[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 日本の基底文化を考える [2018.7.15] ■■■ 鳥崇拝時代のノスタルジー[5] −庭つ鳥への想い− 古事記では、天の石屋戸での"長鳴鳥"、八千矛神の沼河比売への求婚で暁に鳴く"鶏"として登場する。[→] この鳥が野鳥なのか、飼鳥なのかははっきりしないが、鶏の出自は明らかに赤色野鶏であり、日本の場合は、野鳥と言っても家畜が逃亡し野生化しただけなので大佐は無い。原産地はインドシナ半島一帯〜雲貴高原〜アッサムと目されているが、移入ルートはわかっていない。 [→「庭鶏の出自が気になる」] 天の石屋戸での長鳴の意義ははっきりしていないが、岩戸目前で性的舞踏を挙行し、それに集団で興じたのだから、単なる"朝が来た〜。"のお知らせではないことは確か。 基本的には、"男女のなからひには、必鶏が割り込んで来た"という見方があっていそう。[折口信夫:「鶏鳴と神楽と」1920年] 神楽でも、その精神が今もって伝わっているし。 "には鳥は かけろと鳴きぬなり。起きよ。おきよ。我がひと夜妻。人もこそ見れ。"(催馬楽) ここから、"かけ"という名称は鳴き声由来と判断されている訳である。"コケコッコー"とは聞こえなかったことになろう。江戸期でも、文字遊びかも知れぬが、"トーテンコー東天紅"と記載されており、明治維新を経て文部官僚が制定した擬音である。おそらく、海外を参考にして考案したのだと思われる。 鶏は当然ながら良質な食材だし、飼育も容易にもかかわらず、大陸と違って鶏肉食には積極的ではなかったのは、そんな情緒感があったからかも。野鳥は喜んで食していたのだから、仏教信仰からではなさそう。 「萬葉集」で見ておこう。 "庭津鳥"【可鶏かけ】はもともとは一体表現だったのだと思われる。 ▼[巻七#1413] 庭つ鳥 鶏の垂り尾の 乱れ尾の 長き心も 思ほえぬかも 換え言葉もある。"家鳥"【可鶏かけ】。 ▼[巻十三#3310] 隠国の 泊瀬の国に さよばひに 吾が来れば たな曇り 雪は降り来ぬ さ曇り 雨は降り来ぬ 野つ鳥 雉は響む 家つ鳥 鶏も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りて吾が寝む この戸開かせ 2つ並べ無くて自明ということで、可鶏かけは省略するようになttのだろう。そこで、【庭鳥にはつとり】が独立の単語になったと考えるのが自然。 ▼[巻十二#3094] 物思ふと 寝ず起きたる 朝明には 侘びて鳴くなり 鶏/にはつとりさへ ただ、時告げ役の場合は【鶏】しか使えまい。 ▼寄物陳思[巻十一#2800,2803] 暁と 鶏は鳴くなり よしゑやし 独り寝る夜は 明けば明けぬとも 里中に 鳴くなる鶏の 呼び立てて いたくは泣かぬ 隠り妻はも 雪中の【鶏】という表現もある。 ▼ここに、諸人酒酣にして、更深鶏鳴く。此に因りて主人内藏伊美吉繩麻呂がよめる歌一首[巻十九#4233] うち羽振き 鶏は鳴くとも かくばかり 降り敷く雪に 君いまさめやも ▼守大伴宿祢家持が和ふる歌一首 [巻十九#4234] 鳴く鶏は いやしき鳴けど 降る雪の 千重に積めこそ 吾が立ちかてね 「【鶏】が鳴く"東"」というパターンも出来上がっているようだ。東国出征を余儀なくされ、恋しき妻と離れての情感は"鶏"しかあるまいということだろうか。 ▼防人の悲別の心を追痛てよめる歌一首、また短歌 反し歌[巻二十#4331, #4333] 天皇の・・・四方の国には 人多に 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向かひ かへり見せずて 勇みたる・・・ 鶏が鳴く 東男の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み ▼勝宝元年十一月十二日。物貿易せらる下吏、謹みて貿易の人断る庁官司の 庁の下に訴ふ。[巻十八#4131] 鶏が鳴く 東をさして 誇へしに 行かむと思へど よしもさねなし ▼陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌[巻十八#4094] 葦原の 瑞穂の国を 天下り・・・たのしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 奏し賜へれ・・・ ▼別れの悲しみの歌[巻十ニ#3194] 息の緒に 吾が思ふ君は 鶏が鳴く 東の坂を 今日か越ゆらむ ▼足柄の坂を過ぐるとき、死れる人を見てよめる歌一首[巻九#1800] 小垣内の・・・父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏が鳴く 東の国の 畏きや・・・ ▼勝鹿の真間娘子を詠める歌一首、また短歌[巻九#1807] 鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の・・・ ▼筑波岳に登りて、丹比真人国人がよめる歌一首、また短歌[巻三#382] 鶏が鳴く 東の国に 高山は 多にあれども 双神の 貴き山の 並み立ちの・・・ ▼高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌[巻二#199] ・・・鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて 千磐破る 人を和せと 奉ろはぬ・・・ 玄宗は闘鶏を好んだらしいから、日本でも人気を呼んでいたろうに、万葉的風土には合わなかったと見える。 [→「酉陽雑俎」の面白さ]"闘鶏"] (Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年) 本シリーズ−INDEX> 超日本語大研究−INDEX> 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |