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2010年10月13日
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【古都散策方法 京都-その52】
京都の仏像拝観 [密教仏]

三十三間堂と東寺は別格である。
 阿弥陀如来像は京都でこそ拝観の価値ありというのが小生の感覚。信仰心はどうあれ、来迎信仰とその後に一斉に発生した宗教改革の嵐を感じるだけでも、十分な価値がある、
 ただ、それだけでは今一歩。そう思うので、仏教伝来から、浄土真宗勃興までの素人的な宗教史の話をしてしまったのである。

 そういえばおわかりだと思うが、密教を考える上では、京都は欠かせないのである。
 と言っても、1,001体仏の三十三間堂と立体曼荼羅の東寺という定番は拝観された方も多いから、もう結構となりかねないか。(前者は、観光が主目的なら場所的にも国立博物館歩きと繋がるので便利だし、後者は京都駅から至便で五重の搭があるから境内に入れば平安京のお寺気分に浸れる。)
 ただ、問題は、どちらのお寺も仏像の数が半端でないこと。どの像に注目するかは思想、信仰、嗜好で変わるから、これは見ておくべしという仏像を指定するのは厄介千万なのである。
 ちなみに、小生の見所は前者では、風神雷神もよいが、なんといっても経典を握って差し出す婆藪仙人。どのような経歴の聖人かは全く知らないが、その目つきと、足の姿で、一喝された気になってしまう。東大寺仁王像をみていると、ついギリシア彫像やロダン、ブールデルの作品を思い浮かべてしまうが、この像ではそんな気持ちになならない。日本の宗教改革につながったリアリズム感が伝わってくる。
 それと、右足先をあげて笛を吹く、翼を持った迦楼羅王も嬉しい作品である。名前からして、インドネシアで御馴染みのガルーダなのだろう。こう言ってはなんだが、ほっとさせる像である。
 次に、後者だが、鵞鳥(梵天)、象(帝釈天)と毘沙門天の背景付きの冠と形相が見所。巨大な千手観音には驚きはないが、こちらには。古寺巡りの日本流の情緒的な“しっとり”感を一気に吹き飛ばす力がある。

曼荼羅にはこだわらない方がよいと思う。
 このような拝観でも、じっくり見ることができるなら、三十三間堂や東寺は素晴らしい。しかし、密教感覚に触れたいという主旨なら、この見方はお勧めできない。今回は、そんな話を、一寸書いておこうと思う。
 間違えてはこまるが、密教に触れたいなら、山中深い比叡山や高野山ということではない。密教仏拝観の場合は、違う考え方をした方がよいというだけ。と言っても、素人発想ではあるからそのおつもりで。

 おことわりしておくが、小生は仏教を学んだことがない。信仰上という訳ではない。解説書は山のようにあり、いかにも軽薄な本だらけという印象があり、目を通す気がおきないだけのこと。まともな本を峻別する力が無い以上、仏教本は敬遠せざるを得ないのだ。
 読み通した本といえば正法眼蔵。高校の学園祭のイベントのため。(普通の都立高校である。)もっとも、まったくわからなかったが。・・・その程度の知識で、密教を勝手に解釈しようというのだからまあ大それたことといえばその通りなのだが、その方が冷静に眺めることができるからかえってよいかも知れないと考えたりする。

〜薬師如来ご本尊のお寺〜 >>>
- 宗派 -- お寺 -
真言東山 泉涌寺塔頭 雲龍院
伏見 醍醐寺
高雄 神護寺
天台比叡山 延暦寺
大原野 花の寺 勝持寺
浄土新京極 蛸薬師堂 永福寺
 そんな素人の目から見れば、密教の最大の特徴は曼荼羅ではなく「加持祈祷」と「護摩」。(「潅頂」が最重要儀式と思われるが、どのようなものか知るすべがない。)その行にあわせて仏像が安置されているように思える。なにせ、大日経の宗派とされていても、ご本尊は薬師如来だったりする訳だから。
 ここが肝心。
 要するに、小生の結論は、空海が打ち出した“立体曼荼羅”の考え方は曼荼羅の図とは違うということ。
   → 「剛界八十一尊曼荼羅」 (C) 根津美術館 ・・・本物拝観がお勧め。

 この辺りは説明しにくいが、曼荼羅が宇宙観を現しているなら、平面図の方が適していると思う。と言うか、広大な世界を連想させたいなら、東寺の仏像群配置はどう考えても合わないのである。“立体”というが、仏像は拝観者側から一方的に眺める仕掛け。これで広大な 宇宙的感覚を生み出すのは無理があろう。このことは、大日経をそのまま示すことに注力している“平面”曼荼羅とは違う考え方が貫かれていることになる。・・・空海型新解釈。(ボロブドゥール遺跡を訪問したことがあるが、階段型の搭に仏像を配置しており、百聞は一見にしかずで、これは平面図を発展させた“立体曼荼羅”そのものと言える。)
 想像するに、立体というより、できる限り簡素化したということ。そして、自分のレベルに合う仏様への信仰を深めることを推奨したのではなかろうか。それが、宇宙そのものでもある大日如来との一体化に繋がる早道という考え方。
 如来、菩薩、明王、・・・という階層が重要なのではなく、修行者に一番適した仏像を簡単に選ぶことを重視したのでは。

 そう考えると、このコンセプトは秀逸。仏に帰依し、供物を奉げ、慈悲を頂戴するという従来型仏教からから脱するための仕掛けが構築されたとも言えるからだ。護摩に代表される行を通じ、積極的に、自分に最適な仏と一体化することで、願いをかなえるとの信仰へと脱皮を図ったということ。“平面”曼荼羅図は潅頂儀には必須なのだろうが、信仰対象の仏像のいわば背景として扱われ、宇宙全体でどのような位置にあるか確認できれば十分とされたのではなかろうか。

真言密教に擦れたいなら、五大像拝観をお勧めしたい。
 素人の勝手な解釈だが、空海が生み出した日本型の曼荼羅思想をそう考えると実にわかり易い。
 五万とあるお経を平面曼荼羅図を通して宇宙全体のなかに位置付け、どれを信仰しようと、それは宇宙の一部だから、大日如来の発現でもあると見なすのだろう。一部であろうが、そこから深い信仰に繋げることができれれば宇宙に迫れるとなるのでは。構造化された宗教思想と言えそう。
 そんな感覚を味わおうと思ったら、京都が一番。
 拝観させていただくのは、五大明王。
  ・教王護国寺(東寺) 講堂
  ・大覚寺[真言宗大覚寺派] 本堂(五大堂)
  ・醍醐寺[真言宗醍醐派]    → 「五大力さん」 (C) 醍醐寺
    【五大明王】不動,降三世,軍荼利,大威徳明王,金剛夜叉

 弘法大師の“立体”曼荼羅を仏像から感じとりたかったら、こうした“五仏”がお勧め。これぞ空海の思想という感じがするからだ。中心仏の東西南北に一仏が配置されるだけの話だが、信仰が構造化されていることがよくわかる。

 言うまでもないが、不動明王だけが五大とされている訳ではないから、五大虚空蔵菩薩拝観でもよいのである。
 こういっては失礼千万だが、憤怒の形相がいかにも大衆的な感じを与える明王像とは違って、虚空蔵菩薩像は一般に知的で穏やか。インテリ層でもあった貴族には、本当は五大虚空蔵菩薩信仰をお勧めしたかったのではと思えてくる。外見から見れば、当時の貴族はそんな体質に見えるが、現実には悩みだらけで、明王の方に願をかけたくなったということではないか。そんな姿を垣間見せてくれたのが、清少納言である。覚えている人も結構いるのではないか・・・。
  “驗者の物怪調ずとて、いみじうしたりがほに、
   獨鈷や珠數などもたせて、せみ聲にしぼり出し讀み居たれど、
   いささか退氣もなく、護法もつかねば、集めて念じゐたるに、男も女も怪しと思ふに、
   時のかはるまで讀みこうじて、「更につかず、たちね」とて珠數とりかへして、
   あれと「驗なしや」とうちいひて、額より上ざまに頭さぐりあげて、
   あくびを己うちして、よりふしぬる。”
      [枕草子22段 すさまじきもの]
  http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html

 それはともかく、五大虚空蔵菩薩だが、それぞれ、解脱、福徳、能満、施願、無垢を意味するという。金剛界の五智如来が虚空蔵菩薩として現れた像とされるそうだ。
  ・神護寺 多宝搭
  ・教王護国寺(東寺) 観智院・・・山科 安祥寺所蔵の仏像だったようである。
    【五大虚空蔵菩薩】法界,金剛,宝光,蓮華,業用

 小生はどちらの仏像も写真でしか見たことがないが、神護寺の像は宝冠や胸飾りの装着加減が自然で、柔和な表情とあいまってじっくりと信仰する人々のためのものという印象。  まあ、いかにも神護寺らしい像ではないか。と言うのは、“神護寺の薬師如来が密教普及の牽引車”と見ているからである。(第10回でとりあげたが、薬師寺の仏像は金属であり、こちらは一本ものの木彫。日本的な“霊的なもの”を感じさせる訳である。) なにせ、このお寺で曼荼羅を用いて潅頂が行なった際の空海自筆の書面が残っており、イの一番は最澄なのである。そして、空海の考え方を一番よく示す五大虚空蔵菩薩がこの お寺に残っていた訳である。しかし、“五大”は重視されることはなかった。

 そうそう、一番肝心な“五大”も触れておく必要がある。虚空蔵菩薩信仰は高貴な感じがするが、さらなる上がある。五大菩薩である。これはもちろん、東寺所蔵。高野山のお寺にはありそうだが、、余り見かけない感じがする。
    【五大菩薩】金剛波羅蜜,金剛薩,金剛宝,金剛法,金剛業

 そして、経典の最高峰の世界に繋がっていく、金剛界の五智如来である。こうなると、もう高僧しか理解できないレベルだろう。観光客もまばらな静かな博物館でじっくりと仏像と向かい合うのがよいのではないか。
  ・京都国立博物館・・・山科 安祥寺所蔵品。
  ・教王護国寺(東寺)
    【五智如来】大日,阿,宝生.阿弥陀,不空成就

 小生は、“五大”を調べていて、安祥寺の存在を初めて知った。つくづく、京都は奥が深いと思う。
 拝観するなら、京都国立博物館をお勧めしたい。拝見できるかわからないが、そこには原典もあるからだ。ご存知のように、“立体”曼荼羅は弘法大師入滅後に完成したが、その設計は空海直伝の機密事項だったのは間違いない。
   → 「五智如来図像(紙背仮名消息)」 (C) 京都国立博物館

 空海が力を入れたに相違ない五智如来、五大菩薩、五大虚空蔵菩薩、五大明王だが実際にはあまりうけいれられなかったようである。結局のところ、東寺の“立体”曼荼羅とは、「五智如来=(イコール)五大菩薩(金剛界)=五大明王」のコンセプトでしかないと見なされたのでは。そして、この“5x3”ご本尊の周囲に四天王と2天像(梵天、帝釈天)が加わっているだけに映ったということだろう。
 当時の人々はこの“5x3”構造の理屈を頭ではわかっても、現実には支持しなかった訳である。その辺りがどうなっているか続いて検討してみよう。

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