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2010年10月5日
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【古都散策方法 京都-その51】
京都の仏像拝観 [阿弥陀如来≪続≫]

天台宗の阿弥陀信仰とは異なる流れを探してみよう。
 死後の極楽浄土世界を信じて来迎を願ったゆえの阿弥陀仏信仰だが、浄土宗以外の寺院ばかり眺めてきた。それもあたり前の話。貴族中心だった密教を越える新興宗教の一つが浄土宗だった訳なのだから。

 貴族の贅沢三昧と豪勢に作ったお堂と仏像を是認していた訳ではないから、目を引くような逸品があるとは思えないが、浄土宗がどのように広まっていったのか考えながら阿弥陀如来像を眺めるという手もあるかも。
 その観点では以下の2像がよさげ。
  ・嵯峨の清凉寺[浄土宗] (旧 棲霞寺 阿弥陀堂)
  ・宇治の白川地蔵院[浄土宗]
 清凉寺は「嵯峨釈迦堂」と呼ばれ、有名な“三国伝来の釈迦像”がご本尊のお寺だが、浄土宗の寺院。宋の五台山清涼寺を模したそうである。それはともかく、浄土宗であるから、阿弥陀堂もある。そして、霊宝館には、旧棲霞寺阿弥陀堂の木造坐像(1)が安置されている。俗には、「光源氏写し顔」と呼ばれるとか。
 白川地蔵院は、もともとは白川金色院。引き継いだ銅造阿弥陀(三)尊像があるが、勢至菩薩像は喪失している。
 --- 参照 ---
(1) http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000113

浄土宗のお寺のご本尊を拝観するのもよいのでは。
 京都には浄土宗の大本山が揃っており、仏像拝観でなくとも、その雰囲気に触れることも意味があるかも。
 一般に、浄土教信仰に基づく阿弥陀像は前の頁で述べたように来迎印(右手を挙げ、左手を膝に下げる)のようだ。本尊は阿弥陀如来一尊が基本らしいが、清浄華院のようにご本尊は法然上人という場合も。
  ・東山の知恩院[浄土宗]  (第22回でとりあげた.)
  ・黒谷の金戒光明寺[浄土宗]
  ・百萬遍知恩寺[浄土宗]
  ・寺町通の清浄華院[浄土宗]
  ・新京極の誓願寺[浄土宗西山深草派]
  ・東山の禅林寺(永観堂)[浄土宗西山禅林寺派]
  ・長岡京市粟生の光明寺[浄土宗西山派]
 他と一風変わっている像は、永観堂の「みかえり阿弥陀」。(2)そして、繁華街にあるお寺なので、誓願寺の木造座像もよく知られていそうだ。(3)
 尚、金戒光明寺には石仏の五刧思惟阿弥陀如来坐像(4)がある。素人なのでその意味はわからないが、実に珍しい像である。
 もちろん、大本山でなくても、散策のコースに浄土宗系のお寺に立ち寄る手もあろう。お寺の経緯から密教系に多い定印だったり、石仏というものもある。一般公開されていない時もあるが、仏像ファンにはよく知られたお寺だったりすることがある。流石京都だけのことはあり、文化財級の阿弥陀如来像を安置するお寺は、調べればいくらでもでてきそうな感じがする。いくつかご紹介しておこう。
  ・東山鹿ケ谷の法然院(5)
  ・京阪三条の檀王法林寺(6)
  ・東大路仁王門の西方寺(7)・・・秘仏 法然上人に帰依した公家の屋敷
  ・仁和寺街道六軒町の報土寺(8)
  ・千本釈迦堂附近の石像寺・・・釘抜地蔵のお寺 石造三尊像
  ・鶴山町の仏陀寺(9)・・・異例の上品中生の説法印
  ・紫野東蓮台野の西向寺(10)・・・「二葉の弥陀」
  ・大原の古知谷阿弥陀寺(11)・・・「弾誓仏一流本山」
  ・長岡京の乗願寺(12)・・・「大仏(おおぼとけ)」

 江戸や鎌倉の有名な寺院も機会があれば拝観されるとよいと思う。
 徳川将軍家の菩提寺は上野の寛永寺[天台宗]。家康は浄土宗徒だったので、浄土宗のお寺も菩提寺になっている。両者は、鬼門と裏鬼門の位置にあると言われている。
 鎌倉は大仏で知られる。どうして大仏をこの辺りに設置したのかよくわからないが、戦乱で亡くなった武士の菩提を弔うために造られたのかも。雨ざらしだが、それが独特の色調を生み出している。上座部仏教徒に日本の仏像拝観をお勧めする際の一番候補と考えるが、そんな風に見るのは小生くらいか。
  ・芝の増上寺・・・本尊は木造坐像(13)
  ・材木座の光明寺・・・関東総本山
  ・長谷の高徳院清浄泉寺・・・本尊は銅造坐像の鎌倉大仏(1252年)(14)
  ・長谷の長谷寺・・・本尊は長谷観音だが、源頼朝開設の阿弥陀堂がある。
 --- 参照 ---
(2) http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.htm
(3) http://www.fukakusa.or.jp/p_03.html
(4) [blogお寺さんぽVer.03]http://blog.goo.ne.jp/hideru_a/e/3d8b87a8b7015eb057b723c3b849a26f
(5) http://www.honen-in.jp/INDEX.html
(6) http://www.dannoh.com/
(7) http://eonet.jp/travel/data/3026306_1386.htmlhttp://www15.plala.or.jp/miterasaihou/index2.html
(8) http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012896.html
(9) http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012287.html
(10) http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=17
(11) http://www.kyoto-ohara-kankouhosyoukai.net/tour/amida.html
(12) http://everkyoto.web.fc2.com/report751.html
(13) http://www.zojoji.or.jp/treasure/gallery/04_title.gif
(14) http://www.kotoku-in.jp/

阿弥陀仏を拝観していると、自然と宗教史を考えてしまうのでは。
 こうして宗派を意識して阿弥陀如来像を眺めると、素人でも、阿弥陀信仰の流れが自然に見えてくる。信仰形態と信条の変遷がなんとなくわかってくるということ。それが本当に正しい見方かは別として。
 こんなところか。

  【念持仏拝崇時代】
 後述するが、法隆寺献納宝物でわかるが、斑鳩の時代は阿弥陀仏に限らず小さな仏像で十分だったということでは。貴族の「家」内信仰であり、日本では仏教黎明期なのだから。三尊像が基本で、印相に特別な思い入れはなかったように思える。阿弥陀の思想を学び、脇待の精神を自分のものとすべく拝んでいた気がする。
 玉虫の厨子の絵のような精神が息づいていた訳だし。

  【官僧による儀式化時代】
 法隆寺伝法堂の阿弥陀像を注目する人はほとんどいないようだが、時代を画すものだと思う。像の大型化が図られたということで、僧侶が組織的に儀式を行う仕組みが取り入れられたということ。  釈迦・薬師・阿弥陀の3如来の安置が基本だと思われるが、薬師寺が存在するようが、来世を期待する信仰を象徴する阿弥陀寺を作る方向には進まなかったようだ。それよりは、釈迦如来像の現世であり、国家鎮護の盧舎那仏への信仰が重視されたということか。ただ、現実には、疾病大発生で薬師信仰が高まったに違いないし、将来への期待ということで弥勒信仰が付随ていたに違いなかろう。
 僧も仏師も律令機構内に組み込まれていたから、発願の背景で像のバリエーションが生まれるといった状態だったと思われる。

〜 阿弥陀信仰の流れ 〜
- 宗派 - - 高僧 - - ポイント -
天台宗 慈覚大師円仁
(794〜864年)
元三大師良源
(912〜985年)
阿弥陀聖空也
(903〜972年)
恵心僧都源信
(942〜1017年)
“観想念仏行”
【常行三昧堂】
「極楽浄土九品往生義」
 
“踊念仏”
 
「往生要集」
 
融通念仏宗 聖応大師良忍
(1073〜1132年)
“称名念仏”
 
浄土宗 法然上人源空
(1133〜1212年)
「選択集」
“専修念仏”
浄土真宗 親鸞聖人
(1173〜1263年)
蓮如上人
(1415〜1499年)
「教行信証」
 
“本願寺教団”
 
時宗 一遍上人
(1239〜1289年)
“賦算と踊り念仏”
”遊行”
  【念仏行の定着時代】
 平安京になると、仏像造りは寺院側が受け持つようになる。それと同時に、密教が圧倒的な存在感を誇るようになった。そのため、曼荼羅的世界が一気に広がったと思われる。どうしてもココに目が注がれ、異形の仏像や天部等の仏像が主流に思えるが、底流として注目すべきは、常行堂・阿弥陀堂の存在。観想念仏行こそが、以後の強烈な浄土観を生み出した大元だと思うからだ。コレ、平安京初期の頃である。
 この頃の考え方に基づいた仏像は作られた時代にかかわらず、かなり目立つ。印相が来迎印ではなく、禅の瞑想状態実現の定印なのが特徴である。閉じられた空間のなかで、念仏三昧していると、浄土での如来の下で菩薩と共に修行している世界に没入することができる訳である。
 貴族の出家も増えるから、そのお顔や姿も、貴族の日常生活に親和的に変わってくるのは自然な流れ。

  【空前の来迎仏ブーム時代】
 美しく広大な浄土庭園(平等院鳳凰堂)、多数の大型仏像安置(浄瑠璃寺)、来迎感を高めるお姿の仏像(三千院)といった形で残っている。来迎印が阿弥陀仏の印相の基本となった訳である。
 品位と伝統的な仏像スタイルを重んじながら、信仰に合うように仏像が作られたことがよくわかる。いかにも皇室と公家の世界。
 これは、「極楽浄土九品往生義」の結果とも言えよう。
 ただ、その信仰は貴族だけに留まらなかった。おそらく、大量に阿弥陀仏が造られたに違いない。しかし、それは鳳凰堂の像を基本とするステレオタイプ化したものにならざるを得かったろう。
 ただ、密教寺院がその方向に進んだ訳ではなかろう。おそらく、行をさらに高度化したに違いなく、仏像は宝冠をつける大日如来的な方向に変化しておかしくない。

  【快慶仏人気時代】
 末法の世ということで、阿弥陀聖が一般大衆にまで信仰を広げることになった。世間は、来迎信仰一色に染まってしまった可能性さえあろう。
 こうなると、伝統や気品ではなく、運慶型の一目で思想が伝わる仏像が主流になっておかしくない。
 1190年から1210年に大活躍した仏師快慶は阿弥陀像を数多く作っている。「安阿弥様」と銘記しているそうだから、阿弥陀信仰布教の宗教家としての自意識がかなり強かったことがわかる。特に三尺仏が多く残っているそうだが、日本の建築物からすると、この大きさが一番合うということだろう。
 そして、1252年鎌倉大仏が造られる。その少し前の1232年には法隆寺金銅に阿弥陀如来坐像が安置されたのである。

  【浄土真宗拡大時代】
 民衆を基盤とする本願寺宗教勢力が大発展をとげ、支配層と対立できるだけの力を持つようになった。しかも、占/吉凶の類(道教)、位牌(儒教)、神棚(神道)、護摩(密教)、お題目「南無妙法蓮華経」(法華経宗派)の否定姿勢が明確で、多神教的信仰や“習合”発想はタブー。神との契約観念が色濃いキリスト教やイスラム教の“御心のままに”スタイルに近いといえよう。
 このことは、仏像の見方も一変することになる。“仏身を観念”するような行為は容認できないからだ。蓮如上人の“当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。 ”という言葉通り。
 尚、浄土宗のお寺では坐像が基本だが、名号本尊の浄土真宗では立像にするようだ。

 こうして見て来ると、浄土真宗の登場で一区切りということがよくわかる。死後の世界を目指す念仏ではなく、現在生きていることへの感謝へと変えたのは明らかだからだ。死後の世界のための信仰生活に全精力を投入する時代は終わったということ。
 時あたかも、禅宗勃興。こちらも、死後の世界を論ずることなどしない。空論よりは座禅を通じた瞑想となる。浄土真宗の他力本願とは逆だが、現世をどう生きるかという命題に応えようという姿勢は同じ。
 小生は、この流れ、その昔から連綿と続いてきた、ヒトが作ったモノに神がこもるといった感覚の復活と見た。生きることの意義は、そのような日常行為にあることを、信仰を通じて日々認識すべしという宗教観が生まれたのだと思う。
 従って、ステレオタイプの仏像であろうと、そこに心が宿っていれば、素晴らしい尊像と見なすことになる。
 と言う事で、素人の宗教史はここら辺りで収めておこうか。

実は、小生の好みは、国博法隆寺宝物館の阿弥陀如来像。
 宗教話をしていながら、不謹慎ではあるが、阿弥陀如来像拝観は実に楽しいというのが正直なところ。
 その観点で、小生が絶品と思う像は、実は、京都にはなく、奈良にもない。それは、東京に安置されているのだ。国立博物館法隆寺宝物館の法隆寺献納宝物(15)金銅造四十八体仏。特に解説不要と思うが、廃仏毀釈の際に皇室に献上した秘蔵仏群である。橘寺等で所蔵されていたからだろうが、聖徳太子が阿弥陀四十八願にちなんで作ったとか言う人もいる。特段の証拠もない訳で、仏教を広めた聖徳太子への信仰からくる潤色臭い。

 ところで、日本のことだから、法隆寺以外にも同様な仏像が秘匿されている可能性は高かろうが、それはそのままにしておいて欲しいもの。大騒ぎにでもなれば、この四十八体仏までとばっちりで大騒ぎになること必定。それこそ玉虫の厨子に入れておくような小さな仏像ばかりだから、静かにじっくり眺めることができないと、拝観どころではなくなってしまいかねない。

 前置きが長くなったが、この小さな仏像群のなかに、阿弥陀如来像がある。
  ・阿弥陀三尊像(143号)・・・善光寺式(19)類似 三尊とも立像
  ・「山田殿像」の阿弥陀三尊像(144号)・・・円覚寺像(20)に類似 椅像
     脇待は曲茎の蓮華上の立像なのが時代を感じさせる。
 前者はお話としても楽しめる次第。後者は原点がわかって、親しみが湧いてくる。
 もちろんこれだけ数が多いのは、様々な仏様があるということ。釈迦(16)、薬師、阿弥陀、弥勒(17)だけでなく、摩耶夫人(18)まで。なかには、由緒書きもあったりする。まあ、それはそれ、気にせず、眺めるだけで十分楽しめる。

 まあ、以上、ご参考までということで。
 --- 参照 ---
(15) http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=00&mansion_id=M4
(16) http://www.tnm.go.jp/gallery/search/images/500/C0044537.jpg
(17) http://www.tnm.go.jp/gallery/search/images/500/C0044629.jpg
(18) http://www.tnm.go.jp/gallery/search/images/500/C0044848.jpg
(19) 信州の善光寺ご本尊[絶対秘仏]には有名な伝承がある。その模造とされるのが善光寺式。
  ・・・百済からの仏教伝来時に渡来した仏像が、廃仏派の物部氏により、難波の堀江へ廃棄された。
       ところが、信濃国司の従者がそれを引き上げて郷里に持ち帰ったという。
(20) http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fc/ENKAKUJI_AMIDA_Trinity.JPG

付記
 法隆寺献納宝物金銅造の仏像をとりあげたから、斑鳩と奈良にある阿弥陀像もわかるものをあげておくこととしたい。

 先ず、斑鳩の【法隆寺】だが、橘夫人念持仏が有名だが所蔵品はそれ以外にもある。(21)
  ・大宝蔵院 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)
  ・伝法堂(西、中、東) 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像 3組(22)
  ・金堂 銅造阿弥陀如来及び脇侍像 2体
  ・北室院本堂 木造阿弥陀如来及両脇侍像
 次に奈良の【東大寺】。
  ・四月堂・・・木造[玉眼]坐像
  ・俊乗堂・・・快慶作立像 「釘打の阿弥陀」(23)
  ・勧進所阿弥陀堂・・・秘仏[木造五刧思惟阿弥陀如来]
  ・勧学院・・・木造坐像
 そして、【興福寺】
  ・国宝館・・・木造坐像
 奈良・中院町の【元興寺極楽坊】の本堂は“百日念仏講衆の往生極楽院として極楽堂、智光法師感得の浄土曼荼羅が祀られたので曼荼羅堂とも呼ばれ---南都における浄土教発祥の聖地”(24)とされているらしい。阿弥陀堂なのだろうが、阿弥陀如来(25)は収蔵庫保管らしい。
 そうそう忘れていたが、【ボストン美術館所蔵】の立像(26)もある。修復方針が日本とは違うせいか、古代感が薄れている。
 平安京の浄土観への移行期ということでは【西大寺】にかつて存在した五重塔に安置されていた木心乾漆造如来像[釈迦、阿弥陀、阿、宝生の塔本四仏坐像](27)もわかり易い。釈迦像と似ており、説法的な雰囲気があるが、お顔の印象がかなり違っているのが印象的。
 --- 参照 ---
(21) http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ef/Amida_Triad_LadyTatibana_Horyuji.JPG/746px-
  Amida_Triad_LadyTatibana_Horyuji.JPG
(22) http://sankei.jp.msn.com/photos/life/trend/100208/trd1002082004005-p1.htm
(23) http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_105902
(24) http://www.gangoji.or.jp/tera/link/link.html
(25) http://blog.goo.ne.jp/gfi407/e/3c34c4cdf1daf646526eb4d1c3012881
(26) [12.129] http://72.5.117.144/fif=fpx/sc1/SC168759.fpx&obj=iip,1.0&wid=400&cvt=jpeg
(27) 2010年9月 三井記念美術館で公開した。

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