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2010年9月24日
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【古都散策方法 京都-その47】
京都の仏像拝観 [石造如来頭部]

ムード的仏像拝観は願い下げ。
 “最近の仏像ブームには本当にイヤになる”と感じている方もおられるようだ。理由はいろいろだろうが、“ちょっと小可愛い女子が「仏像が好きなんです〜」とか言ってるのを見ると「表へ出ろ!」と言いたくなる”(1)方もいらっしゃる。わからないでもないが、それならオジサン・オバサンの拝観はイヤにならないのかという天邪鬼な発想も浮かんでくる。Me-too巡礼、美術館展示品観賞的散歩、改造古民家レストランに瀟洒に飾られている民具拝見の旅、なら共感が持てるという訳でもなかろう。どれも、当人は精神的交流と考えて満足しているのだが、緊張感の欠片もないから、ご自分お気に入りの情緒に浸っているにすぎない。それが“イヤ”というならわかる。

 まあ、小生はそうそう批判できるような立場でもないから、行列拝観ご勘弁派である。従って、観光案内書や仏像拝観本の目次や本文の見出しにはできるだけ目を通すようにしている。キャッチフレーズと頁数配分から判断して、混みあう場所を避ける算段をする訳である。

 まあ、そんなことはどうでもよいが、この“イヤ”感覚の方の短い書評を読んで、京都の仏像を考えてみたくなった。
 小生も、仏像拝観なら奈良との感覚をもっていたからである。ただ、京都ならではの見たい仏像があるのも確か。しかしながら、観光案内書や仏像拝観本のお勧めとは相当違う可能性が高いのである。
 小生同様に、和辻哲郎や亀井勝一郎の本、入江泰吉の写真、薬師寺講話で大和の仏像に惹かれるようになったと語る人は少なくないが、これとて心情が同じとは限らないのである。どうしてそれほど違いが生まれるのか不可思議である。小生の宗教観が特段違うとも思えないのだが。・・・そんな気分で仏像拝観のポイントを語ってみたい。

写真でよいから空也上人像を見ること。
 まず、彫刻の見方。ここが重要である。
 奈良は東大寺南大門の、巨大な金剛力士像(2)の意義を確認するところから。この像はどう見ても時代を画するものだからだ。
 と言っても、日本的彫刻の代表作品と呼ぶべきか、深い宗教性を孕んだ作品と見なせるのが、はなはだ疑問である。それ以前と全く毛色が違うからである。どう考えても、宗教復興の巨大なうねりのなかで生まれたもの。

 そして、なぜ、この像を見ると、非日本的に感じるのか考えるとよい。それは、義務教育を通じて西洋の作品を学んできたからに相違ないのである。仁王の筋肉感を眺めると、頭に浮かんでくるのは、ナポレオンが好んだと言われるギリシア彫刻の戦う戦士像(4)だったり、ブルーデルの弓引くヘラクレス像(3)なのだ。これは致し方ない。
 だが、このような教育を受けていなくても、この宗教彫刻表現は、行くところまでいってしまい。ドン詰まりに陥ったのではないかと感じるのではないか。ここを押さえておくことがなによりも重要。

 実は、奈良の作品を持ち出したのには理由がある。これに比類すべき京都の像があるからだ。それは、六波羅蜜寺の空也上人像(5)である。歴史の教科書には必ず掲載されている超有名なもの。忘れることがないのは、6体の阿弥陀仏が口から登場しているから。これに仰天してしまい、他に目がいかないのが欠点。見るべきものはそんなところではなく、全体から発する宗教観だからだ。

 現代的に見ても、このモチーフは理解し易い。・・・胸にはぶる下げた金鼓。右手でそれを叩く撞木をしっかり握り、左手で鹿の角のついた杖を持つ。驚くほど小柄で痩せており、今にも倒れかねないような風情。足を見れば、草履の紐はしっかりと結ばれており、鼻緒は指に食い込んでおり、どこまでも歩き続けるという堅い意志を示している。着物といえば膝が出そうな短い衣のみ。そんな状態で、一心に念仏を唱えているお姿である。巨大で筋肉隆々の仁王像とは対照的な像だが、全く同じ作風に思えないか。
 と言うか、要するに、庶民でもわかるような作品に仕上げているということ。それは、芸術家の登場ということでもあり、信仰対象の像ではあるが、冷徹な芸術家の眼を通した世界が描かれているのである。つまり、作者の自己主張が含まれていることになる。こうなってしまえば、宗教像としては、発展の余地がなくなることになるのでは。

常識的宗教史は頭にいれておこうではないか。
 実際、この時代から後に作られた仏像はステレオタイプ化してしまったように映る。写実的な像が登場してしまうと、本質的に抽象的なものでしかない仏像の表現は極めて難しくならざるを得ないということでは。

 これは、空也上人像登場辺りから、宗教の流れが変わったということでもある。ここを理解すると、俄然、京都の仏像拝観が面白くなるのである。だからこその京都の仏像拝観。

 と言うことで、この転換を簡単に整理しておこう。常識で考えればわかること。
  ・自らお題目や念仏を唱えることを重視する、お経重視宗派の勢力拡大。
     ・・・重要なのは経典。素晴らしき仏像作りを追求する必要はない。
     ・・・仏像対面の礼拝よりは、傍らでのお勤めありき。
     ・・・祖師の教えを学ぶのであるから、象徴としての像があれば十分である。
  ・寺を個人の精神修養道場化する勢力の拡大。
     ・・・仏像礼拝の重要性は薄れた。
     ・・・どちらかといえば人となりを感じさせる高僧像製作に力が入る。
     ・・・釈尊の脇侍は菩薩より、現実に存在した弟子の方がよい。
         付き人の阿難陀(aananda)、教団組織化に邁進した摩訶迦葉(mahakasyapa)
 こうなれば、仏像に対する仏様感覚が一変して当然ではないか。

ガンダーラの作品は見ておきたい。
〜如来頭部の特徴〜
- 部位 -- 特徴 -
装飾 髪を束ねる髪紐以外は一切無い。
頭頂 隆起するような髪の束。
頂髻ではない。
綺麗に波模様を描くように固めた。
螺髪ではない。
顔全体 広々。面長。
つややか。
眉間 ○印をつけている。白毫ではない。
細い三日月。
長くアーモンド形に近い。
ふくらんでいる。
比較的大きい。長くはない。
比較的高く、鼻筋が通っている。
鼻孔 孔が正面から見えない。
締まっていて小振り。口髭。
 こんなことをつらつら考えていると、京都で是非にも見ておきたい像があることに気付く。頭部だけだが、京都国立博物館のガンダーラ2世紀の作品。こればかりは、写真拝見だけではよくわからないから、実物拝見に限る。
    → “石造如来頭部” (C) 京都国立博物館

 現代感覚なら、如来像というよりは、紛れもなきヒトの像。釈迦像には、誕生・子供時代から、苦行/降魔、説法、入滅(涅槃)時まで、様々なものがあるが、どれも写実性を消し去ったもの。それと比較すると新鮮な驚き。それは、この像から深い精神性が感じ取れるからだ。悟りを開くとこのような顔出しになるということでもある。
 仏陀は釈迦族の王子であったそうだが、この美しい顔立ちと、清潔そのものの手入れ状態を見ていると、確かにそんな生活をしてきた方だと実感させられるものがある。

 これこそ、釈迦像の原点と言ってよいのではなかろうか。
 お坊さんが如来像の特徴として解説してくれの頂髻、螺髪、白毫、のもともとの姿がここからわかる。三十二相話の意味もなんとなく想像できるというもの。

 このヒト臭い如来像が、どう変わったのか、常識で考えて見ることをお勧めしたい。それを基底にしないと仏像をいくら眺めたところで、その感興は薄っぺらいものになるのではなかろうか。
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 --- 参照 ---
(1) [評者]青木るえか: “一度は拝したい京都の仏像 [著]山崎隆之” 週間朝日 書評 [2010年8月13日]
   http://book.asahi.com/shinsho/TKY201008090054.html
   同書目次 http://www.amazon.co.jp/reader/4054045901?_encoding=UTF8&ref_=sib_dp_ptu#reader_4054045901
(2) [岡田靖: 東大寺南大門仁王像縮尺 模刻, 2004]
  http://www.tokyogeidai-hozon.com/aboutus/member_obog/okada/okada0.html
(3) [Louvre]エフェソスのアガシアス、ドシテオスの息子(ボルゲーゼの剣闘士)
   http://www.louvre.fr/media/repository/ressources/sources/illustration/atlas/x196image_66799_v2_m56577569830706004.jpg
(4) [箱根彫刻の森美術館]
  http://www.hakone-oam.or.jp/images/sakuhin/open-air/ya013_p01.jpg
(5) [六波羅蜜寺 重文一覧頁]http://www.rokuhara.or.jp/icp/


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