康成が京都のイメージとして志野を用いたのもわかる。何時まで伝承が続くかわからぬ伏見人形だが、もとはといえば伏見稲荷の土信仰ということか。

 土信仰は廃れずといったところ。

---参考---
荒川正明: 「やきものに込められた聖性−日本陶磁の隠れた魅力−」
>>>
・・・“そこには古代以来の、神に捧げらた「造り物」的な意味を有したものと思われる。小間における草庵の茶とは、これまで主に「侘び」や「寂び」という言葉で著わされてきたが、「神さび」という意味もじつは存していたのではないだろうか。”

 ということで、独断と偏見でまとめれば、・・・。
〜京都の民の体質〜
- 1 - 土着感覚  地についた伝統でなければ収まりが悪い。
- 2 - 身分峻別  分相応をわきまえない信仰は落ち着かない。
- 3 - 怨念の地  権謀術数からくる祟りなどたまったものではない。
- 4 - 縁の伝承  親の信仰を粗末には扱う訳にはいくまい。
- 5 - 混沌堅持  商売繁盛は皆で謳歌したいもの。
- 6 - 霊と共存  この地の霊と共に生きていく。
- 7 - 信心第一  信心こそ命。
- 8 - 最古との自負心  古事記の世界を護る。
- 9 - 口外無用  みだりに由緒を語らない。
- 10 - 潤色放置  お話を作りたい人はご勝手に。
- 11 - 皇位係争は厄介  皇位争いの余波は永遠に続く。
- 12 - 鬼門除け不可欠  鬼門には細心の注意を払う。
- 13 - 氏族祭祀重視  古代氏族の祭祀は重視せねば。
- 14 - 焼き物への思い入れ  カワラケ祭祀は捨てられぬ。

<<< 前回  次回 >>>


 「観光業を考える」の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2010 RandDManagement.com