■■■ 2011.2.4 ■■■

   日本語の隣接言語は違う語族だ。

--- 単純な基礎単語比較は止めるべきである。 ---
 「目/眼」の意味の単語の発音だけで、語族関係を語ってしまったが、素人のいいかげんな話という印象を持たれたのではないか。
     「眼で見ると、日本語は海洋民族語」[2011.1.27]

 こうした感覚を持ってしまえば、日本列島(日本語、アイヌ語)と朝鮮半島の言語を「孤立語」と見なすしかなくなる。しかし、それはあまりにおかしくないか。少なくとも、日本人の体質から見て、孤高の民族として振舞うとか、独創的な発明を大いに喜ぶは考えにくく、孤立した言語の筈がないと思うからだ。

 そもそも、なんの考慮も払わず、単語の統計処理を試みたりするから、「孤立語」との結論を導きだすのでは。
 特に、100個の基本単語で比べるような手法など、無駄以外のなにものでもなかろう。日本人なら、すぐに気付きそうなものだと思うが。
 ここで言う、「基本」とは、あくまでも現在の生活での常識での話。現在主流の文化で選んでいるもの。それが当てはまるのは、限られた文化圏でしかなく、日本への適用は無理があろう。「基本」の言葉なら、そうそう気易く輸入することもなかろうという仮説さえ、日本に限っては、妥当とは言い難いからでもある。お洒落と称して、なんでもかんでもカタカナ語にしたがる位なのだから。

 「目/眼」で比較しておいて、言うのもなんだが、例えば、体の部分を「基本」単語と見なして、その呼び名で言語類似性を推定するのも考え物。「体」は各部品からなるというコンセプトを頭に叩き込まれた人だけが、それを当たり前と感じているだけでは。
 例えば、「足」ひとつでも、英語と日本語では指す場所が違う。これでは、Apple-Orange比較と全く同じで、お話にならない。

 だいたい、日本人の体質からして、人体単語をとれば、様々な輸入語が同居している可能性も否定できまい。雑種民族であるということは、互いに出会った時、顔の顕著な違いを示す単語を部族表現として多用したに違いないからである。中国における「ヒゲの異人」こと、「胡人」のようなもの。これが、日本だと「ヒゲの偉人」になりかねない。しかし同化するということは、ヒゲ人という言い方はできかねる訳で、従来からのヒゲという言葉も使いにくくなる筈である。新しい単語に置き換わってもおかしくない環境が生まれるということ。
 例えば、土蜘蛛の場合、特徴は手足の長さ。そうなれば、手とか足は、特殊な単語になってもおかしくない。日本語では、一つの単語に対して複数の発音が並列に存在する、類を見ない言語であり、それこそ融通無碍なのだから、尋常な分析では言語の類縁関係など見えてこないのである。

 親族用語の比較に至っては最悪では。
 これは宗教や社会制度に関わる単語であり、古代のコンセプトが現代と同じである訳がない。「乳母」制度があれば、「母親」という意味ではないかも知れないし、子供の「父親」が誰かわからない社会が存在することもよく知られている。愛人だらけで、現代の父母概念とは全く違っているというより、そもそもそんなコンセプトがあったかどうかもわからない。男性名詞と女性名詞が存在する言語圏ならまだしも、そのような発想を欠く社会で、親族単語で検討するのは大いなる疑問。

--- 「目/眼」で発音を比べるからこそ意味がある。 ---
 おわかりだろうか。
 原則的には、体の部分を表す単語の発音比較には、たいした意味はないということ。
 にもかかわらず、「目/眼」で比較するのは、大いなる矛盾に見えよう。しかし、そうではないのである。

 「眼」は、海彦・山彦族的な仮説を考える上では極めて重要な単語だからだ。その昔、人は互いに、すぐに眼を見合わせることができたか考えて欲しい。猿を持ち出して恐縮だが、眼を見つめたら、それは挑戦を意味する。危険なことこのうえない。部族交流が重要な社会では、「眼」は大切なものであり、それを意味する言葉を簡単に代えることはできないと思われる。従って、この言葉を探れば、古代の部族社会の頃の発音の残滓がわかると考える訳。

 ・・・と言うことなのだが、そういう意味で、「目/眼」の言語一覧表で、恣意的に除外した言語が一つある。それはアイヌ語。
     「アイヌ語電子辞書」 (C) 富田(Tommy) [漢字韓国語訳付]
 "sik"なのだが、驚いたことに、"mata"、"メ"、"マ"といった語感とはほど遠いし、中国や韓国とも全く異なる。もちろん、印・欧語とはなんのつながりも感じさせない。
 完璧な孤立状態かと思いきや、"si"音が語頭に入っているものもあることにはある。"silm"、"silma"、"Sy"だ。

 これには、"なるほど"感あり。
 フィンランド語など典型だが、北方アジア系文化の影響が強い地域の言葉である。消えてしまった渤海語あたりも"sik"だった可能性を感じさせるではないか。言いかえれば、海彦・山彦とは違い、川と森に生きる狩猟民文化の民族の言葉ということ。

--- 「眼」以外の単語での比較は結構難しい。 ---
 何故こんなことを考えたか背景を説明しておくべきか。
 その端緒は大野説。たいして本は読んではいないが、タミール語と日本語の類似性を描いた文章は読ませる。よく知られているが、この類似性は意味が薄いとされる。この程度なら、他の言語でもありうるというのがその論拠。つまり、単語の類似性分析では、日本語の類縁性の推測はできないという理屈。しかし、そんなのはトンデモ論である。当たり前だが、どのような単語で見るべきかが鍵なのである。
 と言っても、輸入単語が大好きな上、同一意味で異なる発音の単語が複数ある状況からすれば、それは極めて難しい。しかし、それをあきらめるべきではなかろう。

 そこで少し調べてみたくなった。
 最初は「刺青」を知りたかったが、無理だった。(英語"tatto"は欧州の輸入語の変化形だと思われ、この言葉なら相当古そう。魏志倭人伝では、倭人はイレズミありとされているし。)
 「入れ墨」はどう見ても現代語だが、その古語が残念ながらわからなかったのである。せいぜいが「彫り物」という言葉だが、これがイレズミのコンセプトとして適切とも思えないし。このことは、文字使用を開始した頃、すでに死語だったということかも。(結構重要そうな単語でも、用済みとなれば捨て去る体質かな。もっとも、言葉とは万国共通にそういうものかも知れぬが。)

 そこで、次に、注目したのが「火/炎」。(呉音:"カ", 唐音:"コ", 訓:"ヒ", "ホ"[火の尾])
 古事記では、出産時の火傷の話を重要視しており、その意義は素人にはよくわからないが、ともあれ信仰も関係していそうだから選んだのである。これなら、そうそう簡単に言葉を代えることは無いと見た訳。
 しかし、アイヌ語を眺めて、調べる気が失せた。
 "ape"とされているが、「火」はそれだけでなく、色々な言葉として登場する。ところが、それは"ape"とは無縁な発音。このことは、「火」のコンセプトが複数あるということ。例えば、「炉」も「火」で、こちらは"hoka"。「火棚」は"tuna"で、「火打ち」は"piwci"。これでは比較対象としてはえらくまずい。
 ただ、このお陰で楽しめたが。・・・日本語として今でも広く通用する「ホカホカ」はアイヌ語が発祥かも知れぬ。逆に、「火打ち」は輸出かな。"tuna"とは実は神「棚」か。(無文字社会の上、部族の違いも大きいだろうから、専門家でもこうした推定の妥当性検証は無理だろうが、様々な解説書はありそう。まあ、素人は気にせず何とでも言えるが。)

 ともかく、語義が曖昧な単語比較はアカンということで、「火/炎」は止めたのである。だいたい、日本語にしても、「日/陽」も「火」に習合していそうなので厄介そのもの。

 ただ、この過程でわかったことがある。
 太平洋の島嶼の言語紹介は少なくないが、「火」の単語が紹介されていないのである。現代では、火事も稀だし、ガスや電気で調理ができるから、「火」の意義が薄いのだろう。しかも信仰から「火」が消えてしまったし。
 それでも、ハワイ語やマウイ語では"ahi"との記述はあった。小生の記憶では、(キハダ)マグロも"ahi"なので、100%信用しかねるところ。ただ、インドネシア語は"api"で、タガログ語は"apoy"だから、表記が違うがほぼ同じ音。多分、間違っていないと思う。
 と言っても、日本語の"ヒ"は"ahi"の、ア抜きという見方は強引すぎるだろう。

--- 「眼」以外で注目すべき単語がある。 ---
 ここでご注意願いたいのは、「眼」以外の単語に着目すれば、アイヌ語は近いとも言える点。そんなことがありえるのが、日本語の一大特徴でもあろう。人種的にも、言語的にも雑種ということ。

 それは、ご存知のように「神」である。
 言うまでもなく"kamuy"。これを末尾母音型発音に変換すれば、"カムイ"または"カミ"にしかならないから、日本語と同一と見てよいだろう。両民族ともアニミズムの世界に生きていたから、日本列島に住む神(霊)は「カミ」と呼ばれていたということを意味していよう。
 しかも「神に祈る」は"kamuy'nomi"だ。リエゾンで考えれば、"inom"という動詞になると思われ、語幹「イノ」は全く同じ。

 この辺りの言葉が一致しているということは宗教的に同一コミュニティを作っていたことを示唆していそうである。海彦・山彦族は、交易の前に部族間で盛大な宗教儀式を行っただろうから、その関係もあるかも。
 それをさらに強く感じさせるアイヌ語がある。"kamuy'tek'kot"だ。"両民族には同じ神の血が流れているという証拠。そう、「蒙古斑」である。
 ただ、どちらが、日本列島の先住民かはよくわからない。

 尚、ついでながら、「火の神」は"kamuy'huci"。「雷神」が"kamuy'hum"。上述した"sik"ではない。子音"h"や"f"はいかにも、猛火が発する風音的であり、"ahi"とか、 "ヒ"、”fire”は、ごく自然に発生した単語の気がする。

--- 日本語と同居していたアイヌ語は大陸語系だと思う。 ---
 ちなみに、アイヌ語は音節語尾として子音を使うし、子音重複もある。この点で日本語とは違い、韓国語と類似。
 それだけでなんとなく感じるものがある。アイヌ民族はどうみたところで、川と森と言うか、鮭と熊を神を崇める狩猟民族だからだ。大陸で言えば、ツングース系の生活スタイル。(中国にはその系譜の少数民族も存在する。)当然ながら、森を焼き払い野原にしたい遊牧民に北方に追いやられたし、灌漑畑作民からは奥地に押し込められたため、少数民族化した訳。アイヌ民族と境遇はよく似ている。
     「騎馬民族」[2010.11.30]

 こうした狩猟民族が一大勢力として活躍していた時期もあったのである。渤海や高句麗がそれに当たるのは間違いなかろう。ただ、残念なことに、これらの民族の資料がほとんど残っていない。従って、狩猟民族言語の推定のしようがないのが実情。

 小生は、アイヌ語や朝鮮語の基層はツングース族だと思う。これに対して、日本語の基層は島嶼言語で、様々な言語との雑種。当然ながら、ツングース族言語との類似性も大いにある筈。
 根本的には違う言語だが、よく似ているというのも矛盾した話だが、それが 現実。主語述語という順番や、助詞の使い方はそっくりで、それこそ単語さえ変えさえすれば、すぐに文章をつくれるのだ。小生も、これが同根の証拠でなくて、なんなんだと考えていた。しかし、世界を眺めれば、この類の類似性を重視するのは間違いと気付かされるのである。

 文字で国家的統一を図ろうと企てれば、どうしても、主語述語といった語順を重要したくなる。一意的な文章にしないと、支配することが難しくなるからである。漢語社会はもともと語順なくしては意味が全くわからないし、アルファベット社会でも、結局のところ、語順文化が支配的になってしまった。英語など、仮主語まで使って、語順を重視したのだから圧巻。これが文明化の流れなのだ。

 一方、無文字の部族社会では、当たり前だが、語順重視思想は通用しない。話し手と聞き手という会話の場がまず設定されるから、主語無し文章でも一向にかまわないし、語順など気にしなくても意思疎通はできるからだ。しかし、いつまでも、無文字で済ます訳にはいかないから、漢字を使ったりする訳だが、助詞を使うなら、中国語に合わせる必要がない訳で、中国の周囲は語順が異なる文法になったというだけのこと。
 恣意的に反中国に徹したというより、会話的言語習慣を維持したに過ぎまい。誰が考えたところで、文型としては、述語は最初か最後。中国語では主語が頭なのだから、それに合わせればSOVになるのは当然の結果。
 それに、隣り合わせの民族で、交流密度も高かったなら、構文も似てきて当たり前。
 それだけのことにすぎないのでは。


 「超日本語大研究」へ>>>    トップ頁へ>>>
 (C) 2011 RandDManagement.com