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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.11] ■■■
[附57] 道祖神に於ける習合
「今昔物語集」収録譚には示唆に富む話がバラバラと入っているので、色々なことがわかってくる。

しかし、その仕掛けは自明ではないので、一般的には、エスプリを効かせた作品とは見なされていないようだ。
引用譚集成の上、見方を記述していないから、示唆したい点や収録の意図が、すぐには読み取れないので致し方ないことではある。(巻末の編纂者の意見的一行は、まともに受け取るべきではない、というのが大前提。)
それに、手を入れたりもしているが、意見を入れ込むための潤色に映らないようにしているから、厄介度が増している。

いわば、読者を突き放し、勝手に想像してみヨと挑発しているようなもの。
読み手の能力が試されている作品とも言えよう。

1,000を越す収録譚のなかでは、ほとんど目立たないが、道祖神についての話を収録しているので、これをネタに、そんな観点で考えてみよう。
  【本朝仏法部】巻十三本朝 付仏法(法華経持経・読誦の功徳)
  [巻十三#34]天王寺僧道公誦法花救道祖語📖熊野の地
  ⇒「大日本国法華経験記」下巻#128紀伊国美奈倍郡の道祖神:熊野

ここで登場するのは、相当に古くに祀られた道祖神。
熊野参詣の道筋で、僧も、その存在に気付かなかったのだが、たまたま遭遇することになったのである。と言っても、それは像とか石碑というレベルではない。古くに造られ、風雨に晒され放置状態だったので、原形がよくわからぬほどになってしまった"石"なのだ。しかし、その石には"今も"神が宿っている。
 天王寺に住む僧有けり。名をば・・・道公。・・・
 熊野より出でて本寺に返る間、
 紀伊の国の美奈部郡の海辺を行く程に日暮れぬ。
 然れば、其の所に大なる樹の本に宿ぬ。
 ・・・
 樹の本を廻り見るに、惣て人無し。
 只、道祖の神の形を造たる有り。
 其の形、旧く朽て、多の年を経たりと見ゆ。
 男の形のみ有て、女の形は無し。
 前に板に書たる絵馬有り。・・・

筋としては道祖神の仏教帰依談である。法華経験記からの引用であり、法華経読誦の功徳の巻収録譚ということで、通りすぎてしまいがちな内容。・・・

道祖神が僧の慈悲のお蔭で、与えられた役割を果たすことができ感謝するとともに、法華経読誦を僧に依頼し転生達成のストーリー。道祖神の仕事ぶりからして、震旦の官僚制ヒエラルキーを彷彿とさせるものがあり、道祖神は渡来コンセプトであることもわかるようになっている。(神は天に所属する衆生。六道の人間の上に居るが、寿命が来れば転生。仏教の本質、六道からの解脱の話はしないというのが、「今昔物語集」の一貫した姿勢。)

読む方からすれば、成程、これが熊野参詣道の王子が生まれた端緒かとなる。おそらく、権現の"子"としていくつかの社が建造され、参詣大流行で次々と道祖神がそこに追加されていったのか、と。
しかし、それに何の証拠もないから、それにどんな意味があるのかという話に発展させることは難しい。
どうしても挑戦が必要なのである。

実は、ここでのポイントは信仰対象が、古い石造の陽物らしきこと。
そう言えば、おわかりになるかも知れぬが、それは地蔵尊であってもよいのである。
そこら辺りの見方をまとめておきたい。
それによって"習合"の由来が見えてくるからである。

結論を先に言っておこう。

表面的には仏教が神仏"習合"を主導しているように見えるし、当の仏教教団もそう考えていそうだが、実は逆なのである。
「今昔物語集」編纂者はそのことに気付いたのである。
南都では仏教習合は困難を極めたが、北京では神から仏教帰依を進めた話になっているのは、おそらく本当の話である。教団としては、神を折伏したと考えていたかも知れぬが、そうではない。本朝の神はそのような体質なのだ。

考えてみればそれは当たり前のこと。
少々長くなるが、ご説明させて頂こう。

先ずは、樹木と岩石は、ヒトのお隣感があってもおかしくないという点について。
「古事記」がいみじくも指摘しているように、当初の神は人格的なものではない。姿形ははっきりしないが、自然に生まれてきたのである。そして、ヒトのすぐ隣に居り、近しい仲でもある。あの世もあるものの、この世は連続的な地。
これからすると、ヒト以外への転生観があったとは思えないが、"神の世界+人間界+動物界+奇異霊界+冥界/根の国"は一つの世界と見ていたのだから、仏教の六道観にそれほど違和感を覚える筈がない。

そのなかで、原日本列島渡来人の時代から特別視されたのは樹木と岩石と言えるのでは。

ただ、曖昧な見方をすると間違い易い点でもある。
樹木は生命体だし、本朝では樹木あって生活が成り立っている以上、ヒトと同じように魂があるとの信仰があってもおかしくなかろう。ヒトは青草に過ぎないのだかあら。
しかし、水ならまだしも、流石に、岩石となると生命体扱いは難しそうだ。黒曜石を考えると、岩信仰そのものはあり得るものの。
ところが、よくよく考えると、"育つ石"(Trovant/セメント石)も存在していたのである。黒曜石を発見するほど、自然観察眼を鍛えている古代人から見れば、石に生命が宿っている場合もあると考えておかしくなかろう。
 📖【岩信仰のタイプ】@国産みにおける淡路島の意味
 📖【ドルメン")】@墓制と「古事記」

次に、ここに霊の概念が入り込む原始信仰の次第を確認しておこう。
本朝の場合、汎霊アニミズム信仰ではなく、霊力マナイズムである点が重要。📖蛇信仰風土を考える(先ずは折口/吉野論から)
つまり、特定のモノに憑依した霊が威力を顕わすと考えていたということ。
そのため、呪術や特別な行為により、モノに神霊が憑依することになる。その姿は見えないし、見るべきではない。拝礼対称は依代となる。
従って、仏像とは蕃神が憑依した依代と見なされたと考えるのが自然である。如来のように思弁的存在であると難しかろうが、解脱前の六道に居る菩薩像なら、本朝の神霊の依代ということになり、違和感を覚えることはなかろう。

そこで、道祖神である。
本朝では、もともと存在していた神ではなさそうだが、陽物であるとすればそれは、本朝信仰と震旦信仰の混交であることが歴然としている。さらに、それが修験道の王子になっていく、と言うのが上記の譚。

陽物石棒は遺跡出土で知られるが、証拠が集まらないので、その由来の解説は歯切れが悪い。
しかし、氷川神社があるような地に住み、信州に遊びに行くことが多かったりすると、想像力を働かせればそう難しいものではない。
建御名方神を御祭神とする諏訪神社の壮麗で豪気な御祭についての話を聞くことが多いからだ。センスで受け取り方は違ってくるが、この特徴は"神木降臨・御石神信仰"なのである。
木が依代であるが、さらにそこから石に神霊が御移りになるという観念があったとされ、御石神/(み)シャグジ…信仰と呼ばれるというのである。樹木の根元にこの石が置かれるという。石の形態は様々だったようで、男女の表象になることも少なくなかったようだ。
常識的には、降臨する必要がない地母神が係っているのだろう。

この石だが、古代遺跡では、集落護持の神霊である筈だが、集落外というか境にも設置されていたらしい。
分霊なのかははっきりしないが、外部から集落を守護する力があるとして設置されたのは明らか。
その伝統はずっと受け継がれ、やがて石地蔵となり、さらには道にも置かれるようになったと見ることもできよう。

京都の地蔵盆は、この系譜に連なる行事のように映る。子供のお祭りでもある点を見ると、それは仏教渡来以前の風習を伝えている可能性もあろう。集落外に設置した石を集落メンバーが祀るのはできれば避けたい筈だからだ。渡来者や成人前の遺骸は集落墓地には入れないから、そのような霊の鎮魂は必須であり、石造りの地蔵菩薩にその役割を期待するのは自然な流れと思えるからだ。

本朝では、その体質上、実利さえあれば、外来だろうが喜んで新しい信仰を受け入れる。
現世での生活を大切にしており、生活に根差す信仰だからだ。従って、生活上意味が薄い信仰は急速に薄れ、重要とされる祈願に応える信仰が勢いを増していく。
当然ながら、利が認められても、そのような柔軟性を失いかねない理念神は受け入れがたいものがあろう。
ただ、実利中心で、新しもの好きといっても、コミュニティがバラバラになれば生活は破綻しかねないから、そこだけには気をつかう。従来からの仕来たりと、新潮流を上手く併存させるために工夫することになる。当然ながら、コミュニティ毎に状況は違うから、本朝全体で一枚岩にはなりにくい。それこそが、雑種的人々が生きて行く上での貴重な智慧かも。
(本朝における祖先霊崇拝もこの原則に従っており、氏神様信仰とはコミュニティとしての仲間の絆を強化するもの。コミュニティに於ける日々の生活安寧を実現してもらうための崇拝となっている。敵者撲滅と血族利益極大化を祖に誓う宗族儀式とは一線を画す。)

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