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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.20] ■■■
[附 28] 印度仏教消滅原因[6]
大乗仏教が生まれたのが1世紀というのに、7世紀になっても、インドには大乗仏教教団がなかったのである。
このことは、在家は全く組織化されておらず、ストゥーパでの集まりがいかに華やかで注目されるものであっても、一過性のイベントでしかなかったとことを意味しよう。

それがわかると、天竺仏教史の結節点は自明である。
  ○釈尊初転法輪
  ○アショカ王仏教帰依
  ○グプタ王朝[320-600年]下 神話説話集編纂

グプタ王朝は仏教を保護した。
名目的ではなく、ナーランダ僧院が建立されたほど。アジャンター石窟寺院の時代でもあり、仏教が結構盛んであるかのように思ってしまう。国際交易が盛んだったことを意味しており、それは表面的には決して間違いではないものの、この時点で仏教は没落の一歩を踏み出したと考えるべきと思う。

国家としては、伝統的なベーダ経典の祭祀を行っており、国中の婆羅門勢力を最大限に統治に活用していたことが大きい。このことで、仏教は在家との接点を急速に喪失することになったのは間違いないからだ。
と言うのは、都市文化の隆盛が、叙事詩を生み出したからでもある。
「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」。さらに、伝承説話集「パンチャタントラ」も広まった。
これで、在家の心は仏教譚から離れてしまったと言ってよいだろう。大家族制の社会であるから、2世代で仏教から無縁になってもおかしくない。そうなれば、仏教教団は社会から遊離したエリート沙弥の集まりと見られてしまう。教団存続の根拠が失われ始めた訳だ。

一方、この期、仏教文芸は生まれなかったようだ。仏教教団は、この波を傍観するしかなかったのである、大乗教団が無く、在家を組織化してこなかったから、気にもならなかったのかも知れぬ。
方向転換どころか、各地バラバラで進めて来た大乗経典を集め、大部の経典を編纂するために全精力を注ぐ道を選んだのである。

この流れのなかで、大衆の心をつかむことになるのは、大衆祭祀を行っている勢力以外にありえまい。仏僧がそれに気付いた頃は手遅れだろう。
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