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「新風土論」
2015年8月17日

トーテムに対する姿勢

中華帝国が発案した最高傑作は十二支「生肖」。[→]
と言うことで、素人なりに、なけなしの脳味噌を使いながら、ウエブ情報に頼ってトーテム発祥話を続けている。その肝は「馬」。

一見、12生肖横並びに見えるが、実質的トップの位置は"午"。つまり、「南船北馬」といったような北の代名詞ではなく、中華帝国の隠れ代表。竜をシンボルにするにしても、その根底には天空を掛け巡る馬イメージがつきまとっていると見なすのである。

何故かと言えば、"馬"とは、"軍隊"の象徴だから。その重要性は毛沢東の時代になってもなんらかわらないどころか、逆である。中華帝国の政治思想は、昔も今も、"鉄砲から政権が生まれる。"である。つまり、「馬」とは、弓と斧を駆使する騎馬を意味していると見る訳。その発祥は間違いなくスキタイ。
従って、馬トーテムとは、スキタイの祖ということになる。[→]

このスキタイ/斯基泰だが、紀元前6世紀頃に、現在のウクライナ(ドニエプル川,ドン川)南部の草原地帯を根城にしていた諸民族を指す。(王族,遊牧,農民,農耕,別種,等.)3種の神器(軍事は斧、宗教は黄金の盃、農耕は犂.)が規定されていたようで、優れた金属精錬技術を保有していたことになる。鉄器製作技術は、ヒッタイトが紀元前13世紀頃にすでに確立していたが、騎馬の概念は無く、そこに至るまでに随分と時間がかかったことになる。
だが、匈奴の活動が目だつ頃になると、その勢力圏は西はカラコルム山脈迄広がっていたようだ。
南のペルシア(当時の国名はパルティア)との境界は黒海-コーカサス山脈-カスピ海-カラクム砂漠/アルボルズ山脈。(現在のジョージア/旧名グルジアやアルメリアがペルシア側の端にあたる。)そして、西南に当たるカシミールも勢力圏内だったようだ。アフガニスタンの大部分もその影響下にあったことになる。

しかし、これだけ広大な文化圏にもかかわらず、歴史教科書で学ぶ内容は薄っぺらい。これは、恣意的に無視しているのではなく、この地域に文字情報が残っていない上、遺跡発掘も限定的だから、どうにもならないのである。だが、それこそが、騎馬民族史の特徴でもあろう。後世にモノが残らないのだ。
草原の民は、あくまでも口承重視。そして、騎馬文化とは、身軽な移動生活から生まれるもの。本来的に、経典や建築物とは無縁。
と言っても、定着農耕や金属精錬・鍛冶なくしては、文化生活が成り立たない。交易拠点は不可欠。そのため、王権(軍事)や宗権(祭祀)という観点では補完的な役割を担っているにすぎぬが、立派な大都市が生まれることはありえる。ただ、いくら大都市だろうが、何時でも破壊され見捨てられる可能性があるということ。

この草原の民だが、スキタイに留まらない。ユーラシアを東西に結ぶ「草の道」を支える民族は根底的にはすべて同類。「風土論」を展開する場合、ココの理解が極めて重要。
誤解を招きやすい箇所でもあるからだ。
「草の道」は、一般的にはシルクロードの北側の東西交易路とされる。そのシルクロードは「タリム盆地の砂漠道」でもあり、草原と砂漠として対比しがちだが、これは実態を見間違えるから、避けた方がよい。草原の道とは、オアシス都市を抱える砂漠道だからだ。地図を見ればそれはすぐにわかる筈。カスピ海、アラル海、バルハシ湖の辺りには、必ず砂漠がある。しかし、同時に流れ込む川もあり、その周辺だけは豊かな緑に覆われる。山岳部に近い地域も同じで、雪解け水が流れる内陸川の沿岸だけが植物繁茂域で、外れると乾燥地域。
実際、西のモンゴルへと向かえば広大なゴビ砂漠。さらに西の、曲がりくねった黄河辺りは乾燥黄土。
但し、ゴビ砂漠でさえ、雨季になると、大草原部分が発生するのだ。そうなれば、まさしく「草原の道」。そこは騎馬民族が差配する世界であり、中華帝国は馬の道には全く手出しがができなかったのである。だからこそ、致し方なく、駱駝の道に頼ることになったと言えよう。中華帝国にとって、駱駝は自らの力のなさの象徴でもある。生肖の候補にも挙げたくない動物の筈。

そんな発想をすると、生肖とは実は中華帝国考案ではなく、草原の民のアイデアを拝借して発展させたという気になってくる。もちろん、十二支があった訳ではなく、例えば、砂漠の雨季を雷神が飛び回る頃と見なし、それが明けて陽光が注ぎ、草が驚異的なスピードで伸びる環境になったら、馬に乗って走る季節到来と呼んでいた可能性が高かろう。文字を持たない草原の民は、季節表現もシンボル化するしかないからだ。早くから官僚システムが支えてきた中華帝国は、ここに目をつけ、生肖を導入したのでは。中華文献がその由来話に触れない理由はココにある。
ともあれ、帝国らしさが醸し出されるように、代表的なトーテムを揃えたのは確かだと思う。

つまり、中華帝国のトーテムに対する姿勢とは、各トーテムの意味を曖昧化し、並列にすること。これによって、すべてが帝国の天子の守護役と化す訳だ。

このような方針が当たり前と思ってはならない。

ガレ場的な沙漠のなかに一筋流れるナイル川の上流と下流の帝国には、多くのトーテムが乱立しているが、これとは全く異なる。見かけ、いかにも並列的だが、それぞれに役割がある上に、王のトーテムが最高位に就く。その動物は自明ではなく、代替されたりする。ナイルの恩恵が得られない王のトーテムは地位を失うのである。小生は、十二支の「猿」は、この地域のトーテムだったから選ばれたと見る。それは、コブラ、鷹、フンコロガシといったナイル川に存在する動物ではないからでもある。そして、身近にいる猫とも全く異なる扱い。[→]

もちろん、天竺地域の「牛」の位置付けとも違う。
インド亜大陸でも、様々なトーテムが存在していた。例えば、アーリア系の貴種と思われる釈迦族もなんらかのトーテムがあった筈。釈尊はそのようなトーテム崇拝を無視したが、それは釈尊の思想的なものというより、すでに部族アイデンティティとしての意味を失っていたからだろう。インドでは、人間的神への信仰が早くに進み、神の乗り物として、牛、象、獅子、孔雀、等々が残ったのである。
ここは、草原や沙漠とは無縁。はるかかなたの地平線を眺め、突然の雷に畏怖を覚えるような地域とは違う。雲が湧き、多雨で、そこには悠久の流れのガンジス川。食糧不足に直面することは考えにくいが、高温多湿だから、何時疫病死に見舞われてもおかしくない。悩みが根本的に違うのである。
従って、スキタイやナイルの民のトーテム、「馬[→]」や「猿[→]」と、インドの「牛[→]」の意味はかなり違う。しかし、それは十二支の生肖に起用する側にとってはどうでもよいこと。

と言うことで、トーテムに対する帝国の姿勢には、3つ存在することになる。
  トーテム並立の中華帝国
  最高位トーテムのナイル河帝国
  トーテム習合の印度帝国
ただ、この他にもつ一つ。

勿論、この他に、トーテム打倒の帝国がある。この地域でいえば、イスラム帝国がそれに該当する。経典宗教であるが、砂漠の思想と言うよりは、乾燥地帯の一大交易都市の宗教と言ってよいのでは。
細々した部族毎の異なる信仰を一つにまとめることができるから、大帝国化に合っている。
ただ、偶像崇拝を否定するので、スキタイのような、移動民の帝国には向かない。それに、コーラン的な歌謡だけならピッタリ適合するが、文字経典との親和性も悪い。
特に、前者は問題となろう。移動民にとっては、英雄の象徴としてのトーテムや、交流拠点を生み出した大恩人あるいは祖先を記念するなんらかの祭祀場は不可欠と思われるから。中央アジアへのイスラム布教は、これらをイスラムの聖地信仰として認めないと成り立たないのでは。
ただ、そんな困難がありながら、「草原の道」を通じてイスラム布教が進んだのは、交易が盛んになたからだろう。そして、草原地帯に定住者が増えたから。
遊牧を基調とする帝国は、どうしても「人頭税+家畜頭税」になってしまうが、農耕地域ではこれは不適。イスラム帝国型の「地租」でなければ。
従って、イスラム圏は、遊牧主体のモンゴルには浸透できなかったとも言えよう。

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