小生の高尾山歩きは以下のコース。
【出発地】高尾山口駅(甲州街道前)→沢道[6号路]→高尾山頂周回道時計回り[5号路]
→もみじ平→[学習道分岐]→一丁平→城山→千木良(甲州街道横断)
→弁天橋→相模湖公園→相模湖駅入口(甲州街道横断)→相模湖駅)【到着地】
→オジサン向け高尾山案内 (2012.10.3)
頂上を敬遠するのは、余り感じが良くないこともあるが、山登りの意識は全く無くから。要するに散歩。山だからそれなりの態勢でとお叱りを受けるかもしらんが。思い立ったら弁当を作って即出発。早起きする必要もないというお気軽さが良い。
好みの休憩場所は「もみじ平」。瓶ビールを注文し弁当を食べ、のんびりできるということで。ココなら、埃っぽくないし、そこそこ落ち着いた雰囲気なので気分が良い。靄がかかっていなければ丹沢山塊や富士山一望。
→高尾山ハイキング用弁当の設計(2013.6.17)
小生は、スタコラ早足で歩くタイプ。なにも考えずただただ歩行と称しているが、それを方針としている訳ではない。健康第一主義者や登山道極めます的な求道者的な方々とのご一緒は疲れるから避けるための方便。周囲を眺めながら、それなりに頭を使ってと言うか、色々と思いを巡らしながら歩きたいだけ。これだけで愉しいと思うが、それは裸の二足直立歩行動物が生み出した習慣から来ていそう。屁理屈を捏ねているのではなく、歩いていると、なにか、古代に戻った感が蘇ってきたりするからだ。
そんなこともあり、小生の高尾山歩きでは以下が鉄則となる。
・手を空け、二足で直立した状態で、登ったり降りたりする。
(手が塞がるステッキなどもってのほか。)
・自分が生物地理上でどんなところにいるか感覚を研ぎ澄ます。
(何回こようが、同じではない。なにか気付きがある筈。)
・ついでに、なにか気になったら、色々と考えてみる。
(自分なりに定義し、歩きながら類推してみる。)
こうした姿勢が、ヒトの脳味噌を発達させたのではなかろうか。
上記のコースはその観点ではうってつけ。
ただ、このコースは尾根では直射日光を浴びるから、要注意である。
場所は定かでないが、先日の暑かった時に、山中で熱中症で倒れた人が出たそうだ。汗ダクダクで水分補給を怠ると結構危ないのは当たり前だが、せっかく来たのだからと無理をしがち。
暑い場合は、高尾山頂周回道から先は、もみじ平を通る尾根道ではなく、木々の中を進む北側の巻き道を行くべきなのだろう。
もっとも、天邪鬼という訳でもないが、もみじ平でもなく、北側の巻き道でもなく、南の「大垂水峠」方面との表示の道に入る手もある。実は、すぐ先に再度表示があり、「一丁平」方面という表示もあり、南側の巻き道でもあるのだ。
暑い時に南側というのもなんなのだが、暫く下るだけで、富士見台と称する眺望が無い場所に行き着く。おわかりだと思うが、そこは日陰。しかも東屋があり、ベンチに座っていると心地よい風が吹いたりするのだから、そう悪くない休憩地である。余り人がこないから、そこで昼飯でもよかろう。
道標に沿って、行けば、上記のコースと合流する。
それじゃ面白くないというなら、「学習の歩道」が整備されており、表示通り「大垂水峠」に行くこともできる。野苺の時期は別だが、小生はここらの南面の道は好きではない。どこにでもある人工林のなかを歩くだけだから。途中に、分岐もあるが、「大垂水峠」に進む道以外は林道を歩かされ興醒めである。まあ、その辺りは人それぞれだが。城山から日影沢林道をずっと下って、旧甲州街道の車道を歩く方もおられるのだろうから。
そういう点では、「大垂水峠」も甲州街道にぶち当たるだけ。そこから千木良まで、甲州街道で下りていくこともできる。大部分は歩道らしきものがあるし、ひっきりなしに車が通るほどでもないので、歩いたことはあるが、実につまらぬ道である。
逆方向なら高尾山口駅前に行き着くが、途中の庭園料理屋等に足が向いてしまうのでは。と言って、城山に登る気にもなれまい。
本来なら、「大垂水峠」から、甲州街道に掛かる橋を渡ってさらに南の南高尾山塊に行くのが正統だろう。ただただ歩くのが好きな人向きな感じがするが、津久井湖が見えるからそれなりの愉しみは味わえると思われる。昔、自転車で津久井湖に行ったことがあるが、上から一望ならいうこと無しと思われる。小生は帰りの交通機関の都合で行ったことはないが。
つくづく思うのだが、寺社の鬱蒼と茂った森というとたいていが直立した針葉樹。高尾山の薬王院参道の並木など典型だが、それは人工林。にもかかわらず、それが、深遠さを感じさせるということになっている。そんなものだろうか。
小生は、祭祀に直立する大木を必要としていたのと、さらに古い信仰である木の精を尊ぶ文化が融合しただけで、針葉樹か広葉樹かとか、人工林か自然林かというような発想はもともとは薄かったのではないかと見ている。峻別するイデオロギーを嫌うのが日本的だと思うのだが。
そんなこともあり、針葉樹一色の森というのは、どうも好きになれない。高尾山の良さは、単一林でないこと。しかも、人工林もありながら、自然林化している所も多い。にもかかわらず放置され荒れ放題にはなっていないので、見ていて飽きないのだ。
しかし、高尾山南面に入ると、様変わり。整備された林業経済圏を歩いている感覚に襲われるのである。下草が多いので植物に囲まれている感じはするが、小生は、自然の懐に入り込むという気分にはなれない。今の学生さん達だと、これこそ自然ということで、気分爽快かも知れぬが。
関東という土地柄と、清涼からかけ離れた都会の空気のせいもあって、明治神宮の森は雑多な広葉樹の人工林だが、この雰囲気の方が生命の息吹を感じる。
ただ、極めて西洋的な発想が取り入れられているのは間違いない。神域を囲む禁足の森のなかに、参道とは別に道路が作られていて、そこを抜けると草原と池からなる公共的広場になるからだ。
これに加えて、地理的に離れているが、外苑があり、そこは一般生活と直接繋がる場。整然と区分分けがなされている。
日本の特徴は曖昧ルールの混交にあるとすれば、対極的だ。
信仰の場で、禁足の森を作るのは深遠さのためというよりは、そこは皆で使う祭祀の場だから勝手に使うなということでしかないのでは。もちろん、その一帯は、神域だが、古代なら、市が立つ交易の場所でもあった。縁日でお店が並ぶようなイベント会場としても使われるし、子供が境内で遊んでいても誰も何の違和感も覚えない。どう使おうが一向に構わないというのが、本来の姿だったのでは。
下手をすると、ゴチャ混ぜで何が何やら訳がわからぬ状態になりかねないが、上手く扱えば、雑炊的美学を生み出せる。それこそが、日本的とは言えまいか。
様々な文化が混じりあったハーモニーこそ、愉しみという訳。高尾山の魅力とはソコ。
【もともと、どんな構想で高尾山歩道がつくられているか・・・】「安心・快適な高尾山」の森林利用協働モデル事業施設整備工事箇所 位置図(3−1/2/3)http://www.rinya.maff.go.jp/kanto/apply/publicsale/sidou/pdf/takaosiyousyoitizu.pdf