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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.7.27] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[17]
−百済を想い起こす林禽系渡り鳥−

"あとり(集鳥)"[→]が渡り鳥の一角を一大群の代表とすれば、その一族に特化タイプが色々ある筈である。"いすか(交喙)"[→]は松の実食用の嘴だが、他の類縁もその見方で眺めるとよいのでは。

と言うことで、木の実喰いの"いかる"と"ひめ"の2種をあげておこう。
どちらも、地上に落ちた実の堅い殻を強力な嘴で割って食べるのがお得意。見かけは文鳥型嘴でしかない。あちらは稗の薄い殻を剥く程度でしかないが、力量が全く違うのだ。
瞬時に堅い殻を割ることができるので、大量に食べることができる。大きな鳥顔負けの凄腕。当然、相当な訓練が必要となるから、幼鳥期は簡単にできない。

"いかる"は、地名の斑鳩の語源と見られているが、鳩の系統の斑紋様という意味ではなく、嘴は鳩の力を持つということだと思う。
その喰い技に注目した言い方だと、"豆回し"と呼ばれることがある。ただ、山鳩のように林禽だから、決して豆喰いの種ではない。
   鵤/桑/豆回しイカルいかる→斑鳩
"ひめ"はもちろん、"小いかる"。但し、習性はほとんど同じでも、色調は全く異なる。大と小という感覚での命名ではない。別な鳥だが、雄と雌の違いのようなものという意味だったと思われる。しかし、それでは拙いということで、シメという言葉に転じたのでは。
   /蝋嘴鳥シメひめ

さて、「萬葉集」での扱いだが、両者は同時に登場する。
冒頭の、国見、遊猟、の次ぎに収載されている、軍王が詠った行幸の歌の注記部分だ。
儀式の歌としての典型を採用したのだと思うが、ゴテゴテ調で語彙が並んでいるため、何をどのように寿いでいるのか、はなはだ理解し難い歌である。
讃岐国安益郡に幸いせる時、軍王の山を見てよみたまへる歌 [巻一#5]
霞立つ 長き春日の 暮れにける 別きも知らず むらきもの 心を痛み 鵺子鳥(虎鶫) うら嘆け居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王の 行幸の 山越す風の 独り居る 吾が衣手に 朝宵に 還らひぬれば 大夫と 思へる我も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人処女らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 情が下情
[概略の意味]
霞が立つ長い春の一日が、なんとはなしに暮れてしまった。その理由を知ることなどできぬ訳で、ただただ気弱くなった心が痛むだけ。虎鶫のように忍び泣きをしてしまうのだが、美しき襷を項に懸けると、丁度良いことに、遠い昔の天の神である我が大君が行幸なさった山を越えた風が吹いてくる。独り身で来ている我の衣の袖に、朝な夕なに、まるで還れとでもいうように。我は大夫なりと自覚してはいるものの、旅の草枕の状況にあれば、そんな思いを晴らす術がわからぬ。網の浦の海人乙女らが焼く塩のように、そんな思いに焼かれる訳で、それこそが我が心の内という訳である。
[巻一#5/6左注]
右、日本書紀ヲ検フルニ、讃岐国ニ幸スコト無シ。亦 軍王ハ詳ラカナラズ。但シ山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、紀ニ曰ク、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、伊豫ノ温湯ノ宮ニ幸セリト云ヘリ。一書ニ云ク、是ノ時宮ノ前ニ二ノ樹木在リ。此ノ二ノ樹ニ斑鳩比米二ノ鳥、大ニ集マレリ。時ニ勅シテ多ク稲穂ヲ掛ケテ之ヲ養ヒタマフ。乃チ作メル歌ト云ヘリ。若疑 此便ヨリ幸セルカ。
[概略の意味]
右だが、「日本書紀」で検分するに、讃岐国への行幸は記載無し。また、軍王だが、未だに詳らかになっていない。但し、山上億良大夫の類聚歌林で曰はく、「『記』には"天皇の十一年己亥の冬十二月己巳の朔、壬午に、伊予温湯の宮に行幸云々"と。」一書によれば、「是の時、宮の前に二本の樹木あり。この二樹に斑鳩と比米の二つの鳥が大いに集まった。時に勅し、多くの稲穂を掛けてこれを養はしめたのである。しかして、歌を作った云々」と。
と言うことで、ここより幸すとなったか。

反歌 [巻一#6]
山越しの 風を時じみ 寝る夜おちず 家なる妹を 懸けて偲ひつ
[概略の意味]
山を越して吹いて来る風が、時を分かたずやって来るのだが、寝る夜となれば、それが一晩も欠けることが無い。そんなことがあって、家に居る妻を、この風に掛けて偲んでいるのだ。
[ご注意]佐竹昭広,他:「新日本古典文学大系」巻一#5/6には、詠題一行のみしか収載されていない。
現在の場所で言えば高松市の国分寺町辺りでのこと。そのような記録が「日本書紀」に無いなら、伊予温湯宮行幸の途中に立ち寄ったと考えるしかない。一書とは、風土記だろうが、そこに、"いかる"と"ひめ"の2つの大集団がいたと記載されているとの指摘は面白い。
勅して、渡り鳥に大切な稲穂を餌として与えよというのだ。
そんな話と歌の関係性はよくわからぬ。
肝心の歌もはなはだわかりにくい。山を見て感じ入って作った作品かと思えば、網の浦の海人娘子が登場してくるからだ。

しかも、詠った当人の軍王は未詳と書いてある。当代随一の知識人だったろうに、表面だって書くことははばかられるということで、隠されたと見るべしと注意を喚起してくれているのだと思われる。
と言っても、軍王自体は訳のわからぬココだけの用語ではない。他文献から見ると、百済王族系氏族(同盟のための半ば人質として渡来)である可能性は高い。つまり、未詳とは、その誰かという点ではっきりしてしないということだろう。
そうだとすれば、この歌人は、漢文については超一流だが、和歌ではネイティブ表現では多少難ありということかも。しかし、和歌文化の知識という観点ではピカ一ということになろう。

このイカルガとヒメだが、小集団化する習性を利用した囮猟の対象だったとの歌が別途収載されている。
百済で慕われてい王族の軍王が渡来し、すべての渡来人をお米でもてなすべしとの勅命が発せられたので、多くの貴族が続々と日本列島にやって来たことを示唆しているのかも。鳥もち的魅力が準備されており、戦乱の地でしかない朝鮮半島の故国に帰る気がなくなり、近江の地に住みつくようになったという暗喩の歌かも。
尚、橘の開花は夏であり、渡ってくる季節ではない。萬葉集での扱いから見れば、昔の恋を追慕させる花であるし、常世花という意味にもとれる。
[巻十三#3239]
近江の海 泊八十あり 八十島の 島の崎々 あり立てる 花橘を ほつ枝に 黐引き懸け 中つ枝に (斑鳩)懸け しづ(下)枝に 比米を懸け 己が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに 戯ひ居るよ (斑鳩)比米
[口語訳]@佐竹昭広,他:「新日本古典文学大系」三 岩波書店
近江の海に湊は多数ある。多数の島の、島の崎ごとに昔からずっと立っている花橘よ、
上の枝には鳥もちを引きかけ、中の枝にはイカルガを繋いで、下の枝にはヒメを繋いで、
おまえの母を取るとも知らず、おまえの父を取るとも知らず、

遊び戯れているよ、イカルガとヒメは。

尚、"豆回し"は、様々な鳥を飼っていた歌人が好んだ名称のようである。
「二条中納言定高斑鳩を壬生家隆に贈るとて詠歌の事」[「古今著聞集」巻二十"魚蟲禽獣"(第三十編)#706]
二条中納言定高卿、斑鳩を家隆卿の元へ贈るとて、詠み侍りける、
 斑鳩よ "まめうまし"とは 誰もさぞ
  聖憂きとは 何を鳴くらん

(参照:「古今著聞集」日本古典文学大系 84 [永積安明 島田勇雄 校注] 岩波書店 1966年)

(Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)
[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

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