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「我的漢語」
2016年1月29日

大陸での蘆の扱い

古事記から見ると、日本の古代はそれこそ葦トーテム社会だったかのよう。
   「葦の風土(古事記) 」[2016年1月4日]
   「葦の風土(西洋) 」[2015年12月24日]

中国でははたしてどうなのか、漢詩の世界で眺めてみたい。

葦は重要な生活用品目だったと見てよさそう。
 ・・・八月。・・・ (八月葦を刈る.)
  [詩經 國風 (周の発祥の地@陜西省南部) 「七月」] [→]

有名なのは、やはり詩経のようである。
中州の葦の詩であり、字面での意味はわかるが、それが何を意味しているのかは定かではない。詩というより、民衆の歌謡を文字化したものか。

  「蒹」  詩経 秦風
 蒹蒼蒼,白露為霜。所謂伊人,在水一方。
 遡從之,道阻且長。遡游從之,宛在水中央。
 蒹
萋萋,白露未晞。所謂伊人,在水之
 遡從之,道阻且躋。遡游從之,宛在水中
 蒹
采采,白露未已。所謂伊人,在水之
 遡從之,道阻且右。遡游從之,宛在水中沚。

   蒹葭=オギ[荻]とアシ[葦]

蘆を比喩的に用いているのは、孔門十哲の一人、魯国出身の閔子騫[536B.C.-487B.C.]の話。厳冬期に実子には綿入りにもかかわらず、閔子騫には蘆穂入の着物を与えて虐待した継母を弁護したことで知られる。
蘆に良いイメージが無かったからこその逸話だと思われる。

閔子騫是在二十四孝中。婦孺皆悉。因有花背上寒之句。故取爲名。據舊説。閔損、字子騫。魯人。孔子弟子。性至孝。父娶繼母生二子。子騫上事父母。下順兄弟。人無間言。値嚴冬。繼母以木棉絮襖衣己二子。而以花爲絮衣子騫。紿其父云皆用棉。父不知也。一日父命子騫御車。寒不能前。怒而笞之。子騫受責。終不明言。父謂爾衣甚厚。何故云冷。繼母亦含糊應之。父後疑有他故。拆衣視之。悲憤欲出繼母。子騫懇父留之。父猶不允。子騫哭云。母在一子寒。母去三子單。父遂留母。母亦感悟。篤愛子騫。
  [曲海總目提要/卷十八/蘆花記]

さて、白楽天だが、どんなイメージかは、江州の名目的な閑職(司馬)に左遷された時の詩でよくわかる。その地は文化的な魅力はほとんどなかったようで、「住近江地低濕, 黄苦竹繞宅生。[琵琶行@816年]といった環境との指摘。蘆が茂ったままで、そのまま枯れていくという辺鄙な地を描いている訳だ。
有名な詩だから、日本に伝わって、葦に"悪し"イメージが生まれた可能性があろう。そこで"良し"と呼ぶ風潮が生まれたと解釈できるかも。

その白楽天と、えらく馬があったのが元。平明な詩作を目指すことで、通じあったのかも。
こちらは春のシーンである。これならまさしく"良し"だろう。

 「寄楽天」  唐・元[779-831]
 莫嗟虚老海西,天下風光数会稽。
 靈泛橋前百里鏡,石帆山五云溪。

 氷消田地
錐短。春入枝条柳眼低。
 安得故人生羽翼,飛来相伴醉如泥。


 「早春尋李校書」  唐・元
 款款春風澹澹云,柳枝低作翠裙。
 梅含舌兼紅气,江弄瓊花散緑紋。

 帶霧山鴬啼尚小,穿沙
芦蘆叶纔分。
 今朝何事偏相,撩乱芳情最是君。


「蒹葭」という詩経の表現は消えた訳ではなかった。許渾は、「楊柳」との組み表現で使っている。詩経のように、河川の中州に蒹葭が生えており、陸側には柳も元気に育っている様子を彷彿させようとの目論見か。

 「泊松江渡」  唐・許渾[791-854]
 漠漠故宮地,月凉風露幽。
 鳴荒戍曉,雁過古城秋。

 楊柳北歸路,
南渡舟。
 去今已遠,更上望京楼。


 「咸陽城東楼」  唐・許渾
 一上高城万里愁,楊柳似汀洲。
 溪云初起日沈閣,山雨欲来風満楼。

 鳥下緑蕪秦苑夕,蝉鳴黄叶漢宮秋。
 行人莫問当年事,故国東来渭水流。


 「送上元王明府赴任」  唐・許渾
 莫言名重懶駆,六代江山碧海西。
 日照
明楚塞,烟分楊柳見隋堤。

 荒城樹暗沈書浦,旧宅花連罨画溪。
 官満定知帰未得,九重霄漢有丹梯。


 「句」  唐・許渾
 水暗蛍知夜,楊柳風高鴈送秋。
 露滴曉花疑錦綉,風吹寒竹認笙簧。


それからだいぶ後世になるが、蘇軾は「惠崇春江晩景二首 其一」で、"蒿満地芽短"と詠んでいる。 [→]
春の風景なので、桃の花を取り上げているのだが、食に用いる草の香りも加えたということのようだ。
楊柳と蒹葭の表現も踏襲されている。

 「往年,宿瓜歩,梦中得小絶,示謝民師」 蘇軾[1037-1101]
 呉塞空碧海,隋宮楊柳只金堤。
 春風自恨无情水,吹得東流竟日西。


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