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2009年12月8日
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【古都散策方法 奈良-その2】
西の京から、西大寺・秋篠寺へ、そして奈良町…

奈良で遊ぶならこうされるのも一興との、ご提案をしてみたくなった。
 → 「雑感: 奈良観光」 [2009.11.26]
ご参考にされ、ご自分なりのテーマで散策されたら如何。

[コース]
(大池→) 薬師寺→唐招提寺→‖→西大寺→秋篠寺→‖→極楽坊
このコースは離れた3箇所を一気に回る。交通機関利用方法を考えておく必要がある。
一言で言えば、「薬師寺感服コース」。これぞ平城京観光の肝。
西大寺や奈良町は外してもかまわないが、時間があるからといって、復元した平城京見学は入れるべきではない。

[テーマ設定のヒント]
   ■■■東大寺と興福寺だけが力を発揮■■■
平城京遷都と東大寺建立は切り離せないが、他の寺も隆盛を誇った。
東大寺の次に巨大伽藍を誇ったのは、飛鳥寺を移転した元興寺。もちろん官寺扱い。ところが、今や、その面影はほとんどない。私寺でしかない新薬師寺とは位置づけが違うのに、同じように没落してしまったのである。
大伽藍を構築していたに違いない大安寺も、ほとんど同じ運命をたどってと言えそうだ。(現在は癌封じと竹供養で有名らしい。)こちらは「大官大寺」で、名前からすれば、このお寺の格が一番高くておかしくなさそうなのに。
東大寺に比すべく建立されたと思われる西大寺は、今でも大寺院の風格を感じさせるから、そこまで没落の道を歩まなかったように見えるが、実態からいえばそうとも言い難い。まったく違うお寺として再興されたように思えるからだ。
奈良の都は戦火にみまわれたから、すぐに再興できなければ没落必至なのは致し方ないとはいえ、余りの変わりよう。
一方、西の京は鄙びた地になってしまったから、戦火は逃れた。しかし、薬師寺は隆盛からほど遠い状況。一昔前は、遺跡の雰囲気そのもの。高校生の時読んだきりだが、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」では、土壁は崩れ、山門は傾き、お堂は朽ち果てといった情景が描かれていたように記憶する。そして、周囲は農家と畑なのである。誰もが無関心といった描き方だった。そこまで落ち込んだのである。
多分、秋篠寺は平城京で最後に建設されたのだと思う。その頃は、流石に財政難だったのか、小さい伽藍だ。その後、どのような変遷があったかわらぬが、元興寺のようにはならずに済んだ。
要するに、奈良では、東大寺・興福寺系が勢力を振るったということ。
[注意] 奈良仏教は呪術中心の密教とは違うから、宗派、寺、僧侶は系列化されていなかったかも。

   ■■■日本仏教の原点は薬師寺■■■
薬師寺はいうまでもなく、薬師信仰のメッカ。それは現在でも言える。
平城京遷都の時も同じ。病気平癒の私的ご利益だけでなく、国家安寧の実現のためにも不可欠とされたのだと思う。
そして、何よりも特徴的なのは伽藍へのこだわりだと思う。それは、浄土感覚そのものでもあるからだと思う。浄土と言うと、阿弥陀様の極楽浄土しか思い浮かばないようになっているが、それは西方の話。薬師様は東方の瑠璃光浄土である。そう、朝日が昇る地なのだ。そのため、日本の太陽信仰がかぶさり、国家的に重視されたのではないか。
ちなみに、瑠璃とはラピスラズリ。薬師寺の玄奘三蔵伽藍には故平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」があるが、その青色絵の具はラピスラズリ。
このような絵を眺めていると、時代は全く違うのだが、秋篠川が流れる平城京の西側は、インテリと開明派の富裕層中心の街だった気がしてくるから不思議だ。藤原氏の地盤である東側の寺社とは対照的である。

   ■■■西の京の仏像は最高傑作■■■
仏像の見方は様々。しかし、普通の感性の持ち主なら、西の京の仏像は素晴らしいとしか形容の仕方があるまい。そんな比類すべきものがない傑作を、ガラス越しでもなく、警備員が監視するでもなしに、開かれた仏殿のなかで、自然光で拝観できるのは素晴らしいことだと思う。
これぞ奈良。

[ポイント]
■大池■
薬師寺拝観の前に景色を離れたところから眺めよう。
薬師寺南門から乾川に沿って400m程度西に行くと池がある。多分、たんなる溜池。ここからの眺めが風情があった。できれば、朝焼けがよいが。
昔は、これこそ鄙びた西の京そのもので感涙もの。しかし、そんな時代は終わった。護岸工事のお陰で風情は完璧に失われてしまったからである。
薬師寺参拝者用の巨大な駐車場もできたし、これから一大観光地化していくのかも。まあ、とんでもない建物が登場しないことを願うしかない。
尚、乾川を東に行けば、薬師地の塀が途切れると観音池で、200m程進めば南北に流れる秋篠川の橋。そこら辺りの堤から眺める方のもよい。暮れ行く夕日の情景となるが、観光客にとっては時間的に難しかろう。
付近の宿泊施設は、昔は、秋篠川沿いのインターナショナルな感じのペンション1軒だけ。今はどうなっているのだろう。

■薬師寺■
- 薬師寺大伽藍復興年表(3)-
- 年 - - 落慶 -
1972 お写経道場
1676 金堂
1981 西搭
1984 中門
1991 玄奘三臓院
2003 大講堂
薬師寺は奈良のなかでは頭抜けた宗教活動を行ったきたお寺だと思う。
昔、初めて修学旅行で拝観した時は、廃墟の感じだった。しかし、そんな状況で、高僧自ら大勢の生徒に直接語りかけたのである。マイクもメガホンも無しで。その時の、伽藍再興の夢は着々と結実している。

しかし、奈良の朽ちていくお寺の雰囲気が好きな向きには、伽藍再興は必ずしも嬉しいことでもない。だが、ここは観光施設ではなく、まぎれもない宗教施設。伽藍再興とは、土木工事ではなく宗教活動そのものなのである。経済界の援助もあったとはいえ、故高田行胤の奮闘ぶりは凄まじいものだった。
他のお寺で団体が来たら、すかさず避けるべきだが、このお寺の場合は違う。一緒になって法話を聞くチャンス。法話に納得感があったら、写経で支援したらよい。東塔修理が税金だけで十分な筈はないのだから。

実に、思想的に強いお寺である。創建当時からの伝統かも。このお寺は、ある意味殺風景そのもの。緑や花という世界ではないのだ。日本的ではないが、それが静かな世界を作り出すもとでもある。参拝者が多くてもザワザワ感はうまれないのだ。
このお寺に惹かれる人が多いのは、東塔の美しさではなく、そんなところにあるのかも。訪れるだけで、薬師信仰の原点を感じさせられるからだ。

東大寺は国家鎮護一本槍。本尊は盧舎那仏(華厳経)。薬師如来は、四月堂の坐像の脇待だけではないか。ただ、法華堂(三月堂)の不空羂索観音の脇待が 塑造日光・月光菩薩とされるているのが不可思議。薬師如来が存在する筈だが。まあ、ゴチャゴチャとしていてよくわからない。

ついでながら、興福寺も見てみると、中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像(江戸期)。だが、東金堂には銅造薬師如来(室町期)、銅造脇待の日光・月光菩薩(奈良期)、木造十二神将(鎌倉期)が揃っている。だが、飛鳥の山田寺本尊の薬師三尊像を強制的に移築したと言われているのである。

それはそうだろう。薬師は病気平癒の東方の如来で、極楽往生の西方の阿弥陀如来と対比される存在。下世話に言えば、個人的なご利益追求型。しかし、国家鎮護に比べれば、こちらは本質的な問題。さて、その辺りは、法話でお考えになるとよかろう
尚、阿弥陀如来は、世紀末の来世信仰。もちろん、平安京の貴族の感覚。インターナショナルな文化が到来して湧きかえった平城京には似つかわしくない。

〜薬師如来以外の本尊の国〜
[注意:間違っている可能性がある.]
-本尊- -国-
釈迦如来(正統) 伊豆、壱岐、対馬
大日如来(密教) 下野
阿弥陀如来(来世) 大和
不空羂索観音 [東大寺三月堂]
聖観世音菩薩
千手観世音菩薩
伊賀、摂津、筑後
讃岐、土佐
五智如来
地蔵菩薩
虚空蔵菩薩
日向
駿河
伊勢
まあ、なんだかんだ言っても、日本人は、国家鎮護よりは現世利益ともいえる。国家鎮護は大概胡散臭い話が多いからかも。
それがわかるのが全国の国分寺のご本尊。薬師如来以外は極めて稀だそうだ。本来は廬舎那仏(あるいは変身した釈迦如来)だと思うが、そうはならない。

そんななかで、薬師如来が、仏像礼拝の基盤を作り上げたのではないか。その原型がここ薬師寺にある。そう思って、本尊を拝観するとよい。学生の頃、無知から思わず質問してしまったことがあるが、この仏像が薬師如来とわかる人は稀。薬瓶を持っていないのである。おそらく、薬瓶は、薬師如来であることがわからない人向けのもの。
そうそう、お隣の唐招提寺金堂の像も薬壷を持たない。

ところで仏像だが、東院堂の聖観世音菩薩像の若々しさには驚かされる。インターナショナルな世界に打って出ようという当時の気分そのもの。
そして、なんといっても、薬師三尊像。もともとは金色に輝いていたそうだから、目にした人はその神々しさに驚嘆したに違いなかろう。和辻哲郎が「古寺巡礼」で、歯の浮くような絶賛の言葉で埋め尽くしたのもわかる。
そして、台座には、葡萄唐草文様、四方四神(東・青龍、南・朱雀、西・白虎、北・玄)等、西方文化を取り入れているのも驚異的だ。

こんな話をすると、薬師寺は、渡来文化中心の学究肌のお寺と勘違いしそうだが、結構現実的である。境内社があるからだ。・・・【竜王社】【若宮社】【弁財天】【平木大明神】
      -竜王社は水乞い。
      -若宮社のご祭神は大津皇子。祟りを鎮めるためか。

□休岡八幡宮(薬師寺)□
薬師寺の境内社に触れたが、外にもある。薬師寺南門向かい、乾川を渡ったところに八幡神社がある。平安京の頃に勧請したとされる。
要するに、薬師寺の鎮守で、西の京地区の郷社ということだろう。
実は、不思議な神社である。わざわざ石積みの土台が作られていることもあるが、ご祭神の「神像」が祀られているからだ。
      -神功皇后坐像
      -八幡神像(僧侶型)
      -仲津姫命像

■唐招提寺■
誰でもが知る、鑑真和尚の私寺。招致した僧侶のためのお寺とされているが、もっぱら東大寺にいたのではないか。ここは、隠居場的なものかも。
それはともかく、金堂の柱のエンタシスと屋根瓦の反りは誰もが修学旅行で確認した筈。まあ、その通りなのだろうが、この金堂どうも他の伽藍建築とは相当違う。庭から仏像を拝むのに適したような作りに見えるからだ。常時、扉を開け放っていたのだろうか。

当然ながら、本尊は須弥壇上に廬舎那仏。東大寺大仏殿と同じだ。大仏と比較すべきもない大きさだが、こちらの方が荘厳な感じがする。光背に多数の仏を配しているから、そんな印象がさらに強まるのだと思う。実に立派である。 ただ、それにしては、脇待が解せぬ。薬師如来と千手観音なのだ。これは仮置かも。
指導者の私寺だから、仏堂を正式な形に整えるよりは、道場である講堂の使い易さを気にしていたかもしれず、そんなこともありそうに思うのだが、素人考えかも知れぬ。
そういえば、こちらの薬師如来も、薬師寺と同じく薬壷が無い。当然、日光・月光菩薩があった筈。もしかすると、東大寺三月堂の両菩薩がこの脇待では。
そうなると、どこのお寺から来たのか気になるところではある。

■西大寺■
実に不思議なお寺である。権力闘争の結果生まれた可能性も捨てきれない。
・名称からすると、東西対の寺だが、最初から構想されていた訳でもなさそうだ。
      -東大寺に対抗する力を示すために建立したと考えるべきだろう。
・東大寺は都の外側の立地だが、これは内側だ。
      -強健発動で、立ち退き命令により工事を開始したに違いない。
・もともとの金堂は、東大寺大仏殿に並ぶような巨大なもの。
      -東大寺と同じ規模の寺を作ることで力を見せつけたのだろう。
      -藤原氏の力が強い東側から、西に中心を移す意図が感じられる。
・金堂は2つあり、本尊は薬師如来と弥勒如来だったと言われている。
      -東大寺は国家鎮護の毘盧遮那であり、信仰が異なるのではないか。
・火災で消滅後、どの天皇も、どういう訳か再建する気が全くなかった。
      -発願した天皇家の血筋が変わったということか。
      -あるいは、東西対にする意味がなくなったか。
      -興福寺が管理していたらしい。
東大寺建立に貢献した貴族(藤原氏)との対立の構図があったと思われる。その意味が無くなれば、不要どころか、邪魔ということか。

当然のことだが、現存しているお寺には、平城京時代の仏像や建物はまったく残っていない。あるのは、当時の塔の礎石だけである。
鎌倉仏教が盛んだった頃に、僧・叡尊[1201〜1290年]が再興したとされるが、平城京時代の系譜を引き継いでいる訳ではなさそうだ。
      -現本尊は釈迦如来
      -密教の真言宗と律宗の兼学体制
      -八幡神社信仰と混淆した大茶盛が有名
要するに、奈良に密教の拠点がなかったので、西大寺を衣替えしたということではなかろうか。

■秋篠寺■
お寺の名称が地名だけであり、現在の宗派は何かよくわからない。本尊は薬師如来だから、勅命(伝:光仁天皇)で病気平癒のために建立された寺というのは確か。平城京で伽藍を持つ寺建築の一番最後だったようだ。
境内は、静かで、緑が多く苔むした庭があり、実に落ち着いた雰囲気。支援者を欠くことはなかったということでもあろう。創建当時の東塔礎石を拝見することも慣わしだった可能性さえ感じる。

建物は再建したものばかりだが、本堂は創建のコピーではないそうだ。ところが、その趣は平城京時代を髣髴させる形。実に秀逸。昔の雰囲気を保とうとしてきたことがよくわかる。
日本にはここにしかないという伎芸天像が人気だが、これも補修者の力量が高かったことを示す。どう見ても、当時の像だ。

■奈良町こと元興寺旧境内■
奈良町というのは町名ではなく、元興寺跡が町になった総称である。元興寺は飛鳥寺が移転した大きな官寺。飛鳥寺は私寺だと思うが、初の本格的仏教寺院だったから、認められたということか。今、残っているのは、実質的に中院町の元興寺だけと言ってよいだろう。
そのかわり、町は観光客で大繁盛。
□極楽房□
極楽房は微々たる面積しかない。印象から言えば、日本のどこにでもある町内のお寺といったところ。実際、本堂横は墓地なので、その雰囲気濃厚。ただ、規格の直方体墓石でなく、石塔にしているから気付きにくいが。檀家無しでは存続どころではなかったのだろう。
建物は仏殿ではなく僧坊だったそうだ。「極楽坊」という名前に反して、それこそ紆余曲折で、時代の荒波に翻弄されたお寺である。
最終的には、真言律宗大本山宝山寺末寺となったようだ。

まあ、建物がよく残ったと、感じ入るべき場所というところか。
・屋根瓦の美を堪能することになっている。
      -飛鳥から移設したものが入っている。
      -古い瓦と、新しい瓦が同居して模様が生まれている。
      -細部を拝見するより、東門の外から眺めるのがよいのでは。
・本堂は仏堂には向かない構造である。
      -正面でなく横から建物に入る感じがする。
      -正面中央に柱がきてしまう。
・僧侶の道場として最後まで残ろうと努力を続けたのだと思う。
□元興寺跡(五重塔/観音堂:芝新屋町、小塔院:西新屋町)□
元興寺は、極楽房以外にもある。完璧な「跡」だし、極楽坊と関係ないので訪問者はほとんどいないようだ。華厳宗だから、東大寺の系列なのだろう。
□元興寺旧境内にある新しいお寺(十輪院)□
真言宗醍醐派の密教寺院だが、もともとは元興寺内の一子院のようだ。本尊は石造地蔵菩薩なので本堂は礼拝用。鎌倉幕府の頃の建物らしいが、貴族の邸宅の趣があるとされる。

[順路]
(1) 近鉄橿原線で西ノ京か、奈良交通バスの薬師寺東口で下車が無難。
      -伽藍南側の乾川沿いの道(大池-秋篠川間)の散歩をお勧めしたい。
       (駅は伽藍北側の道。)
(2) 薬師寺の「白鳳伽藍」拝観は南門から入ろう。
      -休岡八幡宮拝観のつもりなら、南門入場前に。
      -中門から入る前に塀際のお社の言われを読むとよい。
        (想像にすぎなりが、お社は、そのうち移築されるのではないか。)
      -順路の指定には背くが、塀際を回って東院堂参拝。
      -散歩後で一休みしたいなら、勧進所でお抹茶を。
      -落ち着いたら、中門から入って、ゆっくり拝観。可能なら法話も伺おう。
      -北側の門(與樂門)から出て、玄奘三蔵院伽藍へ。
      -境内西のお手洗いから外の道に出ると近道。
(3) 薬師寺から北に歩いて、唐招提寺へ。
      -狭い道だがバス通りを歩く。
      -拝観後、西の京駅へと、この道を戻る。
(4) 薬師寺北側の門の横が駅。近鉄橿原線に乗車し、西大寺で下車。
      -電車を使わず徒歩で西大寺へ向かう手もある。
        (唐招提寺前から、線路をわたり、線路に近い道を北に行くだけ。)
        (この場合、垂仁天皇陵の周囲を歩くことになる。昔は野の道だったが。)
      -北口で降りると、「ならファミリー」が見える。立ち寄ったら。
        (北西側に回廊礎石レプリカ展示と聞く。: 西大寺の尼寺、西隆寺)
      -西大寺は線路の反対側だが歩いて数分。地図や標識がわかりにくいが。
      -疲れたら、近くに美味しいケーキ屋さんがあるので一休みもよかろう。
(5) 西大寺からはバスかタクシーで秋篠寺へ。
      -歩く道もあるが、わかりにくい。狭いバス道路を歩くのは避けたい。
      -帰りは南門から歩いて駅に戻るとよい。
(6) 西大寺駅から近鉄奈良駅に。繁華街を歩いて奈良町へ。
      -極楽房は猿沢池東側の道路を南に行けばすぐわかる。
      -しかし、池の南西端から細い道(上ツ道)を歩こう。
      -奈良町マップをもらい、場所を教えてもらった方がよい。
       “近鉄奈良駅→なら工芸館→奈良町物語→元興寺極楽坊→・・・”が観光コース
       ・五重塔/観音堂跡は極楽房の南
       ・小塔院跡は庚申堂辺りの小さな門
       ・十輪院は極楽房より南に二つ目の道を東
      -狭い地域に様々な展示場や工夫を凝らした飲食店が沢山ある。

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