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2014.7.28

養殖に見る倭と大陸の違い

浙江省青田県竜現村は<水田養魚>で「世界農業遺産」に選定されている。
漢の時代の土器に、水田へと泳ぐ魚が描かれているので、文化的に重要ということで保護対象になったようだ。

雑草を食べる魚を田圃に放つ手法であり、軽鴨同様に無農薬農法とも言えるので、注目を浴びているようだ。(現在の国内市場を見る限り、鯉も軽鴨も商品になりにくいから、精神論でしかない。中国では古代から水田にはアヒルだが、倭はそのやり方をえらく嫌ったようだ。)
尚、魚は虫も食べるという話もあるらしいが、おそらくは、それが主体ではなかろう。

貴州省従江県や江蘇省にも類似の仕組みはあるらしいが、そちらは現代化しているということで選に漏れたようだ。
魚は当然ながら、である。写真を見ると、日本の鯉とは若干形が違うようにも思える。そんなこともあるのか、鯉ではなく、「田魚」と呼ばれている。田で飼う鯉という意味ではなく別な魚という感覚がありそう。
但し、生物学的には皆同じ鯉ということになるらしい。

ここまでなら驚くことではないが、色を知るとビックリ。黒もあるが、赤、黄、白が主流。中国のことだから、当然ながら、縁起かつぎで紅が一番人気だろう。どうも、苦労を重ねて、紅色種を作りだしたようだ。(赤・黄・白は目立つから絶滅必至。天然種である筈がない。)
日本の常識では、緋鯉は、「錦」鯉系統に当たるから、その手の鯉はもっぱら愛玩用。決して食用にはしない。どこか根本的なところで日中の発想に違いがありそう。

日本の鯉は現時点では大陸からの外来種が過半を占めているそうだから、養殖用に取り入れた筈だが、色までは真似したくなかったようである。
[日本産コイのルーツ解明と保全へのシナリオ2006-2008年度科研費事業]
当然ながら、江戸期前半までに描かれた鯉には色付きなど皆無。江戸後期に越後の山古志村で食用のなかから突然変異種が見つかり、愛玩用にとっておいたらしい。普及が始まるのには、時間を要したようで、大正期の博覧会で知名度が上がってから広がったという。
ひょっとすると、大陸の江南から、はるばる山越まで、赤白の遺伝子を持った黒色「田魚」がやってきていたということかも。

そもそも、鯉を水田で育てることになると、かなりの水深が必要となる。田植えの仕方も変わる筈だし、畔も高くするなどえらく面倒である。池で幼魚を育てる必要もあり、こちらも、そう簡単にできるとは思えない。

従って、日本の田圃に合う魚は鯉ではなく、泥鰌と小鮒だろう。これらを捕獲する漁撈活動は活発だった思うが、養魚ではなかろう。幼魚を田に引き込むことはするのだから半養魚と言えなくもないが。
即考えると、これこそが、典型的な日本流とは言えまいか。

要するに、基本自給型のナンデモ屋稼業なのである。農耕以外に、山で狩猟や茸採りをするは、漁撈もすれば、職人仕事や食品加工も。どれかに特化して生産性向上を狙うようなことはしないのである。
中国型というか、大陸は、これとは正反対。ビジネスとして、ある意味、複雑な仕組みを作って、商品経済にのせ大発展を狙うのが基本。この体質は古代から。
倭は、それを見習うことはなかったようだ。

その体質がはっきり見てとれるのが、<淡水養殖的四大家魚>。
魚の導入は試されたと思うが、日本にはついぞ定着することはなかった。
草と家畜の糞さえ与えておけば、棲み分けている4種の魚が育つという合理的な仕組みにもかかわらずだ。4種だが、ほとんどモノカルチャーの生産性重視型産業なので、倭の人々はお好みではなかったということでは。
【餌】底泥棲息貝(田螺,蚌)
  ・・・底魚か。

青魚
(→2007年6月15日)

【餌】植物性プランクトン
魚/白
(→2007年6月22日)

【餌】動物性プランクトン
魚/黒
(→2007年6月29日)

【餌】草
  ・・・与えれば食す。

草魚/
(→2007年7月6日)



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