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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.4] ■■■
[432] 復仏期造像
【震旦部】巻六の阿弥陀仏霊験は6譚あるが、どうして割愛せずに収録したのかわかりにくいもの[#17]を取り上げておこう。

もっとも見方によっては、単に、原典から、ひと並びに持って来ただけとなるが。(但し、「三寶感應要略」収録の譚番号は元本によっては全然違う。ここでは、一連番号にした方が面白いからそうしているだけで、原本の検討は全くしていないし、引用本を統一する気も全くないので、ご注意のほど。)

  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
     📖「三寶感應要略」引用集 📖推定「三寶感應要略」下巻引用
  <11-30 像>
   《15-20弥陀仏》
  [巻六#15] 震旦悟真寺恵鏡造弥陀像生極楽語📖終南山悟真寺
  ⇒「三寶感應要略」上_7悟真寺釋惠鏡造釋迦彌陀像見淨土相感應 …新録
  [巻六#16] 震旦安楽寺恵海画弥陀像生極楽語📖阿弥陀仏五十菩薩図
  ⇒「三寶感應要略」上12隋安樂寺釋惠海圖寫無量壽像感應
     (出唐高僧傳)

  [巻六#17] 震旦開覚寺道喩造弥陀像生極楽語
  ⇒「三寶感應要略」上13隋朝僧道喩三寸阿彌陀像感應
     (出瑞應傳)

  [巻六#18] 震旦并州張元寿造弥陀像生極楽語📖并州の仏教
  ⇒「三寶感應要略」上14并州張元壽為亡親造阿彌陀像感應
     (出并州記)

  [巻六#19] 震旦并州道如造弥陀像語📖并州の仏教
  ⇒「三寶感應要略」上15釋道如為救三途衆生造阿彌陀像感應
     (出并州記)

  [巻六#20] 江陵僧亮鋳弥陀像語📖洞庭湖文化圏
  ⇒「三寶感應要略」上16宋(江陵長沙寺)沙門釋僧高造丈六無量壽像感應
     (出梁高僧傳 珠林中取意)


小生は、[巻六#17]の話は霊験にしては余りに凡庸な感じがした。僧が仏像を造りましたというだけで、さっぱり面白くないからだ。

しかも、主人公の道喩/道がどのような僧なのか調べてもわからないとくる。
ただ、「今昔物語集」の題名には、原典では題から落としている寺の名前をわざわざ入れている。しかし、検索してすぐにわかるような寺でもない。それに何の意味があるのか、はなはだ理解に苦しむ訳だ。
あと、分かっているのは、隋代の話であること。だが、原典ではもう少し細かく"開皇八年"との記載あり。
と言うことで、ここで、そういうことかと気付いたのである。もちろん、邪推の可能性もあるが。

つまり、588年のこと。
廃仏の北周武帝路線を180度転換し復仏を一気に進めた、隋朝初代の文帝楊堅[在位581-604年]の時代ということ。
601年[仁壽]、"隋国立舎利塔詔"。
総数にして300余州のうち114とも言われる地に、沙門を派遣し起塔したのである。その第二回、智揆は、魏州武陽の開覚寺に建塔の為に派遣され、舎利を奉送したようなのだ。

つまり、ここは地方の国分寺での話。しかも、廃仏で瓦解した寺をどうやら復興したばかりということ。
仏像がどうなっていたのかもわからないが、復仏の第一歩として、入手が大変な正真正銘の香木で、3寸という小さな阿弥陀仏像を心を込めて造ったのである。自分で彫り上げたのかも。大きな像を造りたくても、まだその力がなかったのである。


 開覚寺の僧 道喩は、年来、ひたすら阿弥陀仏を念じ奉っており、
 栴檀
(白檀)で、3寸の阿弥陀仏像を造った。
 そうこうするうち、突然、死亡。
 葬儀をしないでいたら、7日目に生き返った。
 そして語ったのである。
 「我、死んで、初めて目に入ってきたのが、止事無き気高き人。
  七宝の池の辺に行き、3回、華を廻ったのだが、
  そうすると、すべて開花。
  その人は、池に入って、咲いた華の上に坐した。
  それを見て、道喩も同じ様に華を廻ったが開花せず。
  それならと、手で花を取ったところ、皆、萎んで落ちてしまった。
  その時、(お造りした)阿弥陀仏がそこにいらっしゃって、
  お告げになった。
  "汝、暫くの間、本国に帰還し、
   専心し、諸々の罪を懺悔するように。
   さらに、香湯で身体を沐浴すること。
   明星が出る時になったら、我が汝を迎えに行く。
   それに、我が像を造るに当たっては、
   大小の違いがあることを心するように。
   心が大きいなら、即ち大像。
   心が小さいなら、即ち小像。"と。
  すると、その像は、虚空に消え去ってしまった。」
 その後、道喩、仏の教へに随い、
 香湯で沐浴。専心し、諸々の罪を懺悔。
 その上で、諸々の人々に告げた。
 「汝等、道喩を救うため、念仏を修するように。」
 勧めてから、自らも念仏を修した。
 明星の出る時になり、
 化仏が道喩の居る所にご来臨なさった。
 々の人々、この様子を、見聞きしたのである。
 その後、道喩逝去。

…隋朝僧道。於開覺寺。念阿彌陀佛。造栴檀長三寸。後道忽死。經七日却蘇云。初見一賢者。往生至寶池邊。賢者花三匝。花便開敷。遂入而坐。遶花三匝不為開。以手撥花。花隨萎落。阿彌陀佛告言。汝且歸彼國。懺悔衆罪。香湯沐浴。明星出時我來迎。汝造我像。因何太小。曰。心大即大。心小即小。言已像遍於虚空。即依香湯沐浴。一心懺悔。謂衆人曰。為念佛。明星出時。化佛來迎。光明衆皆聞見。即便命終。時開皇八年矣。

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