トップ頁へ>>> YOKOSO! JAPAN

2010年8月18日
「観光業を考える」の目次へ>>>
 


【古都散策方法 京都-その45】
体質を見抜く。[一族抹消回避]

 鴨神信仰(第41回)から、鬼門の話(第43回)に移り、突然に賀茂波爾神社の話(第44回)まで進んでしまった。
 まあ、そんなところから土器の話まで。平安京は海から遠いが、黒潮流れる火山列島(火山灰赤土)のモンゴロイド漁撈民文化を受け継いでいるのではないかという気さえしてきたのである。
  →  “今に伝わる土器文化” (2010年8月16日)

 ということで、土器話を終わってもよいのだが、もう一つ追加しておかないと、気分が悪い。怨霊話なので、少々前に戻ることになるが。
 すでに述べたように、広隆寺はお寺として、怨霊鎮めの役割を担っているようだし、(第42回)鬼門方向の都の出入り口である出雲路には上・下御霊神社(旧出雲井於神社[出雲寺御霊堂])がある。
 そして、鬼門の方向にある三宅八幡駅に近い場所には崇道神社がある。ちなみに、その次の八瀬比叡山口駅近くに、葵祭の口火を切る御蔭神社が位置する。東山三十六峰の二番目、 御生山(みあれやま)にご祭神の加茂建角身命が降臨する訳だ。ちなみに三番目は赤山である。

 今回は、この崇道神社を取り上げる。

崇道神社で怨霊を鎮めたのは小野一族。
 まず、場所。駅名でもある三宅八幡宮が有名らしい。小生は、全国にある八幡の一つ位に見ていたら、そのようなものではないのである。遣隋使 小野妹子が築紫で病に罹り、宇佐八幡宮に祈願し無事任務遂行できたことで、帰国後勧請したとされているのだ。山城としては古い神社と見てよいだろう。
  → 「三宅八幡宮 由来・沿革」  (C) 三宅八幡宮

 そのすぐそばに怨念を鎮めるための崇道神社がある訳だ。
 その裏山(西明寺山)には小野妹子の子、毛人[墓誌:677年]の墓が発見されている。
  → 「小野毛人朝臣墓」  (C) 京都市
 そう、ここは、現在の地名は上高野だが、山城国愛宕郡小野郷なのである。その高野とは狩場としての“鷹野”から来ているという。
  → 「上高野 歴史年表」  (C) 上高野の自然と文化を学ぶ同史会

 外交官一族として圧倒的な力量を誇った小野一族の地ということになる。しかし、もともとは琵琶湖側が拠点。近江国滋賀郡小野村(大津市和邇)である。もちろん、そこには小野神社。御祭神は祖神の天足彦國押人命(孝昭天皇)とお餅の神様である米餅搗大使主命。古事記 孝昭天皇段の記載通りだ。“ 天押帯足日子命。・・小野臣・・之祖也。”
  → 「小野神社」  (C) びわこビジターズビューロー
 近江国から山を越え山城国に移ってきて落ち着いたということになろう。
 御所から見て鬼門の地に居を構えることになってしまった訳である。このことは、海外事情に明るい一族で、最新の祈祷能力を身につけていたと見なされたことを示すのかも。

小野一族は赤土の力を持っていたようだ。
 そう感じたのは、この神社そのものの存在でなく、お旅所の存在。川向こうの集落の中心にはお神輿を保管している里宮があり、三宅八幡参道を越えたところには「お瓦の森」があるのだ。里宮は小野一族の氏神が祀られていたのではないかと思われるが、ともかく、小野郷全体で霊を鎮めている訳だ。
 そして、その丘のような森だが、小野瓦窯跡なのである。その産廃物でできた瓦礫でこんもりと盛り上がっていた訳である。
  → 「小野瓦窯 −延喜式に記載された瓦屋−」
       リーフレット京都 No.187(2004年8月)
(C) 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館

〜 赤色の出し方 〜
丹土 焼成黄土
赤錆 砂鉄酸化物
弁柄/紅殻 酸化鉄
丹生/朱 天然辰砂[硫化水銀]
鉛丹/光明丹 酸化鉛
丹土 焼成黄土
鉄丹 焼成褐鉄鉱
漆用の丹 焼成沼鉄[赤鉄鉱]
耐光用の青丹 焼成硫酸鉄鉱石
[銅鉱石採掘副産品]
http://www.kyoto-arc.or.jp/leaflet/222.pdf
 瓦ではあるが、おそらく発祥は土器作り。骨壷や経壷を作っていたに違いなかろう。仏教伝来以前は埴輪作りをしていたかも。
 重要なのはおそらく赤土である。赤い色には怨霊を払う力があるということでは。

 朱で塗られた古代の墓が発掘されたことでもわかる。ただ、なにも効果な朱である必要もあるまい。赤なら、赤土でもよいのである。
 それは、土偶の時代からの古層の精神に依拠しており、輸入思想を土台とする“朱”より古いもの。
 そして、その赤土の力を活かすことが、小野一族に課せられた使命だったのではなかろうか。地獄の門のイメージもありそうな六道珍皇寺に小野篁[802〜853年]が関係してくるのも、この一族らしい話である。(第17回)

八瀬の一団は小野一族の配下で活動したと見るべきだろう。
 さて、御生山や西明寺山を抱える小野郷だが、その範囲はここだけではない。高野川の上流の大原郷に接する花尻が北の境だったらしい。三宅八幡からは、かなり急流で、川にには大きな岩がゴロゴロ状況。そう、ここら辺りが八ッの瀬こと、小野郷八瀬荘なのである。
 延暦寺への奉仕団が住む地域とされていたようだが、ご存知朝廷の駕輿丁役“八瀬童子”。昭和天皇の大葬の礼で登場した由縁だ。まあ、葵祭で御所車を先導する役割を務めているから、京都の人々には当たり前の話なのだろう。
 注意した方がよいのは、こうした話は比叡山が栄えてからで、籠は後醍醐天皇からのもの。小野毛人の没年は677年であり、平安京遷都以前のこと。すでにそのころから、小野一族の支配下の一族が八瀬に住んでいた訳である。

 地図を見るとわかるが、ここは谷間の地。耕地はどこにあるのかといった、猫の額のような面積しかない。炭焼き位しか産業がなかったろう。そんなところに住む一族がなぜ注目を浴びるのか。

 ひとつは、いかにも潤色臭い話。八瀬は“矢背”の意味であり、壬申の乱で背中に矢傷を負った大海人皇子が釜風呂で治療した時から天皇家と関係があるというもの。それが窯風呂の由縁と繋がるのだが。
 蒸し風呂自体は、炭焼きが本業だろうからよくわかるが、小野一族をさしおいて、独自に動ける訳がない。しかし、こんな話を勝手に語れる訳がないから、かつては皇室と深い繋がりがあったことを示している。ただ、それは語ってはいけないのだと思われる。

 そうなると、素人が考えられる理由としては一つしかない。・・・この一族はもともとは由緒ある、偉大な勢力だったが、討伐対象となってしまい、残ったのは八瀬だけ。つまり、外交が巧みな小野氏が、怨念を抱かずに朝廷の下働きに徹するとの条件で、怨念を抱かずに朝廷の下働きに徹するとの条件で、一族の一部だけを“亡命”扱いしたということ。
 赤土と呪術を駆使する小野一族の下で、朝廷の葬儀等に伴う“穢れ”仕事をする役割を与えられたのではないか。
 毛人の頃、すでに敗残渡来人のサンクチュアリ化していた可能性もありそうだ。
 ついては、崇道天皇の霊もよろしくということ。
 どうかな、この仮説。

 ということで、独断と偏見でまとめれば、・・・。
〜京都の民の体質〜
- 1 - 土着感覚  地についた伝統でなければ収まりが悪い。
- 2 - 身分峻別  分相応をわきまえない信仰は落ち着かない。
- 3 - 怨念の地  権謀術数からくる祟りなどたまったものではない。
- 4 - 縁の伝承  親の信仰を粗末には扱う訳にはいくまい。
- 5 - 混沌堅持  商売繁盛は皆で謳歌したいもの。
- 6 - 霊と共存  この地の霊と共に生きていく。
- 7 - 信心第一  信心こそ命。
- 8 - 最古との自負心  古事記の世界を護る。
- 9 - 口外無用  みだりに由緒を語らない。
- 10 - 潤色放置  お話を作りたい人はご勝手に。
- 11 - 皇位係争は厄介  皇位争いの余波は永遠に続く。
- 12 - 鬼門除け不可欠  鬼門には細心の注意を払う。
- 13 - 氏族祭祀重視  古代氏族の祭祀は重視せねば。
- 14 - 焼き物への思い入れ  カワラケ祭祀は捨てられぬ。
- 15 - 一族抹消回避  サンクチュアリは必要だ。

<<< 前回  次回 >>>


 「観光業を考える」の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2010 RandDManagement.com