↑ トップ頁へ |
2010.8.17 |
|
|
今に伝わる土器文化…日本は、全国「陶磁器の街」だらけ。陶磁器大好き民族ということだろうか。→ [一覧表] “陶器産業振興策の問題点” (2005年9月7日) 小生も、創作というほどでもないが、手びねり茶碗を作ったことがある。場所は都会のマンションの一室。ここで、ほとんどなんでも試せるのである。土はどこからでも調達できるし、品質の高い様々な釉薬も簡単に入手できる。部屋に持ち込まれた大型電気炉はコンピュータコントロールで焼成条件は思いのままという。ただ、例外は特別な土で、高名作家の独占であることが多いそうだ。 ○○焼を作りたいなら、技法が公開されている限り、どこだろうができるということ。地場産業と称するが、OEMのブランド商売になりかねない状況なのである。 まあ、そんな話はおいておいて、ここでは、土器の話。・・・埴輪に関係する賀茂波爾神社の存在を知り、自分なりに“気付き”があったので、書いてみたくなっただけなのだが。 → “焼き物への思い入れ 京都散策” (2010年8月6日) 日本人は、陶磁器大好き族とされるが、実は、土器に対するただならぬ愛着心が精神の奥底に潜んでいるからではないか。これが小生の結論。・・・普通、芸術とは作者の魂の叫びを込めたようなものとされる。日本では、陶芸作品をその範疇に考えるが、普通は工芸品である。それだけでも、なにか強い思い込みがあることがわかる。 それに、芸術と見なしてもよいのだが、作家の自己表現としての作品と呼べるものか疑問なものが多い。 備前、信楽、伊賀の器が典型だが、自然釉のたまたま生じた味わいを“芸術”と見るからだ。“見立て”に価値を見出すわけで、芸術感覚が、西洋とは大きく違うことがわかる。 この違いがどうして生まれるかだ。小生は、野焼きの土器で祭祀を行った頃の感覚が残っているからではないかと見ている。楽茶碗にしても、眺めていると、なんとなく土器作りの精神を受け継ぐものに思えてきたりするからだ。それに、常滑の朱泥急須でお茶を飲みたくなるのも、赤色土器の面影があるからでは。まあ、そんな感覚に陥ったのである。 と言っても、こんな見方が妥当かは、なんとも。 例えば、常滑の急須にしても、文明開化の波に洗われる頃、中国の宜興から技術導入して始まったもの。明らかに、土器とは無縁。 文人好みの宜興朱泥のレプリカとして、日本のインテリ層に売り込み、一世風靡したというのが実像だろう。従って、朱泥急須に、“赤色土器の面影”というのはこじ付けと考えるしかない。 それに、もともとの宜興モノにしてから、土器調を尊ぶ精神などなさそう。 中華街でで売られている茶器を眺めると、好まれるのは、多孔質のざらざら品で、どちらかといえば、金属鋳物のような物が主流。ほぼ朱一色で、赤土の“柔らかさ”的質感を醸す急須(茶壷)は少数派だ。 ただ、たいていが汕頭潮州モノで宜興品は少数だから正しいのかはわからぬが、紫泥や緑泥が好かれているのは間違いないところだろう。(朱色で、よくできていて美しいと感じるのは台湾製だったりする。) まあ、こうなるのは、茶の煎れ方の違いもあるが、青銅器的な“硬い”雰囲気のものが高級品とされているということではないか。 よく考えれば、日本の煎茶の飲み方だと、無数の気孔の材質でなければ美味しくならない訳でもないから、実用性で言えば、宜興タイプが優れているとも言い難い。実際、青木木米(1767〜1833年)にしても、様々な素材の急須を作っている位だ。 話が長くなったが、朱泥を愛する気分は、実は“宜興”からではないのかも知れないということを言いたかったにすぎない。この見方、どんなものだろう。 まあ、いい加減な話だが、そう思うのは、昔、常滑を訪れたことがあるせいもある。 この地の歴史はなかなか面白い。文革で伝統を失った景徳鎮や、作家ブランドの職人が伝統を護ってきた宜興とは全く性格が違う社会なのだ。なんといっても、驚かされるのは、ここは、古代からの焼き物の地だったという点。産業の永続性では比類すべくもないのだ。ところが、“宜興”技術の導入でわかるように、守旧と言う訳ではないのだ。 幕末頃、二代目伊奈長三が“藻がけ”(塩系釉薬利用技術ということ)を始めているし、明治期には土管やタイル、さらには衛生陶器といった新しい取り組みを行ってきたのである。ただ、流れに乗るために、古いものを捨てて変身しているとも言い難いとことがある。現代の常滑の壺にしても、赤色の粘土を縄状の輪にして、積み重ねでから表面を平滑にして作られているのだとか。勿論、釉薬無しだが、そのかわり塩水を振りかけるそうだ。もちろん、これを、民芸風情を出すための技巧と見なすこともできるが、古代土器の精神を受け継いでいるとも思えるのである。 そんなこともあり、常滑の朱泥急須に、どうしても“赤色土器の面影”を見てしまうのだ。如何なものか。 この場合、ポイントはあくまでも、“赤色”である。わざわざ、鉄分が多い赤土粘土で作ることに意味がある。日本における赤土の地域は、関東ローム層でわかる通り、普通は火山灰からできている。本来は農耕には適していない場所である。ところが、そんな土に古代人は力を感じていたに違いないのである。そして、焼き物には、人知を超える何かが篭っていると見ていたのでは。 こんなことをつい考えてしまうのは、常滑は、塩と赤土で作る土錘の一大産地だったことを知ったからでもある。 今では、滅多に見かけなくなった土錘だが、小生が房総の臨海学校に行った頃は、まだあった。地元の人から聞いた覚えがうっすらあるだけで、どこまで本当かはわからぬが、田圃の赤土で竹輪のようなものを作り、じっくり乾燥させておき、冬場に浜で野焼きして作るものらしい。廃材だけでなく、藻や枯れた篠竹を使うというから、常滑の感覚そっくり。それに、海人が山人から赤土を貰うわけで、古代からの交流が残っていそう。 これだけでは、勝手な想像にすぎないが、色々比較するとなんとなく得心させられる。 朝鮮半島だが、ここには土器系の民具“オンギ[甕器]”がある。小生は、熱海梅園の韓国庭園でしか見たことがないが、田舎では庭に多数放置されていて、キムチ用に日常的に使われているだそうだ。もちろん、キムチだけでなく、他の発酵品作りや野菜入れに使うのだろうが、ともかくは実用本位。 朝鮮王朝ではもともと焼き物職人は低い身分。白磁や青磁とも違うので、オンギを大切に思う気持ちがあったとは思えない。民芸運動で見直されているだけでは。しかも、歴史的にも、高麗か王朝期に始まった容器だそうだ。素材も手近な黄土だし、古代の土器の精神とは無縁と見てよいだろう。 → “「韓国の手仕事」呼吸するキムチ甕―甕器(オンギ)” (C) 韓国観光公社 タイ辺りの土器は、よくわからないが、観光客相手の壷系焼き物は“黒色”が多い。思うに、仏教国だから、泥を特段好む理由もなかろう。 ただ、インドでは土器にそれなりの思い入れはあるのかも。よく知られるように、ヒンドゥー教の儀礼には土器は不可欠なのだ。これは古代から続いていそうだ。それに、結婚式のような集まりでも、使い捨て食器として土器が使われる。穢れ感覚がある訳で、日本の“かわらけ”と全く同じ感覚。ただ、赤土へのこだわりはなさそうである。 ふ〜ん、その程度かとなりかねないが、忘れているものがある。“赤瓦”である。もっぱら石州瓦だが、それは“石見の国”の産でなればこそでは。古代イメージあっての人気品ではないか。 だが、小生にとって“赤瓦”といえば、それは八重山諸島。 → “石垣島のウリ” (2006年7月12日)、 “すいじ貝の話” (2007年4月27日) これはどうみても、赤土好みそのもの。本土の瓦は、飛鳥寺が初と言われており、仏教伝来と一緒に到来。瓦に、仏教の影響が無いとは考えられない。しかし、先島にはそれが無いから純粋な好みだ。・・・素人の直感からすると、黒潮流れる火山列島(火山灰赤土)のモンゴロイド漁撈民文化の象徴である。 素人の、いい加減な話に聞こえるだろうが、実は、これはトンデモ論という訳でもない。 西表の傍の小島、新城(あらぐすく)はもともと陶器の産地であり、ここでは赤色土器が作られていたのである。今ではその面影は全くないが、土器は本土以上に重要なものだった筈なのである。江戸幕府と関係ができるまでは、大陸のような金属利用を嫌っていた土地柄だからだ。土器に対する思い入れもさぞかし深かったに違いないのである。 間違えてはいけないが、ここでの土器作りは簡単な訳ではない。粘る赤土をそのまま焼けば割れるからである。砂を混ぜたいところだが、珊瑚だから、かえって壊れるのである。なにせ、復元には30年を要したのである。[西念秋夫: 「八重山諸島の焼き物、パナリ土器」 淡交2004年5月号 “特集 南の島で楽しむお茶”] そうそう、海砂と粘土で作る土器なら、太平洋の島々にもある。トンガで知られる“ラピタ文化”である。文字を利用せず、金属を使わず、漁労中心で、刺青好きな、貝食族の社会である。コレ日本の古代の特徴と全く同じ。 → “ラピタ土器−南太平洋の絆−” Wave of Pacifika 2002 (C) 笹川平和財団 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
(C) 1999-2010 RandDManagement.com |