|
【古都散策方法 京都-その56】 京都の仏像拝観 [如意輪観音]
〜 如意輪観音には高貴な雰囲気を感じる。 〜
親鸞が籠った六角堂の本尊は御丈5.5cmの秘仏。如意輪観音とされるという話で前回は終わった。そこで、今回は如意輪観音をとりあげておこう。
ところで、この前立本尊は六臂坐像。
多分、この姿のお蔭で、観音像としては余り人気が沸かないのでは。もともと、異型よりは二臂像の方が安心する人が多いようだし、どうせ異型なら、6本のような中途半端な数より、現実にありえない1,000本や42本像の方に親しみが湧くのではないか。随分と尊をしているように思う。
そんなことをわざわざ書きたくなるのは、実は、小生は、六臂坐像の如意輪観音像に“信仰の”高貴さを感じるからでもある。(このことは、大衆的でないとも言えるが。)
それはひとえに冠の存在。化仏という観音菩薩の基本形を守ってはいるが、、いかにも王冠らしきデザインの被り物を装着している像が多いのだ。そのコンセプトは秀逸。もの心ついた王族として、仏心でことに当たろうとの精神的象徴そのもの。
しかも、ポーズには唸らせられる。
片膝を立て座っているのだが、右手は、弥勒菩薩半跏像で有名な“思惟”の形。その反対側の手で台座を押さえている。どう見ても、浄土でじっくりと地に腰を据え、これからどのように人々を救うべきか思案中といった風情だ。これこそが仏教の修業そのものだぜと主張しているとは言えまいか。
東京の護国寺(皇族菩提寺)の六臂坐像は、写真だけで実物を拝観したことはないが、そんな観点で眺めると、国家鎮護の意気込みを感じさせられる。
飛鳥の聖徳太子建立の橘寺にも安置されており、平安京の貴族の意気を感じさせるものがある。
おそらく、如意輪観音とは“国家鎮護”の仏像だろう。実際、ご存知、東大寺の大仏の脇待は巨大な如意輪観音像。国家鎮護にはどうしても欲しかった像であるのは間違いない訳だから、こうした見方をしてもよさそうである。
〜 なんと言っても定番の片膝を立てた六臂像が一番。 〜
ただ、東大寺の大仏脇待像には余り感興は湧かない。それは1738年頃の再建像だとか、
もともとの大きさより小振りになったとかいった話ではない。
素人からすると、その意気込みが像からは伝わってこないからだ。片膝も立てていないので、思惟・思案中にも見えないのである。手は2本なので持ち物も無い。そのため、大仏を小型化した像という印象しか与えない。まあ、僧侶なら、大仏(盧舎那仏)は光背から多数の仏を発散させている訳で、脇待の姿としてはその程度で十分と言えないことはないが、素人向きではない。
観音菩薩を在家信者向けの像としても考えるなら、やはり、定番の六臂でなければと思う。
それに、ヒト型の2本の手(二臂)や、立っているとか、片膝を立てない座り方には違和感を覚える。下手をすれば、弥勒菩薩的に見えてしまうからでもある。(岡寺、中宮寺、大原野の宝菩提院)・・・亀井勝一郎は、確か、中宮寺の伝如意輪観音を、そう考えたいと書いていた。その時の気分や情緒で物事を決める人に映る。こうしたタイプの人の話には注意してかかる必要があろう。ちょっと脱線したが。
(古い時代の如意輪観音は二臂というが、那智の青岸渡寺の前立像は六臂坐像。説明が腑に落ちぬ。)
ポーズと言っても、六臂のうちの二つの手だけで、この像の素晴らしさを語ってしまったのでは手落ちか。他の4つの手の持物も重要である。まさにエッセンスそのもの。
・桃の様な形の如意宝珠 ・数珠
・輪宝
・蕾の蓮華
これらの持物に関しては、色々と解説があるようだが、読まなくてもやかるだろう。なんといっても、美しいのは蓮の花がたいていは蕾状態である点。何を象徴しているのかh言わずもがな。
大衆信仰を集める観音像は、たいていは立像だし、どういう訳か、水瓶や錫杖を持っていたりする。素人考えだが、これは、国家鎮護の仏が手にするものではあるまい。
過去の過ちを振り返り、現世への悪影響を断ち切るという発想での薬師信仰で、薬瓶というのはわからぬこともない。しかし、水で穢れを流すという発想は古代からの禊のような感じを受けてしまう。まさか、花瓶でもないだろうし。
錫杖にしても、あくまでも歩き回る際の道具。それなら、地蔵が似合う。大所高所の信仰に登場する仏像の持物とは思えまい。
〜 宝珠と蓮華という二大持物あってこその如意輪観音菩薩。 〜
こうして菩薩の持物を眺めると、高貴さを感じる由縁は、この辺りにもあることがわかる。一つは上で述べたように、蓮華の表現。
来迎の観音菩薩だと、蓮華を両手に抱えている。霊を載せて浄土へと運ぶための容器ということになる。如意輪観音とは全く違う訳である。
もう一つが、宝珠。これが秀逸。如意宝珠と名前がつけられているようだし、様々な解説もあるようだが、素人的に言えば後付では。どう見たところで、その形は五重塔の珠部分である。要するに、釈迦の遺骨“仏舎利”用の容器。
それは、極めて象徴的なものである。と言うのは、東京国立博物館の法隆寺献納宝物(多分、大化改新の頃)に宝珠を両手で抱えた観音菩薩像が多数あるからだ。在家信者としては、仏舎利イメージなくしては、釈迦の下に繋がる氏族という気にならなかったと考えられるからだ。
律令体制はまだまだ先だし、国家全体として仏教統治に踏み切った訳でもない頃、仏教を尊重して国を統治していく気概を持っていた貴族にとって、宝珠あってこその仏像だっに違いなかろう。
もっとも、名称の如意輪は、明らかに輪宝ではある。しかし、インドならともかく、日本では輪が仏法と言われても、その象徴性を肌で感じることは無理な話とはいえまいか。
〜 壇林皇后像のイメージをダブらせた像には今一歩感慨が湧かない。 〜
そんな観点で日本三如意輪像の写真を眺めると、かなり違った感慨が生まれるかも。
・神咒寺(西宮市)
・室生寺 金堂
・観心寺(大阪河内長野市) 金堂
少しご説明しておこう。
まず、立膝型でない像があるが、これは、造形的に面白いものではない。別に基本型に忠実であれと考えている訳ではない。足の組み方が違うと、顔も向きが変わってしまうのである。多少うつむき加減で思案の表情が素晴らしいと思うのだが、そうならないのである。
そして、なんといっても、気になるのが冠や装飾品のデザイン。簡素なのはどうも今一歩である。山高のトック帽(料理人用)のような頭の形態がむき出しではどうも。やはり、繊細な飾りあっての如意輪観音ではなかろうか。
シンプルな像がお好みなら奈良国立博物館の像がしっくりくる。
そんなこともあり、小生は、室生寺と観心寺の像を称える人が多いのは、像そのものの美しさというより、そこに女人救済といった話をが持ち込むことができるからと睨んでいる。特に、観心寺の像が壇林皇后(嵯峨天皇皇后)の姿を写したいう点については、話しておきたくなる。なかには、官能的な仏像として絶賛する人もいたりするからだ。
言うまでもないが、壇林皇后は仏教普及の一大功労者。
→
【17回】 「葬式仏教の原点に触れる。」 (2010.2.10)
かなりカリスマ的な在家信者だったのは間違いなさそうだが、どうも当時の貴族・僧侶の大勢の思想を変えるまでにはいかなかったようだ。
それがわかるのが、禅僧義空の招致。835年のこと。教科書で暗記させられる禅宗到来のはるか昔だ。・・・檀林皇太后橘嘉智子の使者として、僧侶慧萼が唐の禅僧義空を招聘したのである。(滞在: 東寺西院→嵯峨檀林寺)しかし、檀林皇后没後に帰国したようだ。小生は、慧萼が伴った帰国と見だが、実態はわからないようだ。そう言えば、もうご想像がつくと思うが、慧萼は858年に帰日中止を決断したのである。その場所は、753年鑑真乗船の遣唐使帰日船立ち寄り箇所(浙江省舟山群島)。そこで不肯去観音を安置したとされている。小生はその結果とは思わないが、ともあれ中国四大仏教名山(道場)であり観音聖地とされている。その名前は言うまでもないが、普陀山。
→
野村伸一:
「今日の普陀山(図録)」 (C) アジア基層文化研究会 @慶應義塾大学
[中国四大仏教名山(道場):
五台山[山西省]-文殊菩薩, 峨眉山[四川省]-普賢菩薩, 九華山[安徽省]-地蔵菩薩(新羅入唐僧), 普陀山[浙江省舟山群島]-観音菩薩(日本入唐僧)]
こんな話では、状況がわからないか。
入唐僧、園城寺の宗祖がどう見ていたか、引用しておけば、実態がわかるか。・・・“円珍(814-891年)は日本の僧侶について、ただ己のために活き、護法守戒の心がないことを述べ、衣の色は俗と異ならなかったという。そして、そのような日本の現状をみた客僧義空等は、昔鑑真が来たってより此の伝戒、何の軌則があとうか、との責言を記している。”
→
大槻暢子: 「唐僧義空についての初歩的考察」 東アジア文化交渉研究 創刊号
[最澄、円珍が訪れた天台山[浙江省]は中国道教三大霊山の一つ。他は五台山と峨眉山。]
これが、日本の仏教の当時の実態である。
壇林皇后像イメージをダブラせた仏像を美しいと感じる人は幸せな方である。小生は、そんな感覚で像を眺めることはできないのである。
ついでながら、仏教普及に寄与した女性としてあげるべきは、壇林皇后だけではない。女帝の孝謙天皇の決意の方が凄かったのは明らか。ただ、弓削道鏡(700〜772年)による徹底的な仏教統治を図ったから全く省みられていないだけ。道鏡が国家鎮護の仏像としたのは、おそらく如意輪観音。
〜 如意輪観音の美学は、国体護持の護摩行ありきでは。 〜
そして、忘れてならないのは密教仏である点。壇林皇后イメージを仏像に重ねるのは、仏教普及の聖人への崇拝もあろうが、天皇護持の力を期待しての話ではないか。(言うまでもないが、天皇の病魔退散の護摩ほど重要なものは無い。)
従って、像に色彩が残っている如意輪観音像とは、護摩の火焔とは無縁だったことになる。貴族がご利益を期待するような信仰対象としては、重きをおかれていなかったと考えるべきでは。
ちなみに、胎蔵界曼荼羅を見てみると、中央の中台八葉院(五如来+四菩薩)に観自在(観音)菩薩が配置されている。この院の周囲には、五大明王の持明院があるが、これとは異なる方角に蓮華部院(観音院)が配置され、3列7段構成の仏群が描かれている。中央一線に並ぶ3像は、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩、不空羂索観音菩薩だそうである。如意輪観音は重視されていると見てよかろう。
ちなみに、観音院の外側は地蔵院。
この辺りの検討は、素人には無理そうなのでおいておくとして、それでは、京都のどんな仏像に注目したらよいかだが、小生は第一に、小野郷の隋心院の本尊をあげたい。 なにが驚いたかといえば、このお寺、釈迦如来/普賢菩薩/文殊菩薩、薬師如来、阿弥陀如来、金剛薩捶、不動明王、弘法大師、がありながらの、ご本尊なのだ。しかも、別に有名な如意輪観音像という訳でもなさそうだし、古い像は不動明王で、重要文化財は阿弥陀如来の方。
つまり、如意輪でなければならない訳があるということ。例えば、町場のお寺だと絶対にこうはならない。因幡堂(平等寺)は薬師如来で有名だが、観音堂があり、観音巡礼の対象だが、如意輪観音ではなく十一面観音。 こうなるのは自然。
もちろん、隋心院は、小野小町がウリのお寺だから、小町イメージを像にダブラせることができるという点では意味があろうが、小生は、小野一族が天皇護持の祈祷を受け持っていたからと見た。要するに、天皇護持の護摩行のための重要な像だったということ。
このことは、如意輪観音像は大衆信仰には不向ということでもある。しかし、だからこその拝観の醍醐味。ということで、もう一つのお勧めは醍醐寺。
椅子のようにして、岩の上の蓮華に座っており、立膝の思惟のポーズの像である。六臂像だが、異型感は極めて薄い。坐像ではないのだがが、頭に叩き込まれる弥勒菩薩のイメージは浮かばない。台座を抑える左手は一直線に伸びているし、全体の調和をよく考えた作風である。モチーフを徹底的に磨き込んだ作品と言えそう。小生は傑作だと思う。どこかの観光案内に六臂坐像があったような気がするが、2像あるのかも。
思ったほど、煤にさらされていないのが気になるところだが、それはこのお寺の江戸幕府との微妙な関係の結果か。
実は、鎌倉にも如意輪観音菩薩像がある。西御門の来迎寺。多分、頼朝の持仏。そういう類の仏像なのだと思う。鎌倉のことだから、安置場所が廃寺となり、このお寺に移ってきたものと思われる。
衣についている「土紋」が美しいらしいが、そうだとすれば鎌倉観光マニアには有名な像の筈。ただ、住宅地の一角のお寺であり、どう見ても観光寺院ではないから、この像はほとんど知られていないだろう。と言っても、巡礼の札所(時宗: 阿弥陀仏がご本尊)なので、知る人ぞ知るといったところか。・・・如意輪観音を女人菩薩に仕立てたい人は少なくないから、北条政子のイメージを被せられたりしている可能性もあるが、時期が異なるからありえない話。しかし、政子が受け継いで持仏にした可能性はかなり高い。
そういえば、成田山仏教図書館蔵書目録に“透玄寺如意輪観音像”がある。これが京都の寺町綾小路下のお寺を指すのかは素人にはわかりかねるが、丈が約1mの鎌倉期の木造漆箔如意輪観音を所蔵しているようだ。装飾的な冠の六臂坐像ではなかろうか。町場だし、観光書には登場していないから非公開と思われるが、傑作かも知れぬ。そんな可能性を感じさせるのが京都という土地柄である。
尚、大報恩寺(千本釈迦堂)にある如意輪菩薩像は、立像。これは、あくまでも六観音としての姿で、国家護持とは無縁だろう。この話は又別途。
<<< 前回 次回 >>>
---- 如意輪観音像 [発表されている年代は余り信用しない方がよいと思う。] -----
・頂法寺(六角堂) 前立像 http://www.ikenobo.jp/rokkakudo/viewpoint_01.html
・護国寺 平安時代後期
http://www.gokokuji.or.jp/NewFiles/New6.html
・橘寺観音堂 藤原期 寄木造六臂坐像
http://blog.goo.ne.jp/gfi407/e/eefc492b43bad812285416ec881cbe50
・東大寺大仏殿 1738年頃 脇待二臂像
http://blog.goo.ne.jp/gfi407/e/de9b131a4be9df434fd3a737cf9600c5
・岡寺 天平時代後期 二臂半跏像
http://blog.goo.ne.jp/gfi407/e/3468b4d6fe0cd193db465afd4a9bdb01
・中宮寺 二臂半跏像
http://www.chuguji.jp/about/index.html
・願徳寺(宝菩提院)[大原野] 平安前期 二臂半跏像
http://www.gantoku.or.jp/butuzo.html
・青岸渡寺(和歌山那智山)伝飛鳥期-前立六臂坐像
http://www2.ocn.ne.jp/~sanzan/NTTcontents/seigan/
・神咒寺(西宮市) 坐像
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku_kanshinji.htm
・室生寺 金堂 平安時代中期 木造一木六臂坐像
http://www.murouji.or.jp/hotoke/nyoirinkannon.html
・観心寺(大阪河内長野市)金堂 平安時代前期 六臂坐像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:NYOIRIN_KANSHINJI.JPG
・奈良国立博物館
平安時代9〜10世紀 木造一木六臂坐像 http://www.narahaku.go.jp/collection/885-0.html
鎌倉時代1275年 木造寄木六臂坐像
http://www.narahaku.go.jp/collection/1070-0.html
・隋心院 鎌倉時代 http://www.zuishinin.or.jp/bunkazai/images/jihou1.jpg
・因幡堂(平等寺)観音堂 鎌倉時代 木造漆箔坐像 http://tuusyou.web.infoseek.co.jp/t017.html
・醍醐寺 木造漆箔六臂坐像
http://www.daigoji.or.jp/exhibition/images/2010winter02.jpg
・来迎寺(鎌倉市西御門) 南北朝
http://blog.livedoor.jp/koike631/archives/51306005.html
--- 参照 ---
M.Katada: 如意輪観音 古寺散策らくがき庵 (仏像案内)
http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/niyok.htm
尚、すでに述べたが、このシリーズでは、Wiki等のウエブの百科事典的なウエブや、宗教団体・観光組織・自治体系公式・ブログの当該箇所の掲示文章の写真を参照しているが、ほとんどの場合、その旨を表示していない。観光案内書類は見ているが、典拠不明なのが普通なので引用していない。
「観光業を考える」の目次へ>>>
トップ頁へ>>>
|
|