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【古都散策方法 京都-その53】 京都の仏像拝観 [不動明王]
〜 五智如来像の意味をおさえておこう。 〜
前回の話の再確認をしておきたい。
東寺の“立体”曼荼羅とは、「五智如来=(イコール)五大菩薩(金剛界)=五大明王」とのコンセプト。この“5x3”ご本尊群の周囲に四天王と2天像(梵天、帝釈天)が加わっている。この考え方は、それ以前の中尊と脇待からなる三尊のコンセプトの発展形ではない。ここを理解しておく必要があると思う。
比較のために、従来型三尊像がどうなっているか見ておこう。
【釈迦如来】━【文殊菩薩[騎獅]/普賢菩薩[乗象]】━【十大弟子+十六善神】
実在の修行者であり、弟子が周囲を取り囲むのは自然な状況。実在の人物を抽象的な如来にするのだから、その観念的な表現として三尊となるものわかる。教典に合うように尊像がつくられたのだろう。
薬師如来になれば、これは完璧な思考の世界である。
【薬師如来】━【月光菩薩/日光菩薩】━【十二神将】
この三尊像に学問的な雰囲気が生まれるのは当然の話である。月と日、十二支という世界観が取り囲んでいるのだから。たまたま、甲冑を着けた武神の群像にはなっているが、これと12の大願を結びつけているようがいまいが、経典を抽象化したものであることは、説明がなくてもわかる。
しかし、阿弥陀如来となると、同じ経典直結といっても、雰囲気は変わる。死後の世界を思い浮かべる思想と繋がっているからだ。
【阿弥陀如来】━【観音菩薩/勢至菩薩】━【二十五菩薩】
極楽浄土で修行中の菩薩を従えて、霊魂をお迎えに来て頂くための信仰である。すでにとりあげたように、この流れをつくりだしたのが京都貴族である。無常というよりは、はかなさの美学意識が根底にありそうだ。しかし、その美学でととまらなかったが故に、密教的な枠組みを突き破ってしまったのが、浄土信仰なのだと思う。
ここらはわかり易い。ところが、五智如来となると、このような解説はとたんにできなくなる。極めて思弁的な宗教であることがわかる。しかし、構造的に整理された体系がありそうということだけはわかる。ここが重要である。つまり、“一応”理屈は受け入れたのである。しかし、あまりに理念的。従って、具体的な信仰としては、現世的なご利益がありそうな仏様に一斉になびいたということではないか。
小生は、画期的だったのが五大明王だと思う。五智如来と本質は同じとされれば、僧でなければ、こちらに関心が向かうのは当然だろう。飛鳥や平城京時代の仏像とは似ても似つかぬお姿だからだ。これが、人々の琴線に触れ、不動明王独尊信仰が生まれたのだと思う。それが風靡したのは、護摩と一体化したことも大きい。異次元を感じさせる、音と光を含めた行は人々を感服させたに違いないのである。今回はココをとりあげておこう。
しかし、この方向で進めば、僧は修法研鑽第一となってしまい、広い視野で学ぶことから離れがち。同じ密教でありながら、伝教大師最澄のように、門下から宗教改革者を生みだすことは難しくなるのは致し方あるまい。
〜 不動明王に人気があるのは、弘法大師信仰が続いているからだろう。 〜
ここまでが前置き。
これを踏まえて、身近にある現代の密教寺院に思い巡らすと思考が深まる。まずわかるのは、広く、深く弘法大師信仰が根付いていること。菩提寺の宗派とは無関係に、多くの人々が弘法大師関連のお寺参りをかかさないのは間違いない。そして、その特徴は、ご本尊が不動明王であること。言うまでもないが加持祈祷・護摩行のお寺でもある。
〜東京近辺の有名な不動尊〜 |
- 下町 - |
深川不動堂
薬研堀不動院
西新井大師 |
- 目黒から - |
目黒不動[瀧泉寺]
(目青/目赤/目白/目黄)
等々力不動 |
- 神奈川・ 多摩 - |
大山不動
大雄山清瀧[最乗寺]
日野高幡不動[金剛寺]
野毛山不動尊 |
- 地域拠点 - |
川崎大師[平間寺]
成田山[新勝寺]
高尾山[薬王院]
川越大師[喜多院] |
東京を見ても、初詣で超大混雑のお寺だらけである。 元旦は地元の神社だけという訳にはいかない人が多数派なのが現実。不動尊に対する大衆信仰はすさまじいものがあると見てよかろう。
小生は、これは不動明王像と加持祈祷の雰囲気が密接にかかわっていると見ている。高尾山ハイキングで、馴染みがあるせいもあり、人々の信仰感覚がなんとなくわかるような気がするのだ。
加持祈祷という点では、不動明王の憤怒の形相と火焔光背には、抜群の親和性がある。願が書かれた木が燃され、僧侶の口からは、呪術的な真言が流れ出す。生死の境をさまよったことがありそうな修験者が一心不乱に念ずる姿が重なる訳で、これぞ密教と感服するのだと思う。
[尚、成田山の不動尊は平将門の乱平定のために安置されたもの。これ以後、関東一円に不動尊が広がったという話は昔からある。]
“立体”曼荼羅同様に、不動尊信仰も日本独自のものではないかと感じさせられる一瞬である。これこそ、弘法大師の賜物といえそう。はっきり言えば、仏教にそれほど関心をもたない層にも、行の体験をさせて、宇宙観というか日常世界をつきぬけた世界の存在を感じさせることに長けていたということ。さらに、護摩の場の雰囲気を作り上げるための配慮にはただならなぬ思い入れがありそうである。見方によっては、日本の仏教芸術の曙光と言えるのかも。
と考えると、不動尊信仰とは、弘法大師信仰と表裏一体ということができるのかも。
東寺(教王護国寺)の五大明王像を拝観してしまうと、かなり手がこんだ作りのようなので、他の像は簡単そうに見えたりするが、それほどじっくりと拝観はできないから、実際はそれほどの違いはないのかも知れぬ。 不動明王の威圧感というか、その迫力を肌で感じて見たかったら、多分、東福寺塔頭の同聚院の坐像(木造彩色)がお勧めだろう。大きさが半端ではないから。
[京都との違い] 関東一円は「 お不動さん」信仰。「五大力さん」といった明王信仰は耳にしない。
〜 清水寺を眺めると日本の宗教普及の鍵がわかる気がする。 〜
実は、これは頭で考えただけ。不動信仰が広がった理由の一端を知ったのは、実は音羽山清水寺でのこと。
おそらく関東から東北平定後の鎮魂の役割を担っているのだと思うが、ここに不動明王も安置されているのである。
それを知ったのはたまたま。音羽の滝の前での観光案内を耳にしてしまったから。滝には、水垢離のために不動堂があるが、そこに安置されているのはもちろん不動明王。ところが、これがもともとは観音像だったという説があるとの解説。これには正直驚いた。そんな話が本当にあるのかは当てにはならないが、さもありなん感が湧いた。
このお寺、敦煌と同じような崖に建造されているし、(北)法相宗であり、いかにも古刹。しかし、時代の流れに合わせ、信仰を集めてきたのは間違いないからだ。当然ながら、弘法大師の不動信仰が入らない訳がない。
しかし、ここはまごうかたなき観音信仰のお寺である。不動尊を前面に出す訳にはいくまい。そんな歴史を思わず考えさせられる一瞬だった。
・奥の院[ミニ本堂の趣]: 弘法大師像
・宝蔵殿の不動尊: http://www.kiyomizudera.or.jp/jihou-18.html
・本堂北側の地主神社: “宵不動”
〜 不動明王像には、何層にも重なる信仰が凝縮されているのでは。 〜
このお蔭で、小生は不動明王の意味が氷解。どう考えたか、書き留めておこうか。
ご存知のように、不動明王は出自がよくわからないとされる。如来や菩薩のように“静粛”な姿ではないから、人生を謳歌し肯定することに主題がありそうな宗教から来たと思われ、それならインド発となるが、該当する明王が存在しないから、当然の話。。そのため、とりあえずシバ神とされる。その一方で、五大明王像のなかには、シバ神を踏みつけている姿があったりするから、火焔があるからゾロアスター教の尊像と見なされたりしている。
まあ、観音像を不動尊にすることがありえる社会であり、習合はどうにでもなる。と考えれば、素人的には不動明王の大元は想像がつく。・・・童子である。
そう、よく「眷属」との、何を意味するのか解説になっていない説明がつく像が、不動明王だと八(二)大童子になっているからだ。子供が、宗旨を理解できる訳がなく、精神的には無垢かも知れないが、意図せず悪辣なことをしかねない。まあ王朝生活なら“小間使い”役しかできないのが童である。どうして、そんな子供が脇を固める必要があるのか理解に苦しむ。
だが、不動明王の出自が童子だったとすれば、なんの不思議もない。脇待とは、かつての童子集団の再現ということ。
【八大童子】 矜羯羅童子,制多迦童子,慧光童子,慧喜童子,阿耨達童子,指徳童子,烏倶婆伽童子,清浄比丘 尚、二童子には特段の意味はなさそうだから、三尊像の伝統を当てはめただけだろう。
だいたい、火焔のなかに存在する不動尊が、滝での水行に登場するのである。信仰者以外は、これに違和感を感じるべきもの。しかし、そんな人はいないようだ。いかに、習合感覚が根強いかわかろうというもの。
童子が、憤怒の形相に大変身することに違和感が生まれることもなかろう。実は、そうした習合感を、実感できる像もある。倶梨伽羅不動は蛇が絡んでいるのである。誰が考えても水神像である。
それに気付くと、不動尊像が日本の古代信仰を引き継ぐものであることが見えてくる。手に持つのは古くからの象徴、剣と縄(羂索)。なかでも特徴的なのは岩座である点。これはまごうかたなき山岳神。
ここで、今回の冒頭の話に戻って、不動明王の位置付けを再確認しておこう。胎蔵界曼荼羅(12区画[院]に400余りの仏様が描かれている。)に持明院があり、その中尊敬は般若菩薩で、不動明王はその一尊にすぎない。しかし、」弘法大師は、五大如来−五大菩薩−五大明王という構造を示し、静粛を旨とする如来・菩薩から、“動”の護摩行へと中心を移したのである。聖徳太子が戦闘勝利祈願で“四天王”を持ち出したのと同様に、“五大明王”の護摩行を。反対勢力降伏と無病息災祈願の要にさせたということだろう。現世利益の最大化を図るには、先ずは明王との位置付けでは。
ただ、“五大明王”の不動尊以外は人間とは思えない異様な姿だし、台座には知らない神や動物であり、日本古来の感覚と習合できる明王が必要だったのではなかろうか。
・・・という勝手な説を開陳してしまったが、まあ内容はどうでもよい話。要は、憤怒の形相なのに、習合の御蔭で、増益のためのご祈祷が可能で、人々に心地よい信仰対象になることができたということ。
これを考えながら、不動尊像拝観という話をしてみたい。
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