文字分類を考えていて、"気付き"を書き留めたくなった。尚、お読みになるに当たっては、素人論であるからくれぐれもご注意のほど。
〜 日本語と朝鮮/韓国語をウラル・アルタイ語族に入れる発想にはついていけない。 〜
世界の文字を眺めていて、大いに気になったのはハングルの自己主張。どう見てもエスノセントリズムそのもの。一方、日本語は"漢語"の影に隠れているが、どう見ても異端児。
≫「経典文字に抗してきた日本語」 [2011.1.21]
これだけなら、両者はユーラシア大陸の東端の民族だから孤立して生きてきたんだ程度の印象で終わる。しかし、それなら孤立言語と見なされているのかといえば、そうでもなさそうだ。両者には類似点は結構あるし、さらにウラル・アルタイ語族と比較すると、それなりに似ているから、両者はこの語族としておこうかという話になったりするらしい。ずいぶんいい加減な話だが、どの語族に属すのかという確証は無いのだから致し方ないだろう。
しかし、よく考えると、この「確証なし」と言う点が逆に証拠といえそうな気がする。日本と朝鮮半島との交流は昔から頻繁で。出兵や併合まであるのだから、同一語族ならはっきりそれと言える証拠があっておかしくない。そうでないのだから、両者は違う語族と見た方が当たっていそうだ。
それに文字の嗜好が全く違う。片や、独自の国粋路線ハングルで、もう一方は雑種文字。その違いを生むのは、それぞれの国の事情。
朝鮮半島を統一するなら、南の3族と北の1族をまとめる必要がある。周辺国とは違う言語で統一することなくしては、これはかなわぬ。なかでも重要なのは純血文字。喉から手が出るほど欲しくなるのは自明。
ところが、日本にはそんな緊張感はもともとない。大陸からの移住民を数多く含む人種的には雑種の国だからだ。異なる言葉の人達が同居しながら、統一した言葉になっていけばよいという調子。基本的に雑炊言語。この言語環境に溶け込めたら日本人となる仕組み。当然ながら、文字も雑種路線でかまわない。カタカナやひらがなは不可欠でもなかったが、五十音言語であることを自覚したため、不可欠な文字となっただけのこと。
これだけまとめるだけで、日本語は朝鮮半島の語族とは違いそうだという気になるのでは。
そう、ポイントは五十音言語。日本語の一大特徴は、音節は原則として「母音」か「子音+母音」だからだ。これは、五十音図という理屈を導入したのではなく、現実の言葉を整理すると一番合いそうなのが五十音図ということ。それに合わせて、漢字の部品から文字が作られただけのこと。
朝鮮・韓国語は全く違う。使われている、母音と子音をすべて羅列し、それを文字パーツ化し、音節文字に合成している。そして、何よりも重要なのは、五十音とは違い、音節は子音で終わってもかまわない点。母音の数も多い。
そんなこともあり、小生は、全く違う文化の言語と見た。似ているのは表層のみ。隣国だし、古くから人も沢山移住してきたから、同属だろうという思い込みで見ていたが、根本的なところが全く違う。
〜 ウラル・アルタイ語族は虚構かも。 〜
ついでに付け加えておくと、ウラル・アルタイ語族に当て嵌める発想自体にも大いなる違和感あり。
トルコから朝鮮半島、果ては日本列島まで連なるなんらかの文化圏があったとは思えないからだ。インド・ヨーロッパとは違い、この帯はもともとバラバラ文化。西域に勢力をもっていた突厥族の「オアシス農牧文化」、蒙古族の「乾燥高原遊牧文化」、ツングース的な「森林狩猟文化」といった具合。これらの古代言語を同根とは考えにくい。
≫「騎馬民族」 (2010.11.30)
そうは言っても、類似性はあって当然。日本を除いて、この一帯は「元」が統一したことがあるからだ。遊牧産業主体のベルト地帯化したのは間違いないところ。だが、この帝国は自分達の言語を強制はしなかった。それどころか他民族の言語を尊重したのである。従って、帝国支配の影響で、各言語が収束化することもなかった筈。
それに、遊牧系や狩猟系民族はもともと文字記録を残す体質はないのでは。従って、言語の系譜もよくわからないのが実情なのでは。はっきりしないが、インド・ヨーロッパ語族とは大きく違うし、類似点もあるから一括りにするかという発想でなければよいが。
ただ、そうした括りに全く意味が無いかと言えばそうとは限らない。この帯の南側には、「高地農牧文化」の青蔵[チベット]族と、「灌漑高原農耕文化」の漢族が存在するからだ。この両者を文化的に一緒にしてしまうなら、南の定住族 v.s.北の非定住族という概念が生まれる。
ただ、こうするとトルコを入れると無理が生じる。
素人からずれば、それなら、ウラル・アルタイ・ドラビタ語族としたらすっきりしそうな感じがする。古代アジア地区には統一的な言語があり、それが勃興した漢語の周辺に残っているという理屈。もっとも、小生はそんな古層の言語圏の存在は信じていないが。まさか、南インド言語に、「馬(ma)」と音韻関係がある単語が残っていることもなかろうし。
とは言え、こうした発想は重要だと思う。日本語が所属する語族が見えてくるきっかけを与えてくれるからである。