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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.23] ■■■
[146] 熊野の地
熊野の地での代表的な話はすでに3つ取り上げた。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#13]通大峰僧行酒泉郷語 [→大峰山]
大峰を通っていた僧が道に迷い、酒が湧き出る泉のある郷に出くわす。秘密が漏れぬよう殺されそうになったが、どうにか難を逃れた。約束を守らず、里に出て話をした。

  【本朝仏法部】巻十三本朝 付仏法(法華経持経・読誦の功徳)
  [巻十三#_1]修行僧義睿値大峰持経仙語 [→仙境]
熊野参詣修行僧が、大峰で道に迷う。山中で僧房に出くわす。法華経読誦聖人が住んでおり、鬼が集まっていた。

  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#_3]紀伊国道成寺僧写法花救蛇語 [→"道成寺"]
有名すぎる譚である。

そう言えば、One of them的な信仰の地の一つとの印象を与える譚もあった。
修行僧は、諸国を巡り歩き、有名な聖跡でお籠りという生活だったようだ。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#18]僧明蓮持法花知前生語 [→前生蟋蟀の僧]
前生を知りたい僧が夢で牛であることを知る。
稲荷参詣百日籠⇒長谷寺・金峰山各一夏参籠。⇒熊野参詣百日籠⇒(夢)⇒住吉明神⇒(夢)⇒伯耆大山一夏祈請。


ただ、熊野の地は、明らかに他とは環境が違う。
前方後円墳の文化も到達したかった僻地と見るべきだろう。未開の森林が広がり、大きな寺がある、僅かな場所を除けば、住民の数が桁違いに少なかったということ。

海岸沿いは、かなり飛び飛びに小さな集落があるだけだし、山間部は川沿いに、互いに隔絶されていそうな小集落がポツポツ存在するにすぎない。
熊の野と云う名前から見て、熊を頂点とした、多種多様な動物が棲んでいた筈で、俗世間から離れて、動物と同じ境遇で生きていこうとの決意に至れば、山中は温暖湿潤だから、森へと入っていくことに躊躇することはなかったと思われる。
山中で朽ち果ててかまわぬという姿勢で、浄土に行くことだけを紀念する修行者が多かったのだろう。

「古事記」の記載から見ても、この地の歴史は古そうで、黒潮の海人系統である可能性が高く、国家観念が薄い小部族主義の孤立集落が多かったと思われるが、仏教への帰依は進んでいたようだ。土着信仰と仏教の親和性が高かったのかも知れない。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#31]僧死後舌残在山誦法花語
 阿倍天皇期[764-770年]の話。
 紀伊牟婁熊野の村に住む永興禅師はもとは興福寺僧。
 俗称 葦屋君氏で摂津豊島の人。
 海辺の人々や辺りの住人を教化しようと、熊野にやって来たのである。
 辺りの人々は禅師を尊び、菩薩と呼んでおり、
 天皇から南菩薩との号を頂いた。
 ある時、一人の僧が訪問。
 持物は小さな文字で八巻を一巻に書写した法華経一部のみで、
 他には、白銅製水瓶、縄床、縄や木綿を張った粗末な腰掛け一脚だけ。
 菩薩に従って、常に法華経読誦。
 一年ほど後、この僧は、山を越え伊勢に行こうと考え、
 縄床を菩薩に与えた。これを聞いた菩薩は別れを惜しみ、
 餅米の干飯を搗き、篩を通した粉2斗を与えた。
 そして、男2人に送らせた。
 僧は1日だけ送ってもらっが、
 そこで持物の法華経、鉢、干飯粉、等々を
 送ってきた男たちに与え、僧坊に帰らせた。
 水瓶と二十尋の麻縄だけを持ち別れたのである。
 この状況を聞いて、菩薩は悲しんだ。
 それから2年後のこと。
 熊野の人が熊野川上流の山に入り、
 木を伐採し船を造っていた時、
 山中から法華経読誦の声が微かだが聞こえて来た。
 造船中長期間に渡って山中にいたのだが、
 その声は止むことがなかった。
 人々はて、尊びながらも、怪しく思って、
 読誦者を尋ね、供養しようと思いたち、
 持参の食糧を持し、捜索したものの発見できず。
 ところが、<元の場所では、その声が聞こえてくる。
 それから半年が経ち、
 完成した船を引き出すために山に入ったところ
 読経の声が同じように聞こえてくる。
 皆、大いに怪しみ、里に帰ってからこの事を菩薩に話した。
 菩薩は、すぐに、その山に出かけ、
 法華経読誦の微かな声を聞いた。
 不思議に思い、尊くも感じ、
 捜索しても人が見つからなかったが、死骸が一つあった。
 側でよくよく見ると、麻縄で両足を縛り、
 巌から身を投げて死んだようである。
 白骨化しており、麻縄も朽ち、残っているのは白銅の水瓶一つ。
 僧坊に別れを告げて去っていった僧が、
 この山で修業し、この世を厭い
 身を投げてしまった姿なのであった。
 菩薩は泣き悲しみ、戻って、
 船を造っていた人々を呼び集め、
 事情を話したので、
 皆、限りなく尊び悲しんだ。
 その3年後、
 菩薩は山に入り同じ場所に行くと
 同じ声が聞こえた。
 亡骸を集めようと髑髏を見ると
 舌だけが朽ちずに付いていた。
 奇異で、貴いことであり、
 法華経読誦の功徳を積んだ霊験であるということで
 泣き悲しみながらも、尊び、礼拝して帰ったのである。


上記の話では、熊野は紀伊の牟婁に属すことになっているが、一般に言う熊野とは紀伊牟婁の総称である。熊野は「日本書記」には国として記載されていないから、行政上の国はなかったと見てよさそう。しかし、熊野国造(熊野直氏)と紀伊国造(紀直氏)が併存していたようだ。

と言うことで、熊野とは記載されてはいないが、ほとんどその地ということで、以下の譚も該当しよう。ただ、熊野らしき特徴は見当たらない。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#29]沙弥所持法花経不焼給語
 聖武天皇期[724-749年]のこと。
 俗性榎本で名が無く、紀伊牟婁の出身なので、
 牟婁の沙弥と言われている人がいた。
 紀伊安諦荒田(有田川上流)に住んでおり、
 剃髪し、袈裟着用で、沙弥と称してはいるものの、
 その振舞いは俗人の如くで、
 朝から暮れ迄、家業を営み、
 妻子や従者を養うことに精を出していた。
 そのうち、男は
 法の如く清浄にし、法華経一部を書写奉納との願を発起。
 そこで、写経場所を設け、身を清めて入り、書写。
 大小便の時毎に沐浴し、
 さらに身を清めてから入って写経の場に座していた。
 このようにして、六ヶ月かかって完成。
 法に随って供養し、そのために作った漆塗りの筥に納めて、
 住家の中の清浄な場所に安置。
 その後は、時々取り出して読誦。
 そうこうするうち、769年5月23日正午頃だが、
 沙弥の家が火事に。
 建物は丸焼け。家財道具等も皆焼けてしまった。
 お経の筥も取り出せなかったので焼失と見ていた。
 鎮火したので見てみると、
 法華経も焼失してしまったものと諦めていたところ、
 まだまだ熱い火の中に、
 法華経を入れた筥が残っていた。
 奇異と思い、急いで筥を取り出してみると、
 どこにも焼け損じた部分がなかった。
 沙弥は、泣き悲しみ、蓋を開けたところ、お経は元のママ入っていた。
 沙弥はますます心して貴ぶようになり
 これを聞いた人々も、競って訪れてこのお経に拝礼し、
 多くの人が、貴き信仰を発するようになった。

何故に、火事の日が詳細に記録されているのかわからぬが、769年は宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)の年である。

熊野らしさという点では、やはり"僧死後舌残在山誦法花"の方だろう。
温暖湿潤な深い森で修行者が死ぬことは多かったと思われ、茸や粘菌が繁殖し易いから舌だけ残っている遺骸が見つかることも他の地域より多かったかも。それに、森には様々な音が生まれるから、それが法華経読誦に聞こえてもおかしくない訳で。

舌が残る話はもう一つある。
  【本朝仏法部】巻十三本朝 付仏法(法華経持経・読誦の功徳)
  [巻十三#11]一叡持経者聞屍骸読誦音語
 持経者 一叡は、幼時より法華経を持経し、
 日夜読誦し、長い年月を経て来た。
 そんなことで、一叡は志を立てて、熊野参詣。
 その道途中で、完の背山という所に宿泊。
 夜になると、法華経読誦の声が聞こえてきた。
 その声は限りなく貴い。
 これは、他の人が泊まっているのかも知れぬと思いながら
 終夜、この声を聞いていた。
 暁になり、法華経一部の読誦が完了した。
 夜が明け、その辺を見ると、宿泊者はいない。
 ただ、あったのは、死骸のみ。
 近くに寄って見ると、骨が繋がって離れない状態だが
 骸の上には苔が生えており、多くの年月を経ていそう。
 髑髏を見ると、口の中に舌があった。
 その舌は鮮やかであり、生きている人の舌のよう。
 一叡、これを見て奇異と思もい、
 夜、経を読み奉っていたのは、この屍だった、かとわかる。
 どんな人がここで死んで、この様に読誦するのか、と思って、
 哀れに貴く、泣き泣き礼拝。
 その経の声を尚更聞きたいと思い、
 その場所に留まった。
 その夜、再び聞くと、前夜の様に読誦。
 夜明けになり、一叡は、屍骸のもとに寄って礼拝。
 そして、
 「屍骸といえども、法華経読誦をされておられる。
  その心が無い筈がなかろう。
  我、その本縁を聞こうと思う。
  必ずや、この事をお示しあれ。」と言った。
 祈請、その夜、聞くために留まった。
 その夜の夢に、僧が現われ、示して言ったのである。
 「我は、天台山東塔の住僧。名は円善。
  仏道修行にこの場所に来て不慮にも死亡。
  生前、6万部の法華経読誦の願があったが、
  読誦し終えたのは半分で、
  もう半分を読誦しないうちに死んだ。
  そのため、読誦し終えるまでこの場所に留まっている。
  もう残りは僅か。
  今年だけはここに留まることになるが、
  その後は兜率天の内院に生まれ、
  慈氏尊を見奉らむ所存。」
 そこで、夢から覚めた。
 一叡、屍骸を礼拝し、そこを出発し熊野参詣に。
 帰りがけの年、その場所に行って屍骸を尋ね見たが、
 そこにはなにも無かった。
 それに、夜まで留まって聞いていたが、
 その声は聞こえてこなかった。
  一叡は、
 夢でお告げなさったように兜率天に転生されたと知り
 泣き泣き、その跡を礼拝して返ったのである。


熊野道の難所、鹿ヶ瀬峠の大峠側北東に法華壇があるが、円善上人客死地(伝947年)の供養塔である。現在も養源寺/鹿ケ瀬山法華寺が円善祭を執り行っている。

この地には土着の蛇信仰があったことを示唆する話もある。
  [巻十三#17]雲浄持経者誦法花免蛇難語
 持経者 雲浄は、若い時から日夜法華経読誦して年を経た。
 そうこうするうち、諸国を巡礼し、色々な所の霊験所を拝もうと思いたち、
 熊野参詣に立ち、
 その途中、志摩を通り過ぎる間に日が暮れてしまった。
 宿泊に行ける場所がなかった。
 どころが、大海の辺りに高台の岸があった。
 その岸に大きな巌の洞があったので、そこに泊まることにした。
 人里から離れた界隈で、
 洞の岸の上には木が隙間無しに生い繁っていた。
 雲浄は洞の中におちつくと、
 心をこめて法華経読誦。
 ところが、洞の中は限りなく生臭い。
 恐れていると、夜半に微風が吹いてきて、
 尋常ではない気配。生臭い香りが益々増してきたのである。
 驚き恐れたが、即刻立ち去る訳にもいかない。
 暗い夜であり、東西もわからない状態。
 ただ大海の波の立つ音が聞こえて来るだけ。
 そうこうしているうち、
 洞の上から大きな者がやって来た。
 驚き怪んで、よく見れば、大きな毒蛇。
 洞の入り口におり、雲浄を呑もうとしている。
 雲浄はこれを見て、
 「我、ここで毒蛇のため、命を棄てることになる。
  但し、我は、法華の力により悪趣には堕ちず、
  浄土に転生するぞ。」と思い、
 心をこめて法華経読誦。
 そうしたところ、毒蛇はすぐに見えなくなった。
 その後、雨が降り、風が吹き、雷が鳴り、
 洪水が発生し、上の山を満たすまでに。
 長い時間が経ち、雨は止んで、空が晴れた。
 すると、一人の人が出て来て、
 洞の口から入り雲浄に向かって座る。
 誰なのかは知らないし。人が来る訳もないのだが、
 やって来たのだから鬼神だろうかと思ったが、
 暗いのでその姿は見えない。
 さらに恐怖していると、この人は礼して、言ったのである。
 「私はこの洞に住んで、生き物を害し、
  ここに来た人を食して、すでに何年を経てきた。
  今、又、聖人を呑もうとしたが、
  聖人の法華経読誦の声を聞いて、
  悪しき心を止め、善き心を起こした。
  今夜の大雨は、真実の雨ではなく、
  私の二つの眼から流れ出た涙。
  罪業を滅するために慚愧の涙を流したのである。
  これから後、私は決して悪しき心を起こさない。」
 そして、消え入るようにいなくなった。
 雲浄は毒蛇の難を免れ、さらにさらに心をこめて法華経読誦。
 毒蛇のために回向も。
 毒蛇はこれを聞き善心を発しただろう。
 夜が明け、雲浄はその洞を出て熊野参詣に。
 夜の雨風雷の跡は、その洞以外には無かった。


蛇ではなく、男根信仰も。天竺におけるリンガなのであろう。
熊野であるから、観音菩薩の補陀落山へと転生する話になっている。
  [巻十三#34]天王寺僧道公誦法花救道祖語
 天王寺に住む僧 道公は年来、法華経読誦で仏道修行を続けていた。
 常に熊野に詣でており、夏の安居をそこで勤めていた。
 ところが、熊野から本寺に帰る途中、
 紀伊美奈部の海辺で日が暮れてしまった。
 そこで大樹の下で宿ることに。
 夜半頃、馬に乗った人が、20〜30騎来て、樹の辺りに。
 何者かとと思っていると、
 一人が
 「樹のもとの翁でございましょうか?」と言う。
 すると、この樹のもとが答え
 「翁でござる。」と。
 道公はこれを聞き、驚き怪んで、
 この樹のもとには人がいるのだろうかと思っていると
 又、馬に乗った人が
 「速やかに罷り出てお供としてお仕えするように。」と言う。
 すると、樹のもとは
 「今夜は参ることができません。
  その理由は、駒の足が折れ損じて乗ることができないからです。
  明日、駒の足をつくろうか、別の馬でも探してから参りましょう。
  年老いておりますので歩いて行くことはできませぬ。」と言った。
 馬に乗った人々はこれを聞いて、皆通り過ぎていったようだった。
 夜が開け、この事を極めて怪しみ恐れた道公は
 樹のもとを巡って見たのだが、人はまったくいない。
 ただ、道祖神の形を造った物があるだけ。
 その形は古く朽ちており、長年経てきたように見えた。
 男の形
(陽物)だけで、女の形(陰物)は無い。
 その前には、板に描いた絵馬があり、足の所が破れていた。
 道公はこれを見て
 昨晩はこの道祖神が言ったのだとわかりますます奇異に思い、
 破れている絵馬の足の所を糸で綴ってから、元のように置いた。
 道公は今夜よく見ようと思い、その日も樹のもとに留まった。いた。
 夜半頃に同じように多くの馬に乗った人が来た。
 道祖神も又、馬に乗って出て共に行った。
 暁になって、道祖神が帰ってくる音が聞こえてきた。
 すると、年老いた翁が来た。
 誰だか知らないが。翁は道公に向かって拝んで言った。
 「聖人が、昨日、駒の足を治療して下さり、
  翁は、公事を勤めることができました。
  報恩はし難いものがあります。
  我は樹のもとの道祖神でございます。
  多くの馬に乗った人は行疫神で
  国の内を巡る時にに必ず翁の前役を務めます。
  もし、それに供奉しないと、笞で打たれ、罵言を浴びてしまいます。
  この苦痛は実に堪え難いものがあります。
  と言うことで、今、下劣な神の形を捨て、
  速やかにかに上品の功徳の身を得ようと思っております。
  聖人のお力に依るしかございません。」
 道公は答えた。
 「宣われたことは、妙ありと言えるが、
  これは我が力では及ばない。」
 そこで、道祖神は
 「聖人には、この樹の下で3日留まり給いて、
  法華経読誦頂き
  それを聞いていれば
  我、法華の力によって、
  すぐに苦の身を棄て、楽の所に生まれよう。」と言って、
 掻き消すように失せてしまった。
 道公はその言葉に従って、
 三日三夜座して、心をこめて法華経読誦。
 四日目のこと。翁が来て、道公に拝礼して言う。
 「我、聖人の慈悲に依り、
  今、既にこの身を棄て、貴き身を得よう。
  いわゆる補陀落山に生まれ、
  観音の眷属となり、
  菩薩の位に昇ろう。
  これは法華を聞き奉った故。
  もし、聖人が虚実を知ろうとお思いになるなら、
  草木の枝で小さな柴の船を造って、
  私の木像を乗せ、海の上に浮かべ、
  その作法を見てくだされ。」と。
 そして、掻き消すように失せてしまった。
 その後、道公は道祖神の言葉に随って、
 すぐに柴の船を造って、この道祖神の像を乗せ、
 海辺りに行って、これを海の上に放って浮かべた。
 その時、風が立たず波も無かったが、
 柴船は南を指して走り去ったのである。
 道公は、これを見て、
 柴船が見えなくなるまで泣き泣き礼拝してから帰った。
 また、同じ郷に年老いた人がいたが、その人の夢で、
 この樹の下の道祖神が菩薩の形となり、
 光を放って照らし輝いて、音楽を発し、
 南を指して遥かに飛び昇ったのである。
 道公はこの事を深く信じ、本寺に帰ってから、
 さらに並々ならぬ法華経読誦に打ち込んだ。


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